第32話
「あんた、随分いい格好してるけど、どこかのいいところのお嬢さんだろう? 付き人の一人も連れずに寂れた東へ向かうなんてどういう事情だい」
品物と一緒に荷馬車に揺られる私に、商人の女性は興味津々という様子で話しかけてきた。やはり、ただの街娘とみられるには無理があったようだ。
「……兄と、少し仲違いをしてしまって、少しの間家から離れたくなったんです。それで、東の方に、昔のお友だちがいるから会いに行こうと思って」
「この先は村しかないのに、あんなみたいな貴族のお嬢様の友だちがいるのかね!」
女性はどこか楽しそうだ。疑うような調子は全くない。
「む、昔、屋敷で働いてた子なんです。今は故郷に帰ってしまって……」
「なるほどねえ。あんたみたいなお嬢様だったら、庶民とも仲良くしそうなもんさね」
仲良くしそうも何も、私も元の世界では庶民なのだ。苦笑いを零しつつ、女性に合わせる。
「でも、森には近づくんじゃないよ。魔物はもういないだろうし、陛下の結界も張られているからそう危ないことは無いと思うが、訳の分からない植物がたくさん生えてるからね。それに、おっかない魔女もいる」
その魔女に今から会いに行くのだといったら、この場で降ろされそうだ。ますます笑みが引きつる。
「その魔女って森の中のどこに住んでいるんでしょう?」
さりげなく情報収集を試みる。このあたりの住民ならば、知っていることもあるかもしれない。
「さあねえ。森の中ってことは間違いないさね。魔女の姿を見たって話も、場所がばらばらでどこに家があるのかなんて予想もつかないよ。まあ、そう結界の近くではないだろうがね」
やはり、森に入ってからかなり歩く必要がありそうだ。荷馬車に乗れた分、森の中で魔女を捜す時間が増えたのはありがたい。
がたがたと揺れる荷馬車の中で、そっと手を握りしめる。右手に嵌められた指輪の紅色の石が、陽の光にきらきらと煌めいていた。今日も傷一つない、綺麗なままの指輪だ。
今日、帰る手がかりをつかむことが出来たらいいのだが。元の世界で私の帰りを待っているであろう両親や小百合の顔を思い浮かべる。懐かしさが込み上げ、妙に感傷的な気分になってしまった。
商人の女性は、東の森に一番近い町まで連れて行ってくれた。ここから半時間ほどで森につくそうだ。予定よりずっと早く移動できている幸運に感謝しながら、私は商人の女性と別れ、更に東を目指した。
東へ進むほど、人影が少なくなっていく。私はなるべく人に見られないよう注意しながら、街を抜け、森の入口まで辿り着いた。
「ここが、東の森……」
しんと静まり返った森からは、鳥や獣の声一つ聞こえない。風に揺れる木々の騒めきが、まるで森の息吹のように感じられて身が竦む。御伽噺の世界のような華やかな街並みとは一変して、妙に物々しい雰囲気だ。思わずごくりと喉を鳴らす。
この森の中に、魔女がいる。魔女にさえ会えたら、帰る方法が分かるかもしれない。早まる鼓動に手を当てて、一度大きく深呼吸をした。
大丈夫、落ち着いて行こう。もし2時間捜して見つからなければ、今日はおとなしく帰ろう。私はいつかカミラが用意してくれた金の懐中時計を確認して、そう自分に言い聞かせた。
そっと森の小道に足を踏み出す。その瞬間、体中にぴりっと静電気のようなものが流れた。これが、兄の張った結界なるものだろうか。
道はぬかるんでおらず、靴こそ汚れたが歩きやすい。ひとまずは小道に沿って黙々と歩き始めることにした。
「……手掛かりすらないなんて」
大きな切り株に腰かけて、金の懐中時計を確認する。小一時間ほど森の中を歩いているが、人はおろか動物にすら出会っていない。それに、足跡や焚火の後のような生活の後すらも見つけられないのだ。
ざわざわと森が揺れる。この世界の植物がどういった機序で育つのか知らないが、これだけ豊かな緑なのに、動物も虫もいないだなんて思えない。魔女にしたって、この森で自給自足の生活を送るうえで、痕跡の一つも残さないとは考えられなかった。
だとすれば、私は一種の魔法にかかっているのだろうか。心なしか先ほどから、空気に違和感を感じていた。表現しづらいのだが、軽く車に酔ったときのような不快感がある。長いこと入れば間違いなく、気分が悪くなるだろう。
「これはこの森の特徴? それとも、魔女さんが私にかけた魔法なのかしら……」
分からない。単に私のもつ魔力の素質とこの森が合わないというだけなのかもしれない。ここで理由を知るのは不可能だが、はっきりしていることはここには長居できないということだ。
私は再び懐中時計を睨む。森に入ったときに自分で決めたきまりを守るのであれば、そろそろ引き返さねばならない時間だ。思わず溜息が出る。
焦らない、と決めたはずなのに怖くなる。もしも、私が城にいないことがバレて既に追手が放たれていたら。そうなれば、二度とここに来ることは叶わないのだ。そうなったら私は、何を手掛かりに帰る方法を捜せばいいのだろう。この指輪だっていつまでもつか分からないのに。
駄目だ、落ち着かなければ。そう思い、私は数時間ぶりにフードを取った。一気に開けた視界には、木の葉に透けた緑の光が飛び込んでくる。静かだが、美しい森だった。私はそっと目を閉じ、祈るように胸に手を当てる。
「……お願い、どうか助けてください。私、どうしても元の世界に帰りたいんです」
誰でもいい。魔女だろうが森の精だろうが何でもいいから、私に手掛かりを与えてほしい。これだけ捜しても見つからなければ縋りたくもなってしまう。
歩きやすい靴を選んできたとはいえ、踵は既に皮を擦りむいていた。水ぶくれのようになっているだろう。歩けないほどの痛みではないが、動くたびに走る不快な感覚にますます惨めな気持ちになる。
私はこのまま、兄の言われるままに生きていくしかないというの。兄の作り上げた箱庭に、一生閉じ込められたままだというの。
極度の疲労のせいか、それも悪くないだろうと囁く自分が確かにいた。この世界にはなんだってある。美味しい食べ物も、綺麗なドレスも、立派なお城も、友人も、恋人のような愛も、兄も。何もかもあるのだ。
諦めてしまえばそれはそれで、私は幸せに生きていけるだろう。でも、それでも脳裏に過るのは、元の世界に残してきた両親のことや小百合のことなのだ。彼らを悲しみの縁に落としたくない。
「もう少し、捜してみましょう」
ぎゅっと手を握りしめて、私は自分自身を奮い立たせた。まだ歩ける、頑張れる。ここで諦めるわけにはいかない。
その瞬間、不意に私の視界の隅を青い光が漂っていった。この森に入って初めて見る動くものに、私はすぐさま集中した。
光だと思ったそれは青い蝶のようだった。だが、心なしか発光しているように見える。羽はガラス細工のように透けてステンドグラスのような影を地面に落としていた。あまりに幻想的な光景に思わず息を呑む。
一目で、あれはただの蝶ではないと分かる見た目だった。無論、この世界の蝶は皆あのようだと言われればそれまでだが、この森に入ってから虫の一つも見ていないのだ。追いかけるだけ理由は充分にあった。
私は蝶に導かれるように、森の小道を歩き出した。帰り道が分からなくなりそうで不安なので、途中で木に銀細工を括りつけながら歩く。まるで本当に御伽噺のようだとふっと笑いながら、私は足の痛みに耐えて歩き続けた。
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