孫娘

富田敬彦

 宮川甚之助は今年、齢八十をけみした。しかし未だに身体からだ矍鑠かくしゃくとして頭脳も明晰であり、連日杖を曳いて老体を鞭打ち、田畑を見廻り、質屋に顔を出すのであった。息子夫婦をはじめとして家の者は、もう田畑の仕事も質屋の切り盛りも自分達の役目であるのだし、身体を壊しては事だから、無理をして来ない方がよい、と頻りに言うのであるが、この頑固な老人はがえんじない。自らの眼で確認しなければ安心できないのである。

 徳川時代までの宮川家は、駿河の一地方のごく普通の百姓家に過ぎなかったのだが、明治の初め、甚之助の父である甚左衛門が、地租改正後の困窮した小作人から田畑を買い集めたのを始まりに、徐々に土地を集積し、この辺りでは有数の地主に成り上った。これを受け継いだ甚之助も懸命に仕事に当り、更に町に質屋を開き、新たに宮川家の大きな収入源とした。

 二十五の時、甚之助は隣村の地主の家の、つるという娘と婚姻し、四人の子をもうけた。男が三人、一番下に女が一人である。子供達はこの辺りでは珍しく高等教育を受けることができ、殊に長男の甚太郎は学業に一際優れ、上京して東京帝国大学を卒業後、試験に合格して官吏となった。

 こうした経緯もあって、甚之助には、父から受け継いだ宮川家を着実に大きくしてきたという矜恃きょうじがある。尤も数年前の農地改革の際は、多くの田畑を小作人達に只同然で譲り渡さざるを得ず、そのほこりも大いに揺らいだのであるが、幸い自作地の多かったことから、悲惨な没落は免れた。老人はその後長きにわたって農地改革への怨みを度々零し、戦争が終って数年間は、土地も取られ、妻も亡くなり、俺にとっては戦中よりも悲惨であったと嘆いた。

 妻のつるは終戦後すぐ、昭和二十年の九月に倒れて帰らぬ人となっていた。

 

 甚之助の家には、今は二男である勝則の家族が共に住まっている。三男の家族は他のところにあり、末の娘も隣村へと嫁入りした。

 官吏となった長男の甚太郎は、東京で知り合った靖子という良家の娘と結婚し、千鶴子ちづこという娘をもうけていた。戦争末期に甚太郎が召集されてのち、靖子は娘と共に空襲をのがれて静岡の宮川家へ疎開して来たので、甚之助と妻のつるは、ここで初めて孫娘の顔を拝むこととなった。千鶴子はこの時僅かに五歳で、緊張して母のそばを離れなかったが、数日もすればすっかりと慣れ、「お爺さま」などと叫びながら甚之助の胸に飛び込んできたりもした。つるも大層この孫を可愛がっていた。

 この田舎にも戦争の影響は及び、米の供出などで生活も苦しくはあったが、靖子から都会の惨状を聞けば、断然ましな境遇にあるのだと思わざるを得なかった。町の方は軍需工場を中心に、度々空襲に見舞われていたが、この辺りでは終戦を迎えるまで、遂に殆ど被害はなかったと言ってよかった。

 当初はひどく暗かった千鶴子の表情も、日が経つにつれ徐々に明るくなった。都会しか知らなかったこの孫娘は、広大な田園、豊かな山林に囲まれて、終戦までの数ヶ月を過ごした。千鶴子は笑顔を見せるようになり、野に咲く花々を度々摘んできて、甚之助やつるに手渡した。田舎での生活は、父親の不在という寂しさを、僅かな間にしろ忘れさせたようであった。この疎開は空襲を避けるためというだけでなく、繊細な幼子の精神面にとっても大いによかったと、甚之助達は思った。

 一度ふと疑問に駆られて、甚之助は靖子にこう尋ねたことがあった。

「千鶴子という名前は、つると関係はあるのか?」

「ええ、甚太郎さんが付けたのです。美しい名前を考えたのだがどうだろう、母の名前からも一文字取ったのだ、と提案されまして、私も素晴らしいと賛成致しました」

 つるは傍らで縫物をしながら笑っていた。甚之助は妻を眺め、この孫がこいつに似たらどのような感じだろうかと考えた。甚之助より二つ年下のこの女は、主人に負けず劣らず気は強くしたたかで、あれこれと田畑や質屋の経営に口を挟むのである。当初は甚之助も好い加減にあしらっていたが、細かい事柄にまでよく気が廻る上、しばしば甚之助の気付かなかった重大な点を指摘したりするので、次第に甚之助も一目置くようになった。

