「私の願いはひとつだった」

 ──あの日。

 第十一区ジンメリングのオフィスビル15階のカフェで、再会したミハエルに殴りつけるようなキスをした後、陽炎は顔面から涙と鼻水と血──キスの際に前歯で唇を切った──をボタボタ垂らしながら、ミハエルの話に耳を傾けていた。

 失踪中に体験したあれこれを一通り語り終えてこちらの様子を伺うミハエルに、ようやく呼吸を整え紙ナプキンで顔面を拭った陽炎はこう告げた。

「──もう二度と、私の前からいなくならないでください。あと結婚してください」

 一部始終をドン引きしながら遠巻きに見ていたフロア中の人々が大きなため息をつきながら「やっと落ち着くところに落ち着いたか幸せになれよ」みたいな安堵の表情を浮かべ、何人かの従業員が「結婚」の二文字にビジネスチャンスを嗅ぎつけ近寄ろうとするのを、ミハエルは苦笑しながら手振りで追い返した。

「……お前さんの提案、後半はひとまず置いとくとしてだ」

「提案ではありません命令です」

 即座の訂正に、ミハエルが珍しく言葉に詰まる。咳払いをひとつして、その先を続ける。

「俺はこれからMPB本部に行って、休職願を出すつもりだ」

 うつむいていた陽炎が反射的に顔を上げる。

「それは、まさかMPBを──」

「辞めるにせよ戻るにせよ、このではな。ゆっくりと身体を治したいのが本当のところだ。ついでに、老後の楽しみに取っておいた計画を今のうちに消化しておきたいと思ったのさ」

 ミハエルの言葉に陽炎は少し緊張を緩める。

「しかしだ。どんな娯楽も一人だけでは楽しさが半減しちまう。そこで、このぽんこつのロートルに付き合ってくれる若人を探したいところなんだが──」

 腕を組んで深刻そうな顔でこちらをチラッと見てくるミハエルに、これは誘いの文句なのだと一拍遅れて気づく陽炎。

「──私でよければ、喜んで、お供させていただきます」

 類いまれなる才能を持ち、今や己の悪運すら克服してみせた若き狙撃手のいらえに、ミハエルは満足げに頷いた後、テーブルに置かれたブランデーのグラスに手を伸ばした。

「まずは、賭けのおごりからだな」

 ブランデーを一口含み、何年もの間己に禁じていたその芳醇な味と香りを懐かしむように瞑目しながら堪能した後、胃の腑へと納めた。

「……うまい」

 さっきまでキスをして、自分を誘ってくれたミハエルの唇が、まるでこの男を表すかのような「とてもVery・優れていてSuperior・年経てOld・澄んでいるPale」琥珀色の液体にひたり、飲み込む時に形の良いのどぼとけが大きく上下する様子を、うわもうなんかめっちゃやらしいという煩悩全開で陽炎は見つめていた。

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