兎と少年

富田敬彦

兎と少年

 少年はうさぎを愛していた。

 小学校の中庭には兎小屋があり、少年はそこの飼育委員だった。飼育委員は自由に兎小屋に出入りが出来るという特権があったから、兎の世話をする当番の日でなくとも、毎日のように彼は中庭へ行き、兎小屋で兎と戯れた。

 切り刻んだ人参やキャベツを入れた金属皿を小屋の一隅に置くと、兎は集まって来てそれを食べる。口元に餌を運んで行ってやれば、兎たちはその大きな眼を動かさないまま、夢中でそれをかじるのだった。少年はそのことに喜びを感じていた。

 兎小屋と呼ばれているのは金属網で出来た、昔は鳥小屋だった小屋であったが、今ではその周囲を柵で囲んで、その中にも兎を放し飼いにしていた。朝、少年が兎小屋を訪れると、昇り始めた太陽の真新しい光の中で、点々と蹲っている兎たちの姿が見える。彼らは無愛想なもので、少年が声をかけても、犬のように喜んで走ってくるようなこともない。しかし動物を家で飼っていない少年にとって、生身の動物に触れる数少ない貴重な機会の一つがこの場所なのであった。その小さな身体に充溢じゅういつした生命。毎日通う小学校という場で、自分達とは全く異なる生命を持つ生き物が息づいているということ。そこには少年を陶酔させるロマンが満ちているように思われるのだった。

 それにしても何故、少年が懐きもせぬ兎に愛と呼べるほどの感情を向けられたかといえば、それは兎達が言葉を持っていないからでもあった。言葉というものは多くの軋轢あつれきを人間達の間に生むが、兎は何の言葉をも持っていなかったから。この動物達は、少年が朋友と思えばそれだけで朋友たり得た。その友情が壊れることはない。まだ少年は、物言わぬ兎に、こんな純真な感情を持てる時期にいた。

 特に少年が好きだったのは、黒い眼をし、身体には白と黒の入り混じった模様のある一羽だった。少年はこの兎を「ホシ」と呼んでいた。というのも、その兎の脇腹には、星の形のように見える、小さな斑点の模様がついていたから。それは少し見ただけでは分らない場所にあり、その名前を呼ぶことは、何かこの小さな生命体である兎と自分とが共有する、秘密のように感じられた。だから少年は、この名のことを誰にも明かさなかった。

 周囲は少年の兎への愛に、全く理解を示さなかった。両親は毎日兎の話ばかりをする少年を心配したし、毎日のように兎小屋へ行く少年を、何人かの男子は変人扱いして「兎野郎」と呼んだ。四十代の女性の学級担任は、度々「兎とばかり遊んでいないで、きちんと同級生の友達とも遊びなさい」と少年に注意した。しかし無理に他の生徒達の遊びに少年が入って行っても、兎と遊ぶほどには少年は楽しめなかった。鬼ごっこも隠れん坊も、つまらない訳ではなかったが、兎と遊ぶほどに少年は楽しめなかった。そこで次の休み時間にはまた兎小屋へ行った。担任教師はその姿を校舎の窓から見て、「また兎小屋にいる」と嘆息した。

 唯一の理解者は、同じ飼育委員である少女だった。彼女も兎を愛していた。彼が兎小屋へ行って扉を開くと、よく中には彼女がいて兎を撫でており、振り返って彼の姿を認めると、にっこりと微笑んだ。少年はおずおずと不器用な笑みを浮べ、すぐに兎に構う振りをして彼女から眼を逸らした。

 或る日の昼休みのこと、少年がいつものように兎小屋に来ると、何やら周囲に生徒達が集まって騒がしかった。彼らは金属柵の脇に集まり、地面を見下ろして騒いでいた。少年は近寄って、どうしたのかと尋ねた。一人の男子生徒が、「見ろよこれ」と言って金属柵の根元を指さした。

 見ると、柵の基礎になっているコンクリートブロックの下に、兎が一匹通り抜けられる程の穴が、柵の内側から外側へ向って通じていた。誰が置いたのか、もうそのトンネルは花壇に置かれていた石で塞がれていたが、それは兎が掘ったものとみて間違いないようだった。少年はこんなトンネルの存在を始めて知った。男子生徒は続けて、「この穴から兎が一羽逃げ出したんだぜ。皆で追いかけてたんだけど、どこかへ行っちまった」と説明した。

