ーDay 2ー

 しばらく彼女は呆然としていた。

 何ごとか、今目の前で何が起きているのか、視界に飛び込んでくる情報に整理が追い付かず、わからないこと、解決させたいことがあまりにも多すぎたのだ。

 何十分とその状態でいただろうか、いや、もしかしたら数分も経ってはいなかったのかもしれない。どちらにせよ、彼女は一旦思考するのをやめた。

 抜け殻のように荷物も何も持たず立ち上がろうとして、手や足にまとわりついてくる何かの感触を覚え、我に返った。

「あぁ…………スマホ、か」

 無気力にスマホを持ち上げ、いつもの習慣というところか、側面にある電源ボタンを押した。画面には今日の日付と時間、そして友人たちと遊園地へ遊びに行った際撮影した写真が映し出された。

 時間は、今頃何もなければ高校の最寄りのバス停に着くはずの時間を表示していた。

「どうせサボりだとか思われるんだろうなぁ」

 彼女はスマホとイヤホンを無造作にバッグの中へツッコむと、今度はしっかりと意識を持って動いた。

(ここに居続けるわけにもいかないし、取り敢えず外に出なきゃ始まんない)

 バスの中間と前方に一つずつドアがあり、前方は完全にペチャンコになっていて出られないため、彼女は中間にあるドアから外へ脱出することにした。

 以前、彼女はテレビである方法を見たような記憶があった。非常時、電動でドアが開かなくなった場合は、どうにかして引き戸のように開ければ人力でもドアを開けることができるという。

 ドアの前に立つと、ちょうど窓の下あたりにある丸いくぼみに両手をかけて思いっきり引き戸の要領で力を込めた。

 しかし、事故の衝撃か、あるいは元より女の子一人の力でどうにかなるようなものではないのか、そのドアはビクともせず、開く気配が一切なかった。

 呆れたようにため息を一つ吐くと、改めてバスの後方部を見回した。すると、右側後方のある一点が目に留まった。

「あれって……」

 そこには赤いカバーのようなものがあった。よくよく見ると、それのすぐ横の窓には緑色のステッカーが貼ってあって、白色で「非常口」とあった。

 やおら近寄ると、その赤いカバーに手をかけた。カバー表面の説明書きを斜め読みして、それから剥ぎ取るようにその赤いカバーを取った。現れたのは、いくつかの器具と赤く塗装されたレバーだった。説明書きが言うには、赤いレバーを引くと、目の前の窓にしか見えなかったそのドアが開くらしい。

 赤いレバーをグイっと手前に引き倒すと、非常口の扉は呆気なく開いた。

「お、開いた」

 少女は非常口からヒョイと飛び降りると、改めて周りを見回して小さく身震いをした。

 人っ子一人いない。そして車が縦横無尽に停車し、或いはどこかしらにぶつかっている。こんな静かで、かつ奇妙なトーキョーを、彼女は見たことがなかった。

「どうなってんのよ、これ」

 恐る恐る周囲を見回しながら、他にも誰か人がいないか探してみるが、見える限り人っ子一人いそうにない。近くに停車する車を手あたり次第のぞいてみるも、そこに誰かがいたという形跡すらなかった。

 あたりを見渡して、一番近くにあった商業ビルに彼女は飛び込むように入った。

 そこは広く取られたエントランスに、左右に分かれた大きなエスカレーター。上の階まで見渡せる吹き抜けとそれに面して隔数階に設けられたテラス席。平日休日問わず賑わっていたであろう各フロアの店。

 しかし、そのどこにも人の影はなく、彼女がドアを開けて入ってきた時のドアの音、少女とともに流入した風の音が、そこかしこに虚しく木霊するだけだった。

 少女は、何か悪い夢でも見ているかのような気分だった。自分はまだ、本当はあのバスの後ろの席で、ずっと寝ている。降りるはずのバス停に着いたことすら気づかず、通り過ぎて、今も揺られているに違いないと思った。

 そのまま終着まで行けば、きっと運転手か誰かが起こしに来るだろう。そうして、こんな気味の悪い夢から、早く起こしてくれればいい。

「そうよ、きっとそうよ」

 そんなことを考えながらふらふらと外に出た少女は、ふいに何者かの声を聞いた。今いる建物の角を右折したその先からどうやら声が響いているらしい。

「うぅ……うぁあっ……あぁぁっ……!!」

離れたところから聞こえるその声は、恐怖に満ち、言葉にならない声で、ようやっと絞り出したような、叫び声だった。

(な、なに? なんなの?)

