目指すホテルの廃墟は、この岬の先端近くにある筈だった。確かに海は美しく、眺めは良かった。しかしこんな所まで来ると、もう他のホテルの姿は殆ど見えず、辺りはもの寂しかった。加えてこの周辺は、海岸からやや進んだところから急速に水深が深くなっており、波は荒く、泳ぐには適さなかった。大規模な海水浴場を目の前に控え、海沿いにホテルの立ち並んでいる街からはかなり隔たったこんな立地が、そのホテルが成功しなかった原因なのかもしれない。

 相変わらず日光はぎらぎらと路面を照らし出し、私たちの車は疾走を続けている。視界には海岸と海しかない。本当にこの先に何かがあるのだろうか、と私は思った。彼女と廃墟を訪れるのは三回目だったが、前に行った山奥の鉱山跡も、私たちがやってきたとき、既に取り壊されている最中だった。廃墟はいつ姿を消してもおかしくない場所だ。知らぬ間にもう、嘗てホテル跡のあった場所を通り過ぎているのではないかと、私は恐れた。

 その時に真梨が座席から身を起して、小さく声を洩らした。昂奮に跳ね上がるような声だった。私はつられて、彼女と同じ方向に視線を向けた。

 見ると遠く前方に、巨大なコンクリートの建物が姿を現し始めていた。見てすぐに私は、これが我々の目的地に違いない、ということを確信した。何故かと言えばその建物は、遠めに見ても明らかに、異様な雰囲気を漂わせていたからだった。

 嘗ては瀟洒しょうしゃなホテルだったのだろう。正面に突き出した半円形のフロアが特徴的な、全体的に丸みを帯びたデザインの建物だった。バルコニーらしき場所の屋根は、洋風の瓦でかれていた。しかしそれも今やがたがたに歪み、聳え立つ外壁は汚れて黒ずみ、あまつさえ諸所が年月による風化に耐え切れずに崩落して、内部の鉄筋が剝き出しになっていた。ずらりと一列に並んだ客室の窓は、殆ど全ての窓硝子が割られているために、そのどれもが虚ろだった。近づくにつれて光を失ったその窓々は、真暗な内部の様子を窺わせた。周囲には雑草や雑木が繁茂し、放置された期間の長さを思わせた。

「あれだわ……」真梨は恍惚とした表情で言った。

 敷地の正面まで来て、私は車を停めようとしたが、ホテルの敷地は杭をロープで繫いだ柵に囲まれており、人はともかく車はとても入れそうになかった。道路の向かい側には砂利の敷き詰められた空き地があったので、私はそこに駐車することにした。見ると、敷地の隅に一台のオートバイが停められていた。運悪くホテル跡の見廻りにやってきた管理人のものなのかもしれないと思ったが、考えてみればそんな可能性は殆どなかった。大方、目の前の海岸に来た釣人か何かのものだろう。或いは棄てられているのかもしれなかった。

 私は真梨を伴って道路を渡り、柵に張り渡されたロープをくぐって、敷地内へと足を踏み入れた。自動車は滅多に通らず、辺りにも人気がなかったので、人目を気にする必要はなかった。言うまでもなく不法侵入であるが、何かを盗んでいくという訳でもなく、誰かに迷惑を掛ける行為でもないのだからと、私は自分に言い聞かせるように考えた。

 誰もいない岬の突端、荒れ果てた廃墟、輝く夏の海……、まるでこの世の最果てに来たようだと、私は思った。この先にはもう何もなかった。

 真梨が立ち止まり、カメラを構えてシャッターを切った。改めて私は、目の前に聳立しょうりつする建物を見上げた。「尾崎ビューホテル」と、外壁の遙か上に金文字で記されている。澄み渡った青空と、樹々に覆われた小山とを背景にして、しかし建物は、不気味なほどに静まり返っていた。それは巨大な、がらんどうの抜け殻のように見えた。

 尾崎ビューホテル、と私は心の中で読み上げた。外壁に並べられたその文字は、まだ一字も脱落はしておらず、新しく見えた。建物自体はひどく朽ち、その文字からも黒い汚れが長く壁を伝って流れ落ちているのに、まだそのホテル名は日光に燦然と輝いて、このホテルの現役当時から、全く変らぬ姿を保っているようにも見えるのだった。

 しかし、そのホテル名が輝いていて何になるのだろう、とふと私は思った。ここはもうホテルではないではないか。従業員も客も誰一人としておらず、荒れ果て、崩れ落ちていくばかりの廃墟でないか。この看板は噓なのだ。もう今や何の意味も持たないのだ。……噓? しかし噓ならば、どうしてこれほど堂々と、これほど大きく、この名前は今も掲げられているのだろう。誰がこれを読むというのだろう。自分たちのような、この廃墟を訪れる人々のためなのだろうか。暑さの中で、妙な考えに私は囚われていた。