 少年は一つの予感に襲われて、兎小屋の入口に駆け寄った。中へ踏み込んであちこちを捜し回った。柵の内部の穴の中、置かれたブロックの中を捜した。ホシの姿だけがどこにもなかった。逃げ出したのはホシだったのだ。少年は昂奮と緊張とを同時に感じながら、しばしそこに立ち尽した。

 その時小屋の扉を開けて、飼育委員の少女が入って来た。彼女もまた、昂奮に頰を紅潮させていた。「ねえ、聞いた? 兎が逃げ出したって!」と彼女は言った。少年は頷き、「どうしようか」と呟くように言った。

「捜し出して戻すしかないよ」と少女は言った。「あ、先生!」

 少年が振り向くと、担任の女教師が険しい顔をして歩いてくる所だった。彼女は騒いでいる生徒達に「何を騒いでいるの」と尋ねた。生徒達が争って事情を説明した。聞き終えると担任教師は、面倒なことになった、という苦々しい表情をして、「すぐに捜し出して捕まえなさい」と生徒達に指示した。それを合図にして、生徒達はわっと四方に散らばり、叢の中などを捜し始めた。少女は少年を振り返った。

「私達も行く?」

「うん、行こう!」

 二人は中庭へ駆け出した。三階建ての鉄筋校舎に四角く切り取られた青空の下を、既に大勢の生徒達が駆け回っていた。二人はくさむらや物蔭を一心に捜し始めたが、そこはあらかた、既に他の生徒が散々調べていったあとばかりで、兎の見つかる筈もなかった。「一体どこへ行ったのかしら」と少女が呟いた。

 顔を上げた少年はふと、中庭から外へ通じる道のシャッターが開いているのを見た。もしかしたら兎は外へ逃げ出したのかもしれない、と彼は思った。そこで少女や他の生徒達を取り残して、一人、シャッターの外へと駆けていった。

 中庭の外へ出ると、そこは正面玄関の脇だった。少年は「ホシ! ホシ!」と兎の名を呼びながら捜し回った。正門の脇には池があり、その畔には二宮金次郎像が建てられていた。少年はその周囲の松の木の蔭や花壇、叢の中などを、懸命に捜し始めた。

 ふと視界の中で何かが動いたような気がして、少年ははっと振り返った。見ると二宮金次郎像の蔭に、あの兎が鼻をひくひくと動かしながら、佇んでいた。木洩れ日が、兎の柔らかい毛並の上に、静かに揺れていた。少年は息を呑んで動きを止めたが、すぐに「ホシ!」と喜びの声を上げて兎に駆け寄り、抱き上げた。「さあ、帰ろう」と彼は言った。

 しかしその時、少年の心には躊躇ためらいが生じた。果して元の兎小屋に戻すべきだろうか、とふと少年は思ったのだった。折角トンネルから自由の世界へと出て来たのに、再びあの小屋と柵との中の幽閉生活に戻さなくてはならないのだろうか。それは余りに兎が不憫に思われた。少年は兎を抱いたまま、そこに再び立ち尽した。

 その時人声がして、何人かが中庭を出てこちらへと向って来ることが知られた。既に中庭を捜し尽した生徒達が、少年と同じ考えを起して向って来たのだった。少年は決心を固めた。兎を像の礎石の蔭へとそっと戻し、「いいか、僕が良いと言うまで、決して出てくるなよ」と囁いた。そしてあたかも捜しているかのように、拾った木の枝で叢を叩き歩き始めた。

 間もなく生徒達が池の近くにやって来た。その一団には先程の少女もおり、担任教師も一緒にいた。何故この婆さんまでここに、と少年は内心舌打ちした。「兎、いたか?」と一人が尋ねた。少年は即座に「いいや。この辺りはもう全部探したけど」と答えた。「じゃあ、もっと奥の方を捜そう」と一人が言い、一団はぞろぞろと歩き去って行った。少年は内心狂喜した。

 しかし少女だけが後に残った。「行かないの?」と彼女は不審そうに尋ねた。「うん、ちょっと疲れたから」と少年は答え、花壇の脇の石に腰を下した。少女は訝しそうにしながらも、再び優しい微笑を浮べた。人声は遠くなり、風が池に微かな波紋を作っていた。

