精一杯の速さで自室へ駆け込むと、甚之助は障子と襖を隙もなくて切り、畳に坐り込んだ。胸に手を当てると、尚も心臓は激しく波打っていた。

 一人きりになると、甚之助は幾度も先程の孫娘の顔を思い返した。冷静になって考えれば、あれは自分の心情と火の加減とが作り出した幻影のようなものに過ぎないのではないかと思われた。元々顔かたちが似通っているのだから、そのように見えたのも無理のないことだ。たかが或る瞬間に、孫娘の顔がその祖母である妻の顔とそっくり同じに見えたからといって、それが何であろう。そう考えると、自室へと逃げ込んでこんな考えに耽っている自分が、ひどく滑稽で愚かにも思えてくるのであった。

 しかし……と甚之助は考えた。迎え火という場であのような出来事が起ったというのは、どこか暗示的なものを思わせた。幾ら考えようとも埒が明かないのは分りきっていたが、それでもあれこれと思いを巡らせずにはいられなかった。

 今は甚之助もはっきりと、自分が生前の妻を、密かに頼りにしていただけでなく、心の片隅では恐れてさえいたのだ、ということが理解できた。かつての甚之助には、零細な百姓家に過ぎなかったこの家を、一代にして大地主へと引き上げた父に対しての引け目が、少なからずあった。とても俺には父のような大仕事はできぬ、と思っていたし、のちに町に質屋を開いたのは、そうした自らの思いへの反撥でもあり、周囲から掛けられていたに相違ない期待に応えようとしてのものでもあった。

 そんな中で現れたつるの聰明さは、甚之助を驚かせたのみならず、恐怖をも抱かせた。妻が賢く仕事で役に立つ分、自らの品格は下がり、家長としての本来の役割を見失うことにもなりかねない。このままではやがて、自分は顧みられることすらなくなるのではないかと、甚之助は恐れていたのである。勿論、そのようなことは実際には起り得なかった。

 つるは無口な女だった、と甚之助は思った。彼女は亡くなってからというもの、思い出される妻の姿はいつでも、甚之助の傍らで笑みを浮べている姿や、本を開き、白く細い指で頁を繰っている姿ばかりであった。無口こそがつるを謎めく女たらしめていた。彼女は殆ど、自らの感情を言葉で表すことがなかった。時折彼女は甚之助を、あの大きな瞳で見据えた。その視線が意味するものは、時には悲しみであり、時には怒りであり、そしてまたある時には、愛情であった。

 甚之助はそれらを読み取ることを得意としなかった。じっと妻に見つめられるのは、気味が悪いとしか思えなかった。度々妻に甚之助は、そのように俺を見るのをやめろと注意したが、つるがそうした仕草を見せなくなっても、口数の少なさは、遂に変ることはなかった。

 ああ、俺はあいつの気持の半分すら、恐らく知らず仕舞いだった、と甚之助は思った。つるは自分を愛し支えてくれた筈であったが、本当の気持がどうだったのかは未だに分らない。だからこそ今、彼女が再来し、思いも掛けなかったような言葉を吐くのではないかと、自分は恐れているのだ。そしてつるは、孫娘を介して今一度、甚之助のもとへと戻ってきたのかもしれなかった……。

 その時、庭に面した廊下を歩いてくる音が聞え、その音は甚之助の部屋の前で止まった。老人は思わず身構えた。様子を窺うような間が、僅かにあった。庭からは虫の声が聞えてきていた。

「……お爺さま? そこにいらっしゃるの?」

 高く澄んだ声が響いた。返事をしようとして、痰が絡まった。甚之助は咳払いをして、「ああ」と答えた。

「夕飯ができたそうです。お呼びするよう頼まれましたの」

 甚之助はそれには答えなかった。夕飯などという言葉は全く頭に入って来ず、すぐそばにいる彼女にしたい山ほどの問いを、じっと押し殺すのに精一杯だったのである。それらの質問を人が聞いたら、きっとこの老人はぼけているのだと思ったことであろう。ややあって、甚之助は静かに、震える声で一つだけ尋ねた。

「そこにいるのは、千鶴子なのか?……」

 一瞬の沈黙ののち、可笑しそうな笑い声が障子を通して聞えてきた。

「ええ……ふふふ、千鶴子ですわ。一体誰とお思いになって?」

 孫娘に笑われて甚之助は自らの質問を悔やんだが、事実、老人は障子の向うに今いる、姿の見えぬ相手が、千鶴子であると信じ切ることができなかったのである。そこに坐っているのはつるかもしれなかった。障子を引き開ければ、そこには妻が十数年前と変らぬ姿で、ひざまずいて微笑んでいるかもしれなかった。つるがあの暗い戦中の時代を背景にして、深淵のような謎めいた微笑を湛え、甚之助を見上げるような気がしてならなかった。あの瞳、あの視線に直面して、何を言えばよいのだろう。甚之助には分らなかった。やっとのことで、甚之助は言葉を続けた。

「先に言って食べていなさい……じきにわしも行くから」

 はい、と答えた千鶴子の声は、思いの外に快活だった。少女が立ち上り、古い廊下の床板を軋らせながら遠ざかっていく音を、甚之助は身じろぎもせずに聞いていた。足音が聞えなくなってから、ようよう老人は立ち上って障子を引き開けた。

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