囚われの妹姫は歪んだ愛から逃げ出したい

染井由乃

第1話

 ここは、一体何なのだろう。


 裾や袖が焼け焦げた浴衣姿には似合わぬ、豪華絢爛な大広間に足を踏み入れる。天井に描かれた絵は眩暈がしそうなほどに繊細で、調度品の一つ一つにあらゆる宝石が惜しげもなく使われていた。いつか、西洋の国々で見た城の内部によく似ている。


 慎ましく控えた使用人たちが、私が足を進めるごとに順に頭を下げていく。そのまま私は、玉座にゆったりと座る青年をまっすぐに見据えた。


 私の知っている姿より、ずっと大人びているけれど、でも、間違えようもない、彼は――。


 思わず、ごくりと息を呑む。青年は、私の姿を目にとめるなり、ふっと優し気な笑みを浮かべた。

 

――彼は、玉座で微笑むその人は、8年前に死んだはずの兄だった。








瑛奈えな、そろそろ出発の時間でしょう?」


 窓から差し込む夕焼けに、夜が溶け始めている。わざわざ私の部屋まで様子を見に来てくれた母は、私の浴衣姿を見るなり小さく苦笑いをした。


「帯が曲がってるわ、ちゃんと直さなきゃ笑われちゃうわよ」


 そう言って、母は桃色の帯の形を整えてくれる。私は姿見の前で、白地の浴衣に合わせた白い花を紙に飾るのに必死だった。もともと器用な質ではないのだ。こういった慣れないことには、余計に戸惑ってしまう。


 見かねた母が私の手から髪飾りを取ると、まとめた黒髪にそっと挿してくれた。黒髪と白い花のコントラストが、我ながら悪くない組み合わせだと思う。


 今日は、年に一度の花火大会だ。田舎とは言わないが、大都会とも言い難いこの小さな街では一大イベントだった。私も、例に漏れることなく、友人と花火を見に行く約束をしていた。


「今年も小百合さゆりちゃんと行くの? ……そろそろ、男の子とお友達と見に行ってもいい年ごろなんじゃない?」


 からかうように笑う母に、私は苦笑いするしかなかった。確かに高校生であれば、そういった甘酸っぱい夏を過ごしていても何ら不思議はないだろう。


「お母さんは、お父さんと一緒に見に行ってたの?」


「あら、今日だって間に合えば一緒に見に行くのよ」


 我が両親ながら、仲の良い夫婦だと思う。地元の名士の一人娘である母と、家の都合でこの街に越してきた父は幼馴染だった。


 一見すれば、何不自由のない、絵に描いたような幸せな家族の姿なのだろう。だが、私たちの笑顔の裏にはいつも彼の存在があった。


「兄さんも、この花火大会に行ってたの?」


「……そうね。よく、お友達に誘われて行ってたわ」


 この家には、私と両親、そしてもう一人家族がいる。――いや、「いた」という表現の方が相応しいのだろう。


 私には、10歳年上の兄がいた。だが、10年前、私が6歳の時に兄は事故に遭い、2年間ほど生死の境を彷徨った末に帰らぬ人となったのだ。


 兄はそれは優秀な人で、比較的裕福な家の子が集まるこの街の学校でも常にトップクラスの成績だった。妹の私が言うのもなんだが、見目もよく、運動神経も悪くないという非の打ちどころのない人だったらしい。


 けれども、兄はいつもどこか退屈そうだった。今になって思えば、思い通りにならぬことのないこの街での生活に、飽き飽きしていたのだろう。兄が笑えば、彼の周りの人たちも笑い、兄が声をかければ断られることなど何もなかったのだから。


 そんな兄が抱える影を、私は幼いながらに感じ取っていたのかもしれない。だからこそ、事故に遭い、ベッドの上で眠る兄の表情が初めて見るほど安らかだったのを見て、悲しみよりも安堵の気持ちが広がっていったのだ。


 兄の死後、両親は深い悲しみに苛まれた。それこそ、1,2年間はまともな笑顔を見たことがない程度には、二人とも嘆き悲しんでいた。


 二人の悲しみはよく理解できた。何より、私を可愛がってくれていた兄がもういないことに寂しさを感じていた。それは今もそうかもしれない。


「さ、可愛くできたわ。気を付けて行ってらっしゃい」


 夕焼けの橙が薄れていく。花火大会はすぐそこに迫っていた。


 私は姿見の前でくるりと一回転し、鏡越しに母に笑いかけてみせる。


「行ってきます」

 