 少年は少女の表情を見て、もしかしたら彼女になら打ち明けてもいいかもしれない、と思った。そう思うと衝動は抑えがたくなった。そうだ、二人でならきっとやれる、と彼は思った。そして口を開きかけた。

「あのさ、実は……」

 まさにその時、金次郎像の蔭からひょこひょこと兎が姿を現した。少年は思わずはっとしたが、少女も同時にそちらを振り向いていた。

「あっ! 兎がいる!」

 少女は大声を上げた。少年が止めようとしても、もう遅かった。向うへ行きかけていた生徒の一団は、勢いよく池の畔へと走り戻って来た。少年は庇うように兎を抱き上げ、「何故言ってしまったんだ」と少女を睨みつけた。少女は驚き、当惑した表情を浮べた。

「いた」「兎だ」と、生徒達は少年の抱いている兎を見て、口々に叫んだ。少年は沈黙して立ち尽し、彼らをじっと睨みつけていた。生徒達を搔き分けて、担任教師が前に進み出た。

「兎、ここにいたじゃない」と担任教師は言った。「さあ、渡しなさい。私が元の所まで持っていくから」

「厭だ!」と少年は叫んだ。その答えと大音声とは、担任のみならず誰もが予期していないものであった。担任は不快げに眉を上げ、腕を差し出して言った。

「何を言っているの。さあ、さっさと渡しなさい」

「厭だ。絶対に渡さない」

 少年は数歩後ずさりすると、突然身を翻して駆け出した。そのまま兎を抱いて、どこかへ逃げ出そうと思ったのだった。その時少年が見つめていたのは、誰も追ってくることの出来ない、自由の新天地だった。兎が一所に閉じ込められることなく走り回れる、遠い場所まで駆けていこうと彼は思った。それはいつになってもいい、兎を安全に隠す場所さえ見つけられれば、自分は一たび捕まってもいい……。

 しかし正門を出たところで、追いかけてきた二人の生徒に、少年はすぐに捕まってしまった。摑みかかられた彼は兎を奪われて地面に倒れた。奪い返そうとして伸ばした指が、相手の腕に搔き傷を創った。少年はアスファルトの上に倒れたまま、奪われた兎が担任に引き渡されるのを見ていた。「畜生! 畜生!」と地を叩いて彼は叫んだ。

 担任教師は兎を抱え、冷たい眼で少年を見下ろした。起き上がるように言おうとさえしなかった。「莫迦ばかな真似はよしなさい。兎は君のものではないのよ」と彼女は言った。兎はその腕の中で、ひくひくと無邪気に鼻を動かしていた。

 それから担任教師は、生徒を引き連れて立ち去った。後に残された数人の生徒が、「兎野郎!」と叫びながら倒れたままの少年を蹴り、そして担任の後を追って走り去った。

 最後に残されたのは飼育委員の少女だった。彼女は黙って、倒れている少年の傍らまで歩み寄り、そこにしゃがみ込んだ。

「ねえ、どうしてあんなことをしたの?」と少女は言った。「意味が分らない。最低」

そう言うと彼女は、少年を残して中庭へと歩み去っていった。

 担任教師は、今回の件を非常に問題視した。彼女は以前から、少年のことを快く思っていなかった。彼女にとって少年は扱いづらい、面倒な生徒であった。彼女は職員会議で今回の事件について取り上げ、少年と兎との一件は、教師全員の間に知れ渡ることとなった。或る教師はこの話を笑い話として他の学級の授業で話し、別の教師は或る授業で少年に対して、生徒全員の前で「お前、学校の兎を盗んで持って帰ろうとしたんだってな」と笑った。

 その学期の通信簿に、担任教師は「協調性に欠け、反抗的な傾向が見られる。御家庭でもよく注意されたい」と記し、「協調性に欠け、反抗的な傾向」の傍らには朱線を引いた。

 少年が兎小屋に現れることは、この事件以降、なくなった。兎小屋へと戻された兎は、その後、トンネルを掘って逃げ出すことはしなかったが、間もなく餌を受け付けなくなり、やがて死んだ。


  ――二〇一七、三、一二――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

兎と少年 富田敬彦 @FloralRaft

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る