夕食の席で、甚之助の様子が普段と異なることに、一同は気付いて不思議に思ったが、何故なのかは分らなかった。甚之助は極度に無口で、食慾も余りないようであったが、暑い中の墓参りが老人の身体にこたえたであろうことは容易に想像できたし、亡き妻のことを思い出して悲しみに浸っているのではないかとも思われたから、口に出して言う者はなかった。

 とはいえ、一座は中々に賑やかで、甚太郎達の来訪のために御馳走が卓の上に並べられ、宮川家の面々は積もる話に耽った。こんな場では、却って老人も安心して自らの世界に浸ることができた。甚之助は箸を進めながら、時折千鶴子の方を盗み見た。千鶴子は大人達に挟まれて、つつましく上品に箸を動かしていた。それは紛れもない千鶴子であった。つるの姿などどこにもなかった。

 夕食ののち、子供達は順々に風呂へ入れられ、大半の者も部屋へと引き上げたり台所仕事を始めたりしたが、何人かは座敷に残って酒の壜を開けた。甚太郎は、満足そうな表情で盃を傾けていた。空になった盃に、甚之助が徳利から新しく注いでやると、驚いた表情を浮べながらも嬉しげに礼を言った。普段は余り酒を飲まぬ甚之助が、立て続けになみなみと酒を湛えた盃をあおったので、息子達は心配そうな様子を見せた。

「父さん、もう歳なんだから程々にしておいておくれよ」

「何のこれしき……わしも老いぼれたといえ、まだまだ……」

 勝則の妻が運んできてくれた烏賊の塩辛を摘みながら、老人は相も変らず頑固に答えた。とはいえ既に酔いが廻り、甚之助の顔はすっかりと赤くなっていた。甚太郎と勝則は顔を見合せて苦笑した。勝則は、明日は静岡市へ行くのだと言い、親父も来るだろうと尋ねたが、甚之助は断った。

 甚之助は酒を呷りながら、強いて孫娘のことも、亡き妻のことも考えまいと努めた。今はそれらの全てを忘れたかった。

 酔うにつれ、却って甚之助は冷静になった。よく考えてみれば、何という莫迦々々しい空想を、長々と続けていたのだろう、と甚之助は思った。一体、自分は何を恐れていたのか。全ては、妻を恐れる余りの自分の妄想に過ぎなかったのだ。妻の面影を色濃く宿す千鶴子の姿に、思い出が刺戟されて幻影を作り出し、それを恐れるまでに至ったのだ。……気の抜けたような思いで、老人は盃を傾けた。全く今日の自分はどうかしていた。とうとう耄碌もうろくし始めたのではないか、と甚之助は己を嗤いながら思った。

 一日中振り廻された幻影から解放された安堵の思いと、いよいよ廻ってきた酒の効果から、甚之助は眠気を催した。老人は舟を漕ぎ、やがて卓の上に突っ伏して眠ってしまったので、二人の息子はどうすべきかと思案した。取り敢えず部屋の隅に座蒲団を並べ、二人掛りで老人を運んでそこに横たえた。彼らの父親は、大層疲労しているように見えた。

「東京の孫達が来たもので、昂奮してすっかり疲れてしまったのだな。暑い中で墓参りもしたし、親父にはきつかったのだろう」

 勝則が、眠っている父親を眺めながら言った。甚太郎も頷いた。

 甚之助は寝息を立てて眠っていたが、その時に夢でも見ているのか、いかにも可笑しそうにくくくと笑ったので、二人の息子は驚いた。


 その頃、暗く長い廊下を手洗いへと向っていた靖子は、千鶴子にあてがわれた部屋にまだ明かりが点いているのを認め、座敷への帰り際に、障子を引き開けて部屋を覗き込んだ。千鶴子は蒲団の上に横になって本を読んでいた。就寝前の読書が、千鶴子の長年の習慣であることをこの母親は知っていたが、もう夜も更けていた。あまつさえ明日は、静岡市行きの予定があった。

「千鶴子、まだ起きていたのね。明日は早いから、もう寝なさい」

「ちょっとお待ちになって、お母さま。今丁度いいところなの。……あたくし達、明日は何処へ行くの?」

「静岡よ。百貨店などに連れて行って下さるんですって」

「お爺さまも行かれるのかしら?」

「行かないと仰ってたわ。あのお歳だし、無理もないけれど」

「そうなの……」

 千鶴子はつまらなさそうに再び本の頁に目を落した。靖子はその表紙を一瞥して、それが大正時代の古い小説であるのを認めた。何故、この娘がそんな古い小説ばかりを好んで読むのか、理解しがたいと以前から彼女は思っていた。

 娘が一向に寝ようとしないのを見て、靖子は溜息をついた。部屋に上り、天井から下がっている電燈の紐に手を掛けた。千鶴子は顔を上げ、不満そうな視線を母親へと向けた。

「お母さま、あたくしまだ読んでいる途中なのよ」

「駄目です、寝なさい。いつ読み終るか知れたもんじゃないわ、夜が明けてしまう」

 靖子は電燈の紐を引いた。忽ち部屋は闇に閉ざされた。仄かな月光だけが辺りを朧ろげに浮び上らせ、庭の虫の声は一段と高まったように聞えた。

 靖子は手探りで廊下へと出ると、「おやすみ」と言って障子を閉ざした。「おやすみなさい」と千鶴子は答えた。

 母親が廊下を歩み去ったのちも、千鶴子は本を手に蒲団に横たわり、微かに見える障子の棧の格子模様を、しばし眺めていた。田舎の夜の闇が少女を包み込み、古びた天井、柱、壁は、独特の重みを以て彼女の周りにあった。十数年前にこの家に寝起きした時と、それらは殆ど変るところはない。

 千鶴子は目を閉じ、しばらく虫の声に耳を澄ませていた。やがて畳の上に、そっと本を置いた。頭を枕に落し、寝返りを打ちながら、誰かの耳元に囁くように呟いた。

「厭ね、あたくしはまだ読んでいる最中だったのに」


  ――二〇一六、八、二〇――

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孫娘 富田敬彦 @FloralRaft

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