 帯と同じ桃色の巾着袋を提げ、いつもより狭い足幅で歩き始める。部屋を出ていく間際、本棚の上に飾った兄の写真と目が合った。


 黒髪に黒い瞳、穏やかに微笑むその顔は鏡の中の私によく似ていた。


 だとすれば、私も美人の部類に入るのかしら、と自惚れた考えを抱いては、ふっと笑った。


 兄も、天国からこの花火を見るだろうか。今も退屈そうに笑っているのだろうか。


 そんな、どことなく感傷的な気分に浸りながら、慣れない下駄に足を乗せ、友人との待ち合わせ場所に急ぐ。






「瑛奈ちゃん! お待たせっ!」


 見事な花模様の描かれた橙色の浴衣を纏った友人が、ぱたぱたとこちらへ駆けてくる。彼女は今日も元気いっぱいだ。


「いやあ、浴衣だと歩くの遅れちゃうね」


 手で首元を仰ぎながら、彼女は屈託のない笑みを見せる。私もつられるようにして笑った。


「小百合はいつでも遅いでしょう?」


「ごめんごめん。でも、瑛奈ちゃんがしっかりしすぎてるのはあると思うんだけどな―」


 他愛もない話をしながら、私たちは道すがら林檎飴を購入し、観覧席へと移動した。流石、この街の一大イベントというだけあって、大層な人混みだ。


「やっぱり、この時間からだといい場所とれないかなあ」


 林檎飴にかぶりつきながら、小百合は辺りを見渡す。決して背が高いとは言えない私たちには、人混みの後ろからでは十分に花火を堪能できないだろう。


 ふと、小学生くらいの少年たちがはしゃぎながら私たちを追い越していった。涼し気な甚平姿で駆け回る彼らには、どうやら目的地がありそうだ。


「穴場があるのかもよ、ついていってみようよ!」


 私の浴衣の袖を引きながら、小百合は目を輝かせて彼らの背中を見つめていた。小百合のこういった無邪気さは、私はとうに失ったものなので好ましく思っていた。


「そうだね、行ってみる?」


 私が悪戯っぽく笑えば、小百合は軽く駆けるようにして少年たちの後を追った。

 





 すっかり紺色に染まった空に、街のシンボルである時計塔の影が浮かび上がる。高さにしてビルの5階程度の塔だったが、レンガ造りの外装はとても趣があった。


 少年たちに導かれるようにして私たちが辿り着いたのは、時計塔からは少し離れた川辺だった。どうやら穴場らしく、若いカップルや少年少女たちがちらほらと立っている程度だ。


「ここならよく見えるかも!」


 小百合はすぐ傍に花火の打ち上げ場所が存在するのを目にするなり、大袈裟にはしゃいで見せた。確かに迫力は満点かもしれない。


 花火大会の開始まで、あとほんの2,3分だ。私は林檎飴の袋を開け、甘ったるい赤色に口付けた。


「これで何回目だろうね、瑛奈ちゃんと一緒に花火見るの」


「そうだね……年の数だけ見ているんじゃないかな」

 

 だとすれば、これが16回目の花火だろうか。幼馴染もここまで来ると姉妹のようだ。


「来年も一緒に見たいね」


「そんなこと言って、小百合には恋人がいるかもしれないわ」


「瑛奈ちゃんよりも先に? それはないよー」


 他愛のない、いかにも女子高生らしい会話を楽しむ。林檎飴の表面がぱりんと割れた。


「ああ、始まるわ。今年の夏が」


 兄さん、私はこれで兄さんと同じだけの夏を過ごすことになるのね。


 先ほど母と兄の話をしたせいだろうか、感傷的な気分は未だに引きずっていた。それを打ち消すように、そっと目を閉じて夏の喧騒に耳を澄ませる。


 蒸し暑いほどの熱を運ぶ風、子どもたちの笑い声、耳元で揺れる髪飾り。その全てが、夏の始まりを物語っていた。



 そんなとき、ふと、穏やかな夏の喧騒の中に、誰かの悲鳴が入り混じる。同時にすぐ隣で袖を強く引かれるのが分かった。


「瑛奈ちゃん、大変! 逃げなきゃっ……!」


 あれ程美味しそうにほおばっていた林檎飴を地に落とし、小百合は夏に似合わぬ真っ青な顔で川辺を見つめていた。すぐに煌煌と燃える炎が目に映る。


 ああ、綺麗だ。逃げ惑う人々の中で、そんな感想を真っ先に抱くあたり、私も兄さんの妹なのだなと思う。


「引火するぞっ!」

「早く逃げろっ!」


 大人たちの声が遠くに聞こえた。とにかくも逃げなければ。傍から見れば茫然としているだけの私を、小百合は必死に引っ張って一緒に逃げようとしてくれていた。


 穴場だと思ったこの場所は、川辺に向かって下り坂になっており、下駄では上るのも一苦労だ。小百合としっかり手を繋ぎながら、それでもどうにか上っていく。


 だがその瞬間、下駄の片方が脱げ、その拍子に足をくじいてしまう。


「っ……」


「瑛奈ちゃん!?」


「……小百合、先に上って! 大丈夫、すぐに行くから」


「駄目だよ、手を貸して!」


 どこまでも小百合は優しい子だ。ここで問答を繰り返すよりは、差し出された手に素直に助けられるべきなのだろう。くじいた足を庇いながらそっと立ち上がり、彼女の手に触れようとした瞬間――。


 花火が、上がった。だが空にではない。大輪の花が、地上で咲き乱れたのだ。


 その衝撃でバランスを崩した私は、成す術もなく緩やかな坂を転げ落ちていく。目も眩むような光の中、花火は次々に暴発していた。


 熱い、痛い、眩しい。


 花火の欠片が、浴衣の裾や袖に纏わりついては小さな炎を生み出していく。

 

 ああ、折角、おばあちゃんが仕立ててくれた浴衣だったのに。お母さんが綺麗に着付けてくれたのに。


 一筋の涙が目の縁から流れるのを最後に、私はそっと目を閉じた。

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