一行は寺の門をくぐった。蟬の声が境内全体に響き渡っていた。本堂の扉は開け放されていたが、外光が余りに強いことから、内部の様子は真暗にしか見えなかった。堂々と張り出した軒の下にも、陰がわだかまっている。境内には他にも、幾組かの村の家族連れがいた。

「あら、凄い」

 千鶴子が感嘆の声を上げた。彼女が見上げていたのは、本堂の傍らに聳え立つ、樹齢百年を超すかとも思われる楠の大樹である。その高さは本堂の屋根よりも高い。幹に注連繩しめなわめぐらされたその樹は、豊かに葉を繁らせた枝を四方に広げ、立ち並ぶ墓に涼しげな影を落していた。風が吹くと葉々はざわめき、木洩れ日が墓石の上を躍るのであった。

 宮川家代々之墓と刻まれた墓石の前に、甚之助達は立った。墓誌に刻まれた最新の日付は昭和二十年の九月で、戒名と歿年月日の下には「つる 六十六歳」とある。勝則達は早速持参した花や卒塔婆を供え、墓を掃き清め始めた。甚之助も手伝おうとしたが、人手は足りていた上にこの老人はひどく汗をかいていたので、傍らの石に腰を掛けて休ませられることとなった。

 墓が清められている間にも、幾人かの村人が傍らを行き過ぎて甚之助と挨拶を交わしたが、取り分け甚之助と同年の加藤徳蔵は、突如として現れた余所者達に関心を抱いたとみえ、あれこれと尋ねた。甚之助はこのお喋り好きの老人に少々辟易しつつ、好い加減に質問に答えた。中でも徳蔵は千鶴子に興味を持っているようだったが、この美しい都会の少女は、こんな田舎では大いに目立つ存在であったから、それも無理からぬことであった。

 綺麗なお嬢さんだと、徳蔵が千鶴子を褒めたので、甚之助はにわかに得意になった。戦時中に一度この村に来たこと、久々の再開であるということなどを、気前よく喋った。徳蔵は相槌を打ちつつ聞いていたが、ふと千鶴子を振り返り、「あのお嬢さん……」と呟くように言った。「何?」と甚之助は尋ねた。徳蔵は躊躇いがちに続けた。

「あの子は、お鶴さんに似ているな。顔かたちがよく似通っているじゃないか……上品な仕草を見せながら、どことなく気が強そうなところも」

 お鶴というのはつるのことであった。甚之助は目を見開き、急き込んで言った。

「そうだろう。わしも丁度そう思っていたのだ。あんたの目からもそう見えるのだな」

 徳蔵は頷いた。

 二人の老人は、眩しいものを見るような目で千鶴子を眺めた。

 千鶴子は日傘をさして墓石の間に立ち、その傘の上には木洩れ日が揺れていた。彼女の背景には烈しい夏の陽射しがあり、この光と影との対比が、その姿に奇妙な幻想的なものを与えていた。それは或る瞬間には、突如として現れた白昼夢のようにも思われ、本当にそこに存在するのか訝られた。

 この田舎の寺の古びた墓と、都会の少女の対比という光景は、実に奇妙なものであった。光と影の入り混じる中にあって、それは非日常という感を見る者に抱かせ、そこにあるのは、一枚の絵画のような、完成された一つの作品のようにも思われるのであった。

 ……ふと日傘を僅かに傾けて、千鶴子は老人達を振り返った。彫像のような笑みがその顔に浮んだ。その瞳にも似た、底知れぬ、感情を窺い知ることの難しい笑みであった。かつてこのような表情を、つるも度々見せたと甚之助は思った。


