第5話 真実

 私はあわてて窓から飛び降りました。

 ついて来ないでと言われて、それを実行する気は毛頭ありません。

 もうヒロと孝一はスタートし、雑木林の中の、舗装された一本道を歩いています。

 すぐに桃ちゃんを見つけられると思ったのは間違いでした。暗闇と植え込みが桃ちゃんの姿を、虫の声や土の匂いが気配を消しているのです。

 私は歯噛みしました。

 もっと強く止めておけばよかった。もし本当に祟ったら、めぐりめぐって困るのは桃ちゃんだというのに。それなのに。

「笹渕さんって結構実はおとなしい?」

 危機が迫っているかもしれない本人は、のんきにヒロに話しかけています。

 油断なく辺りを見回していたヒロは、裏返った声で応じました。

「そ、そう? そう見える?」

 いや、だってと孝一は笑っています。

「一緒のクラスなったことなかったけど、もっとにぎやかな人だと思ってたからさ。意外に静かでびっくりした」

 怖がって口が利けないだけのヒロは、引きつった愛想笑いでごまかしています。

 私は彼らを少し離れた後ろから尾行するような形で、桃ちゃんを探していました。もうすぐ雑木林が終わってしまいます。

 と、そのとき、孝一側にある植え込みがガサリと音を立てました。

 ヒロと孝一が悲鳴を上げた瞬間、私は舗装された道を外れて砂利の中を突っ切り、植え込みの背後に回りこみました。

 ちがう。

 思わず舌打ちをしてしまいました。

 そこにいたのは桃ちゃんではなく、きょとんとした顔のタヌキだったのです。

「何? 今の何?!」

 興奮している孝一に、息も絶え絶えに答えるヒロの声。

「たた、たっ……たぶん、猫かタヌキ……」

 一拍間をおいて、孝一は言いました。

「ふうん。タヌキもいるんだ……」

 私はきょろきょろしましたが、桃ちゃんは見当たりません。

 立ち止まっていたふたりはまた歩き出します。

 風が出てきて雲が流れ、月が道を照らしました。

「オレもさぁ、昔猫飼ってたんだ」

 孝一の声を聞きながら私は、前方の大きな石の陰に、何かの気配を感じました。

「……そうなの?」

 ヒロの声と同じくらい、私の呼吸も震えていました。どくり、どくりと心臓が早鐘をついています。

 私は音を立てないよう、ゆっくり石に近づいていきます。

 ひどいんだよ、と孝一は鼻をすすりました。

「オレがちゃんと見てなかったせいで、猫が妹引っかいちまったの。オレもつい怒っちゃったんだけど、両親がヒステリー起こしちゃってさ」

 石に近づくにつれ、桃ちゃんの体の一部がはみ出しているのが見えました。

 暗闇に溶け込みそうな、黒い尻尾。

 私は後ろ足を曲げ、呼吸を落ち着けます。

 一瞬だけ月が翳り、薄闇が辺りを覆った瞬間。


「火事があった日の夜、親が勝手にどっかに猫捨てちゃったんだ」


 ぶわりと、桃ちゃんの尻尾が膨れ上がりました。

 私はその尻尾に飛び掛かりましたが、一瞬早く、桃ちゃんは石の上に駆け上がっていました。

「お母さんが……!」

 桃ちゃんはそうつぶやくと、逆立った毛をぶるりと震わせ、来た道を全速力で引き返していきます。

 私はうなると、駆け出しました。

「なぁ、同じ猫飼いとしてどう思う?」

 という、泣き声に似た孝一の声を聞きながら。



 砂利を蹴るたびに心臓が跳ね、冷たい風が私の毛並みを叩いていきます。

 風に吹かれて夜が一瞬月に照らされ、青白く光り。

 また雲が出ては、闇になり。

 色を変える夜の中、桃ちゃんはその身を周囲に溶け込ませ、孝一のお母さんのところへ躍り出ました。

 雑木林の入り口。退屈なのかぐずる美緒を、童謡であやすお母さん。

 その背後で、桃ちゃんが緊張と怒りに身を震わせながら、呼吸を整えています。

 私は砂利を蹴って、思い切り跳躍しました。

 私に気がついた桃ちゃんはよけようとしましたが、間に合いません。

 体当たりしてそのまま一緒になって転がると、応戦しようとする桃ちゃんの首根っこに噛み付いて、そばにあった植え込みに引きずり込みました。

「え……っ? 何? 今の何?!」

 怯えたお母さんの声に、美緒の泣き声が重なります。

 なおもお母さんに牙をむき出す桃ちゃんを見て、私は自分の尻尾を地面に叩きつけました。

 砂利がはじけ飛ぶ激しい音に、お母さんは悲鳴を上げました。

 美緒を必死に抱きかかえて、本堂へ逃げていくお母さん。それを見て桃ちゃんが叫びました。

「何で邪魔するのよ!」

 私は桃ちゃんを放し、フーッと威嚇しました。

 桃ちゃんはひるみましたが、退きません。震えながらも、私をにらみつけています。

「何でじゃないでしょう。自分の居場所をなくしたいの」

「だって……!」

 勝手に捨てられたんだよ! と桃ちゃんは金切り声で言いました。

「もしかしたら、孝一は許してくれてたかもしれないのに。知らなかったから、あたし、あたし!」

 私は顔をしかめました。

 あの日の夜、誰もいない境内で箱から飛び起き、孝一の名前を呼び続けていた桃ちゃん。

 悲しくて涙を流せるものなら、泣きたい気分だったでしょう。

 でも現実には、私たち猫は悲しいからといって泣けないのです。

 目に激情を浮かべ、喚くだけ。

「何であたしの居場所を奪った人に、復讐しちゃいけないのよ!」

 桃ちゃんは悔しがるように、右前足で砂利を蹴り飛ばしました。

 飛んできた砂利をかわし、ごくりと唾を飲んで私は言いました。

「それで今の居場所がなくなるかもしれないから」

 ざぁぁ、と木が大きくざわめくほどの風が吹きました。完璧に雲が取り払われ、美しい星空が見えます。

 青白く照らされた桃ちゃんの表情は、凍り付いていました。

「私、言ったよね? お父さんだって迷惑だったら追い払っちゃうかもしれないって」

 私の言葉に、ひくりと桃ちゃんの口が動きます。そんなこと、と言いかけて、口を閉じてしまいました。

 私だって、そんなことをお父さんがするとは思えません。思いたくもありません。

 自分も家族の一員だと、信じていたいのです。

 桃ちゃんを脅すために言った言葉に、自分自身が怯えてるのだと私は気づきました。

 私は震える声を励まして、言いました。

「今お母さんに何かして、怪我させたらそれはお寺の責任になっちゃうんだよ。昔の家族のために、今の家族を悲しませるの?」

 桃ちゃんは徐々に、うつむいていきます。下を向けば、そこに答えが埋まっているとでもいうかのように。

 やがてしおれた顔で、桃ちゃんは答えを掘り当てました。

「……家族だったら、追い払わないはずなのに……」

 私は跳ね上がった鼓動を抑えるため、大きく息をつきました。

 桃ちゃんは悲しげに耳を伏せてます。

 しばらく考え込んでいましたが、ふいに悟ったように、静かな声で言いました。

「……たぶん美緒を傷つけた時点で、お母さんたちにとっては、あたしは家族じゃなくなったんだ……」

 その言葉は私を刺して、見えない血痕を残していきました。

 自分もお父さんたちと家族じゃなくなることが怖いのだと、その血痕は示していたのです。

 心の奥底で、しっかりと。



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