日曜日にわたしは図書館へでかけることにした。わたしが鞄をさげてでかけようとするのを見て、母はおどろいた様子で、「どこへ行くの?」とたずねた。図書館だよ、と答えると、母はその眼の奥に深くいたわるような、憂愁にみちた色をたたえて、「気をつけてね」と言った。わたしはその表情を正視することができずに目をそらしながら、うん、と答えた。

 その日はよく晴れていた。陽光の中に数日ぶりに出ると、暗い気持もやややわらいで、さわやかな空気の中で深呼吸するゆとりさえできた。見あげると、ちぎれた綿のような白い雲がうかぶ、どこまでもつづく青空があった。その蒼穹の広大さがわたしの胸を打った。

 中央図書館まではバスを使った。わたしは乗っている最中にも、車窓からしばしば空を見上げた。何という広い空だろう。そこには本当に何もなく、吸いこまれるような紺碧だけがあった。この地上で何がおこっても……と考えかけて、わたしは以前にも、似たような思いをめぐらせたことを思いだした。この地上とはかかわりなく、この空は青く、白い雲はおだやかにながれてゆく。わたしは何という、取るに足らない小さな存在なのだろう。ふとした拍子にあの青空に舞いあがり、木の葉のように風にふかれて、その果てに遠く小さく消え去ってしまっても、何もおかしくないぐらいに……。

 図書館へ入ると、中はここちよい静寂にみちていて、わたしはどこか安心させられる気がした。ここには学校の、あの騒がしい同級生たちはまずいないはずだった。本をめいっぱいかかえて借りに行こうとしている親子連れにも、受付の前で新聞を広げている老人にも、わたしはかすかな親しみの感情を抱いた。

 中央図書館は広く、その天井はひどく高い。書棚のならぶ部屋は二層のふきぬけになっていて、その自習室の窓の下を、わたしは児童書の棚を目指して歩いていった。どこかはずかしい気もしたけれど、まわりにはまばらに小さな子どもたちと、その親がいるだけだったから、あまり気にはならなかった。書棚のあいだを走りまわっていた小さな女の子のひとりが、あやうくわたしにぶつかりそうになり、かけつけてきた母親があわててわびた。わたしは思わずほほえんだ。

 閉架になっているかとも思ったが、さがしていた本は案外にすぐ見つかった。わたしはその本を書棚から引きだして、高い天井からのひかりの下でその表紙をながめた。見おぼえのある表紙絵で、題名は上部に大きく、「希望を捨てない」と書かれていた。希望を捨てない……そうだ、それがこの物語の名前だった。その言葉はなにかの啓示のようにわたしの胸をうった。わたしはページをめくり、数年ぶりに再会したその物語を流し読みはじめた。

 アキコはやはり物語の中でいじめられ、けなげに冷たい仕打ちに耐えつづけ、その苦しみは作者によって丹念に描写されていた。わたしは順々にその場面を読んでいった。しかし、それはわたしの予想とは裏腹に、かつてほど胸をうちはしなかった。なぜなのかはわからなかった。わたしはやや失望を感じながら、すぐにページをめくって結末の部分まで進んでいった。

 物語が後半にさしかかるあたりで、アキコがついに登校しなくなる場面があった。それはわたしの記憶にない場面だった。何日かたったころに、同級生のひとりが家をたずねてくる。この同級生は以前にアキコと仲がよかった生徒で、いじめが始まってからはアキコと距離をおいていたのだが、ここへきて反省し、傍観するだけで何もしなかったことをわびる。そしてアキコに、また学校へときてほしいと言うのだった。アキコはもちろん断るのだが、いったんしりぞいた同級生は、それまでアキコの相談に耳をかさなかった先生に再三うったえ、学級会をひらかせる。そこで学級の生徒たちに、アキコがどれほど苦しんでいるかをうったえかけ、心をうごかされた加害生徒たちは反省する。そして同級生はふたたびアキコの家をおとない、ついにアキコも、再び学校へ行く決心をかためるのだった。

 物語の結末は、アキコが同級生に手をひかれながら、廊下を教室へと向っていく場面でしめくくられていた。教室にはすでに教師と生徒たちによって、学級全員でアキコに謝罪する場が準備されている。アキコは廊下を歩きながら、こう心に思うのだった。

「わたしは希望を捨てない。何度でも立ちあがって、歩みつづけるんだ。かがやく未来にむかって……。」

 ……読み終えたわたしはなおも書棚の前でその本をかかえ、立ちつくしながら、わき出してくる不満の思いをおさえることができなかった。あまりにも安直な、都合のいい結末に思われた。巻きこまれることをおそれて距離をおいていた同級生が、アキコが不登校になったとたんにここまでするだろうか。執拗ないじめを行っていた生徒たちが、同級生の発言ひとつで、ころりと反省するだろうか。わたしには作者が児童向けの性善説にもとづいて、むりやりにあかるい結末へと持っていったようにしか思われなかった。

『わたしは希望を捨てない。何度でも立ちあがって、歩みつづけるんだ』とわたしは心の中でくりかえしてみた。陳腐で空虚な言葉だ。希望を持った先に何があるのだろう。どうして、未来がかがやいているなどと確信できるのだろう。わたしにはわからなかった。

 この本を読みかえしたのはまちがいだった、とわたしは思った。この物語はあいまいな記憶のまま、ひそかに胸の奥にしまっておくべきだったのだ。そして今はじめてわたしは気づいたのだが、わたしが求めていたのは、自分自身と同じ状況におかれた存在としてのアキコだった。わたしと彼女の住む世界が異なることを、すでに知っていたのにもかかわらず、そんなものをこの物語に求めていたのだ。わたしは誤りをおかした。今やアキコは遠く飛び去り、消え去った。もう、あいまいながらもわたしに寄りそう存在ではなくなってしまった。わたしは高い天井を見上げ、深く息をついた。

 そのとき、ふと視線を感じた。見ると書棚のむこうに立っていたひとりの女の子が、目をまるくしてわたしを見ていた。わたしと同じぐらいの歳の、肩まで髪をのばした小柄な女の子だった。わたしはいぶかしく思いながら見かえしたが、わたしの顔を正面から見た彼女は、とたんにぱっと顔をかがやかせて、歩みよってきた。わたしはひどく驚いた。

「恵美……? 恵美だよね?」

 図書館内であることをはばかって、彼女は小声ながらも昂奮した口調でたずねた。わたしは「はい……」と答えたが、なおも相手がだれなのかわからなかった。わたしの答えをきくと、相手は満面の笑みをうかべて言った。

「やっぱり恵美だったのね、わかるかな? わたし、小学校のときの篠原美穂だよ」

 そこでようやく、わたしは彼女を思いだした。小学校のころに仲のよかった、同級生のうちのひとりだった。しかし進学先はわたしと同じ市立中学校ではなく、市内にある私立の中学校であったので、もう久しく会っておらず、疎遠になっていた。わたしはほぼ二年ぶりに目にする彼女の顔をつくづくとながめたが、それは心なしか小学校のころとはずいぶんとちがって見えて、おそらく名乗られなければそれとはわからなかったかもしれない、とさえわたしは思った。

 静寂につつまれた図書館の書棚の間で、わたしと彼女はしばらくの間、ただむかいあっていた。あたかも過ぎ去った数年間を、相手の顔からかぎとろうとでもしているように。天窓からさしこむひかりが、この思いがけぬ邂逅の瞬間を照らしていた。館内のどこか遠くで、子どもの声が聞えた。……

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