二
甚太郎達は午前十時頃に到着した。玄関の辺りにざわめきが起り、互いに大声で挨拶を交す声が聞えたので、甚之助も立って行って出迎えた。
甚太郎は大して変り映えせず、帽子をとって父親に挨拶する姿は、四年前と殆ど同じに見えた。変っている点といえば、新たな鼻の下の髭ぐらいであった。靖子はやや老けたようだが、厚い化粧で防禦した顔に笑みを浮べて挨拶した。小学生の弟二人は恥ずかしがって母の後ろに隠れていた。甚之助も挨拶を返したが、既に半ば上の空であった。老人が見つめているのは、孫娘ただ一人であった。
千鶴子は大層美しくなっていた。ようようにして祖父の眼前に現れたこの少女は、高校の制服を着て明るい笑みを浮べ、その姿は、薄暗い玄関に置かれた一輪の瑞々しい花のように見えた。艶やかな黒髪を短く切り、歯は白く、何より瞳が大きかった。その澄んだ瞳は真直ぐに甚之助に向けられており、些かの混ざり気もない、純粋な心の反映の如く思われた。
「こんにちは、お爺さま。お久しぶりです」
「ああ……千鶴子……。よく来てくれた、随分と久しぶりだ……」
明るく澄んだ瞳と声に直面して、老人は狼狽した。あれほど待ち望んでいた瞬間であったのに、いざ孫娘の前に立って、何を言っていいのか分らなくなったのである。これは奇妙であった。甚之助はここ数年、狼狽したことがなかった。そうした機会がなかっただけでなく、年寄りにありがちな羞恥心の欠如や、経験の累積に由来する、自己への過信にも近しい自信が自分を動揺させないのであると、甚之助自身も自覚していた。自らの感情を奇妙だと感じたことが、老人をますます狼狽させた。
しかしこの家を取り仕切る者としての矜りが、甚之助を立ち直らせた。老人は笑みを浮べ、「さあ上りなさい上りなさい」と手招きし、先導するように背を向けて座敷へと向かった。
駅からバスと徒歩でやって来た一行には、冷たい麦茶が振舞われた。甚太郎はすっかりと寛いだ態度を見せ、靖子は勝則の嫁と話に花を咲かせていた。千鶴子は行儀よく麦茶を飲みながら、大人達の話に耳を傾けている様子を見せていた。尤もこれは、都会で彼女が身に着けてきた演技かもしれなかった。彼女にはどこか謎めいた雰囲気があると、甚之助は思った。
「千鶴子や」と甚之助は話し掛けた。
「前にこの家に来た時のこと……わしらのことを憶えているかね?」
千鶴子は笑顔で答えた。
「ええ……元々僅かな記憶しかなかったのですけれど、今ここへ来て、ぱっと多くのことを思い出しましたわ。この部屋に大勢の人が来て、ラジオか何かを囲んでいたのを憶えています。そこの縁側にも多くの人達がいて……啜り泣いている人もいました……」
「陛下の御放送があった日だろう」甚太郎は目を見開いた。「戦争が終った日だ。近所の者も大勢、放送を聞きに集まったのだよ」
「やはりあれは、玉音放送だったのですね」
千鶴子は納得のいった風に頷いた。そして麦茶を一口飲んだが、その喉の音、汗で頰に貼り付いた二筋三筋の髪は、いかにも若さの象徴のように老人の目には映った。障子は開け放たれ、軒先の風鈴が軽やかな音色を立てていた。空は青く澄んでいた。
「他にも色々憶えていますわ。お爺さまとお婆さまがいつも優しくして下さったこと……お婆さまが亡くなったと聞いた時は、とても悲しかった……」
「つるも今の千鶴子を見れば喜ぶだろう」甚之助は仏壇を見遣りながら麦茶を口にした。「随分と立派になったものだ」
「いいえ、そんなこと……お婆さまはよくあたくしに教えて下さいましたわ、『こんな時代ではあるけれど、強くしたたかに生き抜きなさい』と。あの大空襲で東京の街もすっかり焼け野原になってしまいましたし、知らない土地へやって来てひどく不安だったのですけれど、そんな頃のあたくしを力強く励まして下さったのですわ、お婆さまは」