「どうしたの、村井くん」

 既に歩き出していた真梨が振り返り、私に向って呼び掛けた。

「いや、何でもないよ」と私は答え、砂利の上を彼女について歩き出した。


 建物の周囲には、大量のごみが散乱していた。ソファや椅子、机、冷蔵庫などが雨ざらしにされていたが、これらが元々ホテルの備品だったのか、廃業後に不法投棄されたものなのかは分らなかった。ポーチを支える柱の周りには植え込みが残っており、今も枯れずに葉を茂らせている蘇鉄そてつが、南国情緒を醸し出させていた。その横には錆び付いた軽トラックが放置されていたが、ライトは割られドアは引き剝がされて、無惨な姿を曝け出していた。

 ポーチに足を踏み入れると、蒼く冷たい陰が私たちの体を包み込んだ。

 正面玄関の硝子扉は粉々に打ち砕かれ、大量の破片が辺りに散らばっていた。傍らの壁には「政府登録国際観光旅館 尾崎ビューホテル」の文字を覆い隠すかのように、ペイントスプレーで下品な言葉や絵が書き散らされていた。

 覗かれる内部は薄暗かった。足元が悪いので、私はここから中へ入れるのかと逡巡したが、真梨は臆する風もなく、がちゃがちゃと音を立てる硝子の破片を踏みながら、館内へと足を踏み入れていった。よく平気であんなことができるものだと、私は半ば感心し半ば呆れながら、慎重に足元を確かめて後に続いた。足を踏み入れると、少し進んだ先で立ち止まり、辺りを見廻している真梨の姿が、薄闇の中に見えた。

 館内はひんやりと涼しく、静まり返っていた。

 目が慣れていくにつれ、荒廃した玄関ホールの姿が、段々と私の目にも明らかになり始めた。床にはどこから持ってきたのだろうと思われるほどに、大量のごみが山積みにされていた。天井は変色して剝がれ落ち、雨漏りと思しき水がそこから垂れて、カーペットの敷かれた床に水溜りを作っていた。空気はよどみ、ひどくかび臭かった。壁は方々で蹴破られ、落書きがなされていた。この様子では、現役当時にどのような空間だったのか、想像することは難しかった。

 薄闇の中で突如として閃光がひらめき、私ははっとした。

 見ると真梨がフラッシュを焚いて、夢中で辺りを撮影して廻っていた。ごみを踏みつけながら、あちらへこちらへと忙しく往来し、カメラを至るところに向けてシャッターを切っている。私は茫然とその様子を眺め、自分の首に提げたカメラを触ってみたが、こんな場所で撮影をしようという気には、到底なれなかった。奥にフロントが見えた。私は一寸した好奇心に駆られ、そこに近寄った。

 カウンターの奥には、客室の鍵が保管される棚と、ダイヤル式の電話が埃まみれになっており、色褪せた造花の入れられた小さな花瓶が、一つ置かれていた。数枚のパンフレットが散らばっていたので、私は一部を手に取って見た。


 政府登録国際観光旅館 日本観光旅館連盟 尾崎ビューホテル

 美しい太平洋を望む、やすらぎの旅の宿

 白砂青松の美しい海岸線の続く岬、尾崎。当館は潮騒さやぐ、自然豊かなこの地で、心をこめて皆さまをお迎えいたします。ゆったりと落ち着いた雰囲気の和室、フレッシュな感覚を味わえる洋室、いずれも近代的なバス・トイレ付で、窓からは抜群の海の眺望をお楽しみいただけます。各種宴会場、大浴場、洋風展望レストラン、バーも備え、夏には海辺のプールで遊泳も可能です。娯楽施設完備・全館冷暖房完備・駐車場完備(大型バス四十台、普通自動車二百台収容可)……


 載せられている写真はどれもひどく古臭く、内容から察するに、恐らく昭和四十年代のものと思われたが、確かにこのホテルにも、こんな華やかな時期があったのだ、と私は思った。しかしもうその時代は遠く過ぎ去ったのだ。今ここにあるのはホテルの残骸なのだ。これほど巨大で、これほど堂々と自分を包み込んでいるこの空間も、今やホテルの抜け殻に過ぎないのだ。本当はここに存在している筈ではない空間なのだ。その曖昧な存在……。

 俄かに私は、こんな場所に不法侵入している自分の存在と共に、全てが覚束なくぼやけていくような錯覚に襲われた。私はパンフレットを開いたまま、危うくカウンターに手をついて体を支えた。

 埃に覆われたその天板の上には、くっきりと私の手形が残った。埃のついた掌とその手形を見比べながら、いや、自分は確かにここに存在している、と私は自分に言い聞かせた。パンフレットの頁の、友禅の着物を着て畳に膝をついた女の写真が、薄闇に浮び上がる笑顔で私を見据えていた。私は放り出すようにして、それを元の位置に置いた。真梨の声が近づいてきた。

「ねえ、あそこから上に行こう」

 彼女が指差す先には階段があり、一条の光がその上から射し込んでいた。私は頷いてフロントを離れ、彼女の後に続いた。

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