 極めつけは以前、当時質屋で雇っていた男が店の金を横領していたことに気付き、すぐさま警察に知らせたことである。甚之助は全面的にこの男を信頼しており、一度つるに不審な点があるとうったえられても、まるで耳を貸さなかった。甚之助の狷介けんかいな気質はこの頃には既にあったのだが、いざ事件が発覚してみると、疑うべくもない証拠を目の前に展開されて言葉を失った。男は直ちに逮捕され警察へと連行された。

 この一件で甚之助は、宮川家の屋台骨を支える自らの仕事には、つるは欠かすことのできぬ存在であったのだと気付いた。しかし頑固さ故に極度の照れ屋である甚之助は、妻への感謝のしるしを、極めて迂遠な方法によってしか、示すことを知らなかった。

 さて終戦ののち、無事復員した甚太郎は、妻子を連れて東京へと帰った。千鶴子は甚之助やつる達との別れを大層悲しがったが、父母と共に元の街へと去って行った。数年後、更に二人の子供ができたと、夫妻は葉書で報せてきたが、その頃にはもうとうにつるはおらず、息子の自筆が昂奮に躍るその喜ばしい手紙を、甚之助は妻の位牌が置かれた仏壇に供えた。


 今年の盆に、甚太郎一家は静岡へ来ることになっていた。戦後、生活が落ち着いてからは、この一家も親戚の集いに顔を出しており、言うまでもなく甚太郎と靖子、そして小学生の弟二人は毎度現れるのだが、千鶴子はそうではなかった。新制中学一年の夏を最後に、千鶴子は甚太郎の前に姿を現していない。両親の話では、友達との約束事や学校の用事などで忙しく、中々来るわけにもいかないのだという。それも半ば本当ではあったようだが、一種の方便のようで、「そういうお年頃なのです」と困り顔で言った靖子の笑みに、甚太郎は都会に暮す孫娘の、自由奔放な性格を思った。

 しかし今年は、千鶴子もまた静岡を訪ねてくるのだという。そのことを甚太郎からの手紙で知らされた甚之助は、喜ばしくその報せを聞きながらも何故突然といぶかしく思ったが、八十歳という自身の歳の区切りを考えると、老い先短き自分に、息子夫婦らが気を利かせてくれたのかもしれぬ、とも思われた。甚之助は息子への手紙で、孫たちのこと、殊に千鶴子の様子を、毎度のように尋ねていたのである。

 千鶴子との対面は実に四年ぶりである。最後に甚之助の家を訪れた時、千鶴子は「お年頃」のはにかみから、下を向き碌に親戚の者達と目を合せようともしなかったが、あれから数年を経て、高校二年、十七歳を迎えた千鶴子は、果してどのような成長を遂げたかと、甚之助は想像を巡らせつつその日を待ち望んだ。

 八月の十三日、午前中のうちに甚太郎一家は来ることになっていたので、その日甚之助は田畑の見廻りをせず、家に留まって到着を待った。座敷の畳は綺麗に掃き清められている。仏壇はこの部屋に置かれており、茄子と胡瓜の精霊馬、供え物の水菓子が並べられている。明日は檀家となっている寺の住職の来訪があり、経が手向けられるのである。

 仏壇には幾つもの位牌が、薄闇の中に佇んでいる。妻の位牌もそこにある。甚之助は立って行って仏壇を覗き込みながら、此処に遠からず、自らの位牌もまた並ぶであろうということを考えた。障子を通して柔和な光が庭から射し込み、広い畳の表面を明るませていた。遠く台所から、食器を洗う音に交って、息子や孫達の話し声が聞えてきていた。何の話をしているのか、時折笑い声も聞えてくる。あの先の長い者達も、やがてはつるや遠からぬ未来の俺のように墓石の下に眠り、位牌を此処に置かれることとなるのだ、と甚之助は思った。

 畳に腰を下ろし、甚之助は座敷を見渡した。仏壇と床の間のほか、この部屋には大きな本棚が置かれていた。納められている本の半分近くは、書斎のない、亡きつるの蔵書である。つるは小説を好み、就寝前などによくそれらを読んでいた。女だてらに読書を嗜むのかと、初めの内は驚いたものである。戦中の燈火管制下でも、窓をきっちりと暗幕で覆い、つるは寝るまで本を読んでいた。しばしば、遅いからもう寝なさいと、甚之助が電燈の紐を引いて消してしまうことがあった。つるは決って抗議し、

「厭ね、わたくしはまだ読んでいるというのに」と言いつつ、それでも素直に本を枕元に置いて眠るのが常であった。あの頃は紙不足から、新たに出る本も随分と少なくなっていた。あれから十数年後の今、生きていれば小説なぞ存分に読ませてやれるのだが、と甚之助はしばしば、悔いを抱きつつ思うのだった。

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