「そんなことを言っていたのかい、まるで知らなかった」
甚之助は驚いて答えた。戦争末期の頃のことが思い出された。つるはあの時代にあって、祖母としてこの孫娘に、そんな言葉を残していたのだ。亡くなってから十数年を経て、また新たにつるの言葉を知るなど、全く予想だにしないことであった。そしてその間、確かに孫の中につるの言葉は生き続けていたのだ、と或る種の感慨を以て、甚之助は千鶴子を眺めた。
「あそこに掛っているのは、お婆さまのお写真かしら?」
ふと、千鶴子が言った。そうだ、と甚之助が答えると、千鶴子は大きな目を細めて写真に見入った。
座敷の天井近くの壁には、額に入れられた古い写真が数枚掛けられている。何十年も前に町の写真館で撮った、甚之助の父母、当時いた祖母、そしてつるの写真である。写真の中のつるはまだ若く初々しい。勿論、かつての甚之助の写真もあるのだが、引き伸ばして掛けられることはせずに仕舞い込まれている。ここに掛けられるとすれば自分が死んだ後であろう、と甚之助は漠然と考えていた。
少女はこの十数年ぶりの対面に、心を震わせているように見えた。しばらくの間、古ぼけた写真を見上げたまま動かなかった。「ああ、小さい頃に見たお婆さまの面影がありますわ……」と彼女は言った。
その時甚之助は気付いたのだが、写真の中のつると千鶴子には、似通う点がいくつも見受けられた。一つはきりりと引き締まったその
つるの、そして千鶴子の、涼しく美しい瞳は、まるで全てを見透かしてでもいるような色を湛えていた。そしてそれ自身は未知の
昼食ののち、午後から一行は墓参りをすることとなった。
寺はそれほど遠くない場所にあり、家々からやや離れた静かな畦道に沿って、長々とした土塀が続いている。本堂の屋根の輪郭と、その傍らに立つ楠の大木とは、遠くからも望見された。女達はこぞって日傘をさし、男達も帽子を被っていた。夏の太陽はほぼ真上にあり、遮るもののない広い空は、遠くの山々の緑色の輪郭を、広大な田の果てに浮び上らせていた。
「お爺さま、大丈夫? こんな暑い日の外出は、体に障るんじゃなくって?」
千鶴子が心配そうに振り返って言った。甚之助は麦藁帽子を被り、濡らした手拭いを首に掛けていたが、確かにこの暑さは体にはこたえた。しかし足腰は未だに丈夫であったし、持ち前の頑固さが老人に弱音を吐かせなかった。
「何の何の……このぐらい平気だ。今でも朝から田畑を見廻っているしな、うちの奴等は行かなくてよいと言うが、数十年来やってきた仕事をおいそれとやめられはしない……」
甚之助はここぞとばかりに、自信を持って言い切った。密かに自分にとって心強い存在となっていたつるがいなくなってからというもの、甚之助はますます仕事にのめり込むようになり、それは悲しみや喪失感の埋め合せというだけでなく、つるがいなくとも無事にやっていけるということを、自ら証明したいがための行動ではなかったかとも思われるのだった。
ふと微かな涼しさを感じて見上げると、千鶴子が持っていた日傘を、甚之助の上に傾けていた。優しい影が、甚之助の上にあった。老人と目が合うと少女は微笑み、「無理をなさっちゃいけませんわよ」と諭すように言った。先方を歩いていた靖子がふと振り返り、二人の姿を見てあらあらと笑った。二人の女の笑顔に甚之助は憤りに近いものを感じて、
「わしはいいんだ、きちんとさしなさい」
と傘の柄をやや強引に押し戻した。千鶴子は困ったような笑みを浮べて、日傘を引込めた。甚之助は再び夏の日光を浴びながら、手拭いで首筋の汗を拭った。傘の影を共有する自分と千鶴子の姿は、傍からはどう見えたであろうか、という想像がふと浮び、老人は赤面するような思いを抱いた。
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