 線香を供えてのち、家へ帰るまでの道のりでも、甚之助は徳蔵の言葉を幾度も反芻はんすうしていた。つると千鶴子には、確かに似通ったところがあるのだった。それをあの老人も見抜いていたのだ。千鶴子の中に生きていた妻の言葉……孫娘と妻との共通点……。こうしたものに思いを馳せた時、甚之助は孫への恐れに近いものを抱いている自分にふと気付いた。しかし老人は心の内でそれを否定した。孫娘に祖父が恐れを抱くなど、許しがたいことであったからである。それにそんな恐れを何故自分が抱いているのか、甚之助自身、解せなかった。孫が妻と多くの共通点を抱いているからと言って、それが何だというのか、と自らに言い聞かせるように老人は考えた。

 一方千鶴子はといえば、墓で焚いた火を納めた提燈ちょうちんを持ちたいと、小学生の弟二人が争っているのを、歩きながら静かにたしなめていた。


 夕食の前に迎え火が焚かれた。既に日は傾き、暮色の帷が辺りに下り始めた頃である。座敷の窓は開け放されて、室内の光が庭の樹々を照らし、辺りは夥しい夏の虫の声に満たされていた。仏壇の蠟燭に移されていた墓場の火は、燭台ごと外まで運ばれてきた。それが庭の土の上に慎重に置かれた傍らで、勝則は短く折った苧殼おがらを門口に積み重ね、小さく丸めた新聞紙をその真中に置いて、迎え火のための小さな櫓を作っていた。子供達は祭りが始まるかのようにはしゃいでいた。

 甚之助は庭へと出た。丁度準備が終ったところで、台所仕事の女達を除き、皆が門口に集まっていた。老人の目は無意識に千鶴子を探し、蠟燭の火の傍らにその姿を見出した。東京とて迎え火は珍しくもない光景である筈だが、千鶴子は興味深そうに作業の様子を眺めていた。

 勝則は苧殼の一本に蠟燭の火を移し、小さな櫓の中心にそれを放り込んだ。新聞紙が忽ち燃え上り、次いで積み重ねられた苧殼も、弾ける音をたてつつ燃え始めた。火勢は徐々に強くなり、煙が櫓から立ち昇った。子供の一人が火をいじろうとして叱られた。

 千鶴子はしゃがみ込んで無言で火を眺めていたが、甚之助が近づくと顔を上げた。火がその顔を赤く染め上げていた。

「この煙に乗って、ご先祖さまが帰ってこられるのでしょう? お爺さま」

「ああ、そうだよ」

「お婆さまも帰ってこられるのね。……あたくしはまたお婆さまと共にこの家で過ごせるのだわ」

 千鶴子の口調はしみじみとしたものだったが、甚之助はその言葉にどこかぞっとするものを感じた。しかしそれが何なのかは分らなかった。老人は黙り込んで火を見つめた。

 ふと、千鶴子が煙にせて咳き込んだ。少女は立ち上り、口を手で押さえて幾度か咳をした。勝則は驚いた様子で苧殼をくべようとしていた手を止め、甚之助は心配して「大丈夫かい?」と尋ねた。

 咳は幸いにしてすぐに収まった。千鶴子は「ええ」と答え、頰に流れた涙を手の甲で拭った。そして甚之助の顔を見た。

 ……その時、真に甚之助は戦慄した。同時に茫然として言葉を失い、思わず二三歩後ずさった。

 消えかけた火の光を微かに、涙に濡れた頰に浴びた千鶴子の顔は、まさしく若き日のつるそのものだったのである。つるがそこにいた。その死から十数年を経た今、夏の夜の庭に、妻は立っていた。澄んだ瞳に涙をうかべ、甚之助を正面から見据えていたのである。その視線は甚之助の全てを見透かしているかのようだった。

「……お爺さま?」

 千鶴子は訝しげに呼び掛け、甚之助に歩み寄った。老人は更に後ずさりした。孫娘の背後で、死者を迎える火は既に消されており、千鶴子の顔も既に元のものに返っていたが、甚之助の動悸と戦慄は収まらなかった。

「いや、何でもない……少し気分が悪くなっただけだ……」

 甚之助は、心配そうに自分を見つめる千鶴子の前を迂回して玄関へと向かい、転がり込むようにして家に入った。

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