 不穏な空気を感じたが、恐怖心よりも、何が起こっているのかを確認したいという欲の方が勝り、彼女は恐る恐る、建物の陰から静かに様子をうかがった。

 見ると、全身を黒のスーツで包んだ、先ほど叫び声をあげていたと思われる男が、尻もちをついた状態で身をよじるようにして後ずさりをしていた。怪我でもしたのか、男は右足をだらりと伸ばし、引きずるようにしていた。

 おもむろに、手に持っていた銃を斜めに持ち上げて構えると、遠目でもわかるほどに震えた手で、男は銃口の定まらないままに引き金を引いた。

 乾いた銃声が数発響いた。少女は驚いて、思わず出そうになった声を両手で抑え、飲み込んだ。

(やば。ガチの銃声ってこんななの?)

 少女が衝撃に驚いている中、男はまたもや引き金を引いた。しかし、弾がなくなったのか、「カチャン、カチャン」と何かを弾く音が響いただけで、発砲されなかった。

「く、くそ! だれか……誰かっ、だれかぁっ!!」

 泣きじゃくりながら叫ぶ男に、少女は疑問と言い知れぬ不安を感じていた。それは、本能的に感じ取った恐怖や危険だったかもしれなかった。

 男の目線をたどって、別の建物が陰になって、ちょうど少女から見て死角になる部分から現れるのが何者か、声を押し殺し、少女はじっと見つめた。


「ひっ……!」


 突如として姿を見せたそれを見て、少女は思わず、小さく声をあげてしまった。

 それは人間の何倍も大きく、そして、到底この世の生き物とは思えないような、異形の姿をしていた。

 胴体はハエ、頭からは蜂にあるのに似た触角が生え、手足はカマキリのそれと等しく、落ち着きなく、しきりにそれらを動かしていた。

 恐ろしくなった少女は、とっさに建物の陰に身を隠した。それと同時に、背後からおぞましい音と、悲痛な断末魔が聞こえた。

 しばらく耳をふさいで座り込む彼女であったが、耐え切れずその場から逃げるように静かに走り去った。


「もう、もういや! 誰か! 誰か助けて!」

 半狂乱のような状態で、変わってしまったトーキョーの街を走る彼女。行く当てもなく、ただただ走った。しかし、どこまで走っても、見えてくるのは人気のない街並み、好き勝手な方向に停まる車。それでも彼女は、そんな状況から逃げたくて、とにかく走った。

 どれぐらい走っただろうか、息が上がり足も疲れてきたので、どこか物陰に隠れて休もうと足を止めて呼吸を整えていた時だった。

「ガサガサ……ガサガサ……」

 どこからともなく、何かが地面と接して、こするような音が響いてきた。

「今度は何?」

 辺りを見回していると、少し離れたビルの角から、その音の正体が姿を現した。

「いやぁぁぁぁーーーー!!」

 その正体は、またしても異形の姿をした化け物だった。体長は成人男性並みで、足と顔は蜘蛛、体はバッタに似た生物であった。

 少女は腰が抜けてしまい、その場にへたり込んでしまった。

「もう……もう、いや……」

 その場から一歩も動けずにいる少女の方へ向かって、その化け物は頭を向けた。その化け物の顔を真正面から見て、少女は一瞬涙が止まるほどに驚き、息を吸った。

 なんと、その化け物の目は醜く潰れ、えぐれたような状態になっていたのだ。

 匂いを嗅いでいるのか、それとも何かを探っているのか、頭を左右にゆっくりと振りながら、少しずつ、少しずつ少女に近づいていく。

「いや、いや、来ないで」

 重たい体を無理やり動かすように、力を振り絞って後ずさりしていく。だが、ゆっくりと、されど着実に距離が縮まっていく。

 もう無理かもしれない、半ばそう思い始めた時。

「化け物! こっちだ!」

 化け物の背後、斜め後方から男の声が響いた。化け物の躯体が声のした方へ転回する際、その声の主の姿が垣間見られた。

 その男は、薄い水色のカジュアルシャツにベージュのチノパンを履いていて、年齢はそう高くはなさそうだった。

 状況がつかめず呆気にとられていると、どこから現れたのか、彼女と同い年くらいの少女が音もなく側に駆け寄ってきた。

 サッとしゃがみ込みつつ、同時に、彼女と目が合うなり口に人差し指を当て、声を出さないようジェスチャーを出した。

「立てる?」

 少女は隣にいても聞こえづらいほどの小声で彼女に話しかると、彼女は無言のまま首を小さく横に振った。

「わかった。肩貸すから、頑張って」

 少女に肩を貸してもらい、何とか立ち上がった彼女は、少女の案内のもと、近くの建物の中へと避難した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生残東京〈スレイヤーズトーキョー〉 昧槻 直樹 @n_maizuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