「あなたは知るだろう」

 店を出て「まだ飲み足りない」とハシゴする気満々の酔っぱらい共から暖かく酒臭いハグをされ、陽炎は二人と別れて帰り道を歩き出した。

 ポケットからチューインガムを取り出し、口に放り込む。むぐ・むぐ・むぐ・むぐ・むぐ・むぐ・むぐ・むぐといつもより神経質な八拍子が早足の靴音とセッションを奏でるが、だんだんと緩やかなテンポに変わり、ついには完全に足を止めた。

 陽炎はその場に立ち止まったまま、ガムをふくらませては割り、ふくらませては割りを繰り返し、どこを見るとでもなく物思いにふけっている。

 やがてひときわ大きくふくらんだガムがパチンと音を立てて弾けた瞬間、陽炎は回れ右してMPB本部へとは逆の道を歩き始めた。

 こんな気持ちじゃ帰れない。このまま帰って寝てまた明日、でいずれ事態が好転するのを期待するなんて後ろ向きな態度を、今の私は到底許容できない。

 早足から駆け足、本気の走りへ。髪も服も振り乱し、機械仕掛けの脚力で歩道を全速力で疾走していく。

 夜は短し、走れよ乙女。確か日本の格言にこんなシチュエーションがあったなとどうでもいいことを考えながら、陽炎はミハエルが住むアパートへと向かうのだった。


 乱れた息を整えつつインターホンのチャイムを鳴らすと、部屋着姿で眼鏡をかけたミハエルが出迎えた。左目の負傷で視力が落ちたため、プライベートでは眼鏡を使うようになったのだ。今かけているのは、陽炎がプレゼントしたブラウンのオーバルタイプのセルフレーム。柔らかな印象で彼のキュートな一面がより引き立って、我ながら素晴らしいチョイスをしたものだと確信している。

「どうしたこんな時間に。地下鉄メトロの終電にはまだ早い──」

 その脇をするりと抜け、陽炎はミハエルの部屋へと入った。ワンルームに雑然と、しかしどこに何があるかきちんと整理されて置かれた家具や生活雑貨の数々──開いたままのソファーベッド/テレビ/テーブルとイス二脚/小さな冷蔵庫/マガジンラックに収まりきらずうず高く積まれた雑誌の山/かさばる趣味の道具は車中に/仕事関連の荷物は見当たらず。

「どうやら機嫌が悪いみたいだが、後輩とでもやり合ったか? もしくは副長と──」

 追いかけて後ろから肩に触れようとしたミハエルの右手首を、陽炎は半身を向いて左手で握った。そのまま右手でミハエルの胸倉をつかみ、自分の方へと引き寄せる。彼の上半身が自分の背中に乗った瞬間、勢いよく身を屈め右肘をミハエルの右脇に差し入れて、両手を思いっきり手前側に引き下ろした。

(えーと、こうだったかな)

 以前MSSとの合同訓練でツバメ小隊長が披露してくれたジュードー柔道の“背負い投げ”。見様見真似、義手の力任せによる投げだったが、驚くほど鮮やかにミハエルの巨体をソファーベッドの上へと投げ飛ばしていた。

 マットレスの上で彼の身体がバウンドし、衝撃で天井からホコリが舞い、山積みの雑誌が盛大に崩れ落ちる。息が詰まって身動きが取れないうちに素早くベッドに上がり、反転してミハエルの上にまたがった。両肩を押さえつけ、四つんばいで体重をかける形で彼と顔を合わせる。

「陽ろ──」

「私を見ろ、ミハエル」

 有無を言わせず、陽炎は顔を近づけた。長い赤髪がばさりと垂れ落ち、二人の体温と息づかいが赤いヴェールの中にこもる。

 投げ飛ばした拍子に眼鏡がどこかへ飛んでしまい、ミハエルの目が露になっている。ひどく静かな茶色の瞳は、こんな状況下においてもなおその静謐さを崩さない。

 。ここまでされても、怒りも悲しみもしてくれない。むしろ、これから何が起こるにしてもその全てを既に受け入れようとしている。

 投げた時の勢いでシャツのボタンが千切れ飛んで、たくましい胸板が露になっていた。左胸にまだ真新しい銃創の痕が残っている。あの森で、自分の代わりに撃たれた時のもの。

 どこまでいっても、自分は彼の中で守るべき存在であり、罪の精算を請い願う相手でしかないのか。怒りを通り越して、悔しさが込み上げてきた。

「……いつまで」

 語尾が震える。

「いつまで、私はあなたの過去なのですか。何もかもに蹴りをつけて、生き延びたのに、いつになったら今の私を見てくれるんですか」

 私はもう大丈夫だから。背中を守ってもらわなくても、罪の残りを告白しなくても大丈夫だから。だから、お願いだから──

「答えろ、ミハエル・宮仕・カリウス!!」

 腹の底から絞り出した叫びはほとんど泣き声に近く、陽炎は堪えきれずにミハエルの胸元に突っ伏し、声を上げて泣き出した。感情の全てに火がついたように、顔面も喉も肺も灼けるほどに熱く、止めることができない。

 どれだけの時間そうしていたろう、しゃくりあげる呼吸だけになった時、

「陽炎」

 名前を呼ばれ、陽炎は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を上げた。その額に汗まみれでへばりついてるほつれ髪を、ミハエルは右手の親指で撫で付けると、顔を起こして彼女の額に口づけた。

