「私は可能性に賭けた」

「それで? 旧市街で古書店巡りに美術館鑑賞、オペラ観劇、ラッフルズシティで日本の民芸品探しと将棋ショーギ指南、そいでこないだのトラウトフィッシングだっけ。片道5時間かけてリエンツまで足を運ぶなんて本格的よねー」

 そう言いながらリキッド式電子パイプの煙を吐くのは、MPB専属医師にして陽炎たち特甲児童のメンテナンス担当を務めるマリア・鬼濡キヌ・ローゼンバーグ。

「本格的ねぇ……兄さん一人ならともかく、女の子付き合わせるにしてはちょっと重いわよ」

 グラスワインをあおりながら不満を漏らすのはモリィ・マドカ・クラウス。MPB機動捜査課隊員でミハエルの実妹である。

 第二十四区エー・ヴェー──MPB本部ビル近くにできた真新しいレストランバー。そのカウンター席で両隣を二人に挟まれながら、ジンジャーエールのグラスを両手に持って座っている陽炎。

 そう、女子会である。

 違う。どうしてこうなった。

 そもそも自分は誰かにミハエルとの関係を話すつもりなど無かったのに、MPBでうっかり先日の釣りの写真をマリア医師せんせいに見られ、さらに運悪く通りがかったモリィ捜査官にも見られ、長時間にわたる尋問に等しい質問攻めの果てにここへ拉致されてきたのだった。

「やー、でもねー、好きな男性の色に染まりたいって年頃の女の子の気持ちってさ、見ていて、こう、いじましいものじゃない?」

 マリアが甘ったるくスパイシーな臭いの水蒸気を吐き出す。本人曰く、涼月が禁煙したおかげで自分も踏ん切りがついたそうで、最近ではフレーバーリキッドの調合にハマりだしたとか。ただ、サンプルを味見した他の隊員からは「甘ったるくて胸焼けがする」「涙と鼻水が止まらない、催涙ガスのほうがまだマシ」「むしろ煙草より健康に悪い」との評判。

「限度ってものがあるでしょう。未経験の女の子が道具一式買い与えられていきなり山奥でトラウト釣りなんて、背伸びの範囲を越えてるわ。わざわざミリオポリスを出なくても、釣りくらいドナウでできるじゃない」

 モリィがワインを一息に飲み干してバーテンダーにおかわりを頼む。さっきから何杯目だろう、もう軽く二瓶以上空けてる気がする。顔色は一切変わってないのに口数だけが異様に増えて普段以上に説教臭い。ていうか何が「背伸び」だ余計なお世話だ。

 MPBきっての美人女医と機動捜査課一の才媛。控えめに評しても優良物件の二人なのに、浮いた噂のひとつも立たないことが不思議だったが、今その理由の一端を身をもって体感している。

 すっかりできあがったマリアとモリィは、陽炎の頭越しに当人の恋話コイバナで盛り上がっている。自分の感情が蚊帳の外に追いやられている状況にだんだんと耐えられなくなり、つい強い口調で、

「あの……!」

 瞬間、二人は会話をやめ、ようやくこちらを見た。

「ああ、ごめんなさい……」

「つい興奮しちゃって……」

 それぞれワインと電子パイプに戻り、しばし言葉の無い時間が流れた。

「それで、──何悩んでるの?」

 不意に投げかけられたマリアの言葉に、口にしたジンジャーエールを噴き出しかけてむせる陽炎。思わずそちらを向くと、いつも診察室で見せる、柔和で少し心配そうなマリアの微笑みがあった。

「何よその顔。わかるわよ、何年あなたたちの担当医やってると思ってるの。三人とも異状があってもすぐ我慢して言わないんだもの。そういう時の様子はすっかり見分けつくようになっちゃった」

 ふふ、と背後からの笑い声に振り向けば、モリィも同じような笑顔でこちらを見ていた。

「こちらから無理矢理聞き出したのは本当に申し訳なかったけど、でもミハエルの話をしている時のあなた、“楽しいのに、物足りない”って表情だったから、何か不満でもあるのかなって心配で」

 診察と捜査のプロ二人の保護者的圧力にもはや抗うすべも気力も無く、何より痛いところを突かれた動揺も手伝って、陽炎容疑者は自供を始めた。

「いえ、不満はありません。ただ、時々、──私は今のあの人にとって何なんだろうって考えるんです」

 初っ端から典型的な“めんどくさい女”発言が飛び出したことに当の陽炎自身がドン引きしつつ、しかし何かの撃鉄が起こされたのか、するすると胸の内に抱えてたものが吐き出されていく。

「私たちはこれまで、上司と部下であり、教官と教え子であり、狙撃手とライフルであり、──事件そのものでした。互いが互いに自分自身に絡みついた悪運と戦い続け、ようやくこれを克服することができました。では、その後の私たちは一体どうすればいいのでしょうか」

 両手に持ったままですっかり氷の溶けたジンジャーエールをカウンターに置く。

「一緒にいる時でも、あの人は私を以前と同じ様に扱ってくれます。上司として、教え子として、──かわいそうな子供として。私にはそれが許せない。これじゃ先に進めない。何も始まらない。ようやく過去と決着をつけたのに、今まで通りになんかいくわけがないんだ」

 今にも引火しそうな可燃性ガスのごとき感情の発露と、引き換えにどんどん悲しみとやるせなさに満たされて冷たくなっていく心。

「……私は、ミハエルが知らない私になりたい」

 そう言い切った瞬間、陽炎の両目から涙が一粒づつこぼれ落ちた。モリィが、横合いから手を伸ばし、目じりに残った涙をぬぐってやる。

「本当に、あなたは彼のことを愛しているのね」

 しっかりと、力強くうなずく陽炎に、モリィは微笑みで返す。

「──兄は、ミヤシは小さい頃から誰にでも優しくて、誰とでも分け隔てなく接してたわ」

 モリィがミハエルを成人前の名で呼ぶのを聞いたのはこれが初めてで、陽炎はちょっと驚いた。

「でも、その優しさは人を遠ざけるための優しさだった。距離を取って、自分の内側に誰も寄せ付けないための。私や家族だって例外じゃなかった。ミヤシが軍を辞めてからの色々は、MPBに入ってからようやく断片的に理解したくらいで、本人は一切打ち明けてくれなかったから」

 ワイングラスをくるくる回しながら語るモリィ。その横顔を、愛する家族からの優しい不信にひどく傷ついた/気づけなかった、一人の妹の悲しみと後悔が覆っていた。

「そういう意味では、狙撃手はまさにうってつけの天職で、部隊の仲間は得がたい親友だったのかもね。……でも、今はどちらも無くしてしまった」

 そして、再び陽炎の方を向く。

「だけど、今ここには、あなたがいる」

 モリィは陽炎の灰色の瞳を見つめ、陽炎もまたモリィの孔雀色の瞳を見つめたまま、しっかりとうなずいた。二人の側では、マリアが微笑みながら電子パイプをふかしていた。

「兄をよろしくね、陽炎」

「はい」

「言うこと聞かなかったら、一発ひっぱたいて上にまたがっちゃいなさい」

 とんでもないアドバイスをするモリィ。こうして笑ってるとミハエルそっくりだなぁと思いながら陽炎は彼女を見つめていた。

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