「……お前の額が好きだ」

 いきなりの不可解な告白にぽかんとする陽炎。口づけた跡をマーキングするかのように親指で撫でながら、ミハエルは言葉を続ける。

「お前の溢れんばかりの才能と知性がここからこぼれ出して輝いてるみたいでな、ついこうして触れたくなる」

 そう言って、口の端を少し歪めたいつもの渋い笑みを浮かべる。そのまま右手で彼女の頭を抱きすくめると、左手で上体を起こし身体を抱っこする形で体勢を入れ替えた。

「……いつか、俺はお前の前から立ち去ろうと決めていた」

 知ってます。胸の中で彼の体温と鼓動を感じながら、陽炎は穏やかな気持ちで男の告白に耳を傾ける。

「あの日、カフェでお前を誘ったのも、結局は最後の罪滅ぼしのつもりだった。告白の残りと自分の思い残し、その二つを精算して、お前が一人でも大丈夫な所を見届けてから、今度こそこの街ミリオポリスから去ろうと思った。だがな」

 ここでミハエルは一旦言葉を止めた。抱き止められてる彼の身体がほんのり熱を帯びていくのを陽炎は感じ取る。

「だがな、誤算だったのは、──俺が、もっとお前と一緒に過ごしたいと考え始めちまったことなんだ」

 パンパカパーン。この男にしては珍しく、

「こんなことはあってはならないことだ。中年のロートルが、抱いていい願望じゃない。何を告白しても、これだけは、墓の下まで持っていくつもりだった」

 そう告白しながらも、陽炎を抱く手は緩めず、むしろどんどん力強くなっていく。

「なのに、お前が今こうしてここにいる」

 陽炎はミハエルの顔を見上げる。色褪せた短い金髪/傷痕ですっかり無くなりかけた左眉/さっきまで静けさをたたえていたはずの茶色い瞳/以前より少し低くなった鼻/まばらに生えた無精髭──期待と信頼と失望と心配をこめて何度も何度も眺めたはずのその顔が、今は一面に「どうすればいいんだろう」という子供みたいな表情をしている。

 ようやくこの男の心からの本音が聞けた安堵と喜びで、陽炎はくすりと笑う。

「私は、もう大丈夫ですから」

「そうか」

 そうして、どちらからともなく身体を抱き寄せ、キスをした。

 カフェの時とは違う、穏やかで喜びに満ちた口づけ。かと思いきや、ミハエルがいきなり舌を差し込んできた。

「!?」

 陽炎の上顎/頬の内側/歯茎を愛撫するようになぞり/つつき/ねぶり、ついには舌の裏側に押し込んでた噛みかけのガムをほじくり出した。思わず身体ごと唇を離すと、なんとそのガムを噛み出し、あまつさえふくらませ始めた。

 ──本当に、この人は、もう!

 ガムをパチンと弾けさせ、いたずらげに笑うミハエル。それを見た途端、陽炎は今まで自分がやってきた行いに逆襲されたことを理解し、猛烈な恥ずかしさで顔が真っ赤になった。

「……すみません、そろそろおいとまします。長々とお邪魔しまし──」

 ベッドから立ち上がる陽炎の腕を、ミハエルが掴んだ。

「……待て」

「へ?」

「こんな時間まで、一人暮らしの男の部屋でさんざん暴れておいて、そのまま帰れると思ってるのか?」

 うっそー。男のレベル3スイッチ入っちゃってる? 自業自得のさらなる代償に対する“やっべー”という不安とは裏腹に“どうしようもう少しマシな下着付けてくればよかった”という後悔が押し寄せてきた。

 そんな陽炎の期待と不安をよそに、ミハエルは彼女の手を離し、ベッド脇のサイドボードを開くと何やらゴソゴソ探し始めた。

 え、何、道具あり? いきなりハードなのはちょっとなーでも縄くらいまでなら、といらぬ心の準備を重ねていると、ミハエルがそれをポンとベッドの上に置いた。

 将棋盤と将棋の駒。

 なんだー。露骨に肩を落とす陽炎。

「これまでの指南の成果を見せてもらおうと思ったんだが、乗り気じゃなさそうだな?」

「いえ、そんなことは……」

「どうせなら、何か賭けるか?」

「やりましょう」

 ベッドに腰かけて盤上に駒を並べるミハエルと向かい合う陽炎。ふと、その脳裏にひとつの考えが浮かんだ。

「では、私が勝ったらひとつ願い事を聞いてください」

「ほう、どんなだ?」

「イタリアの、母様に会ってください」

 瞬間、駒を並べる手が止まるミハエル。

「……結婚とか、そういうのではありません。ただ母様に紹介したいだけです。私は、この人のおかげで人生を取り戻せた、と」

 これまでで一番照れくさそうな、感極まったような笑顔を浮かべて、ミハエルは頭をボリボリとかく。

「──これ以上に光栄なことは、きっともう俺の人生には訪れんかもしれんな」

「いえ、きっとまだその先があると思います」

 二人は見つめ合い、ふふっと笑う。

「しかし、俺は手を抜くつもりはないぞ。全力で来い」

 駒を並べ終わったミハエルが、手振りで先手を促す。

「はい。コテンパンに負かしてみせますので」

 陽炎は新しいチューインガムを取り出し、口に入れる。んぐ・んぐ・んぐ・んぐ・んぐ・んぐ・んぐ・んぐと口中で正確な八拍子を刻み、希望と喜びを指先に込めて、最初の一歩を打ち出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

XXX,beyond れねねね @Re_nene4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