第2話 桃ちゃんは祟りたい

 なんとか合意を得てヒロはほっとしたようですが、この話し合いはここで打ち切りになりそうです。

 じゃりじゃりと、境内の砂利を踏む音が聞こえてきました。お父さんの足音です。

「おっ、いたいた。お前ら、飯の支度手伝え」

 暑そうに袈裟を脱ぎ、着物の袂をパタパタさせながら、お父さんは言いました。

 兄妹は不満げでしたが、晩御飯がハンバーグだと分かると、どたどたと自宅の台所へ駆けていきました。二人とも肉をこねて丸める作業が大好きなのです。

 具体的にどう肝試しをやめさせるのか聞けなかったのは残念ですが、私はお父さんが来たことをうれしく思いました。

 さすがはお坊さんで徳が高いといいますか、彼は私たちを邪険にせず、この寺の中で誰よりもやさしく接してくれるからです。

 お父さんも兄妹のあとを追おうとしていました。私はお父さんのそばに行きたくて足を踏み出しかけ――気配を感じてはっと振り向きました。

 仏像の陰に、何かがいます。私は鋭い声でたずねました。

「誰?!」

「あたし」

 のんびりした声が聞こえました。

 声の主は、ぴょこんと像の陰から顔を覗かせます。

 宮子と同じ年頃の女の子が、ちょっぴり眠たそうな顔で私を見つめていました。




 桃ちゃんは眠たそうでした。寝そべった姿勢で、いつも持ち歩いているウサギのぬいぐるみに顔をうずめています。

 祟りたいといっているのはこの子なのですが、それはおいおい説明していきましょう。

 桃ちゃんのつややかな黒い毛に夕焼けの赤が一瞬反射し、私は目を細めます。

「そこに入っちゃだめ。お父さんに怒られるよ」

 はーい、とのんきな返事をして、桃ちゃんは仏像の陰から出ました。私はなんとなく、仏像を振り仰いで尋ねました。

「ここで何してたの?」

「ゴロゴロしてた。おばちゃんは?」

 おばちゃんという年齢ではないのですが……まあ、こんな小さな子から見れば妥当な呼び名なのでしょう。

 私は桃ちゃんをいざなって境内へ出ました。

 そのまま墓地の入り口近くにある、桜の木の下に腰掛けると、先ほどのヒロと宮子のやり取りの話をしました。

「肝試しはなくなるかもしれないよ」

 私は期待をこめて言ったのですが、桃ちゃんはつんと鼻をそらして取り合いませんでした。

「あるよ。だって、お父さんが乗り気なんでしょ? それに」

 んふ、と桃ちゃんはいやな笑い方をしました。

「肝試しがなくったって、あたしは孝一の居場所が分かればいいんだもん。絶対あたしを捨てた孝一に、祟ってやるんだから!」

 ああ、結局そうなってしまうのか。

 にやりと笑う桃ちゃんの隣で、私はこっそりため息をつきました。



 桃ちゃんが祟りたがっているのは、この町内に住んでいる、孝一という子です。

 町内といっても広いので、私は面識がないのですが、ヒロと同じ六年生だそうです。

 孝一は初めて自分の名前を親しげに呼んでくれ、長いときを仲良くすごしてきた子なんだとか。

 たぶんそれは、桃ちゃんの初恋だったのです。

 孝一と遊んだ思い出を語るときの桃ちゃんは、いつもより可愛らしい、穏やかな表情をしています。

「でもね」

 桃ちゃんは暗いまなざしをして、鼻にしわを寄せました。

「家で遊んでたとき、孝一の妹に怪我させちゃったんだ。そしたら“お前なんかもういらない、一緒に遊びたくない”って孝一が怒って」

 もう何度も聞いている話なのですが、私は話の腰を折らないように黙っていました。

 このくだりになるといつも、桃ちゃんは底なし沼に突き落とされたような表情を浮かべるのです。

「あたし、何回も謝ったのに。孝一のお母さんとお父さんまで怒らせちゃって……。もうどうにもならなくなった、その夜」

 桃ちゃんの声がかすれ、語尾が消えました。それにかぶさるように、窓を開けている台所から、兄妹の笑い声が聞こえてきます。

 やがてその声が収まり、セミの鳴き声だけが耳に痛い中で、ぽつりと桃ちゃんは言いました。

「起きたら真っ暗な箱の中で――気づいたら、お寺がお家になっちゃってた」

 うん、と私は相槌を打ちました。そのとき、ぽとりと視界の端で、近くの木から何かが落ちていくのが見えました。

 それは、命のつきかけたセミでした。仰向けになり、ばたばたと羽と足を動かしてもがいています。

 あがいても、あがいても、自分ではどうにもできないことがあります。

 セミのその様子は、桃ちゃんの初恋の末路に似ていると私は思いました。

 私は目を閉じ、桃ちゃんがこの寺に来た日のことを思い出します。

 町内で真夜中、火事があった日。

 遠くで赤く染まる空を背景に、境内で呆然と立ち尽くす桃ちゃんの姿。

 沈んでしまった空気を振り払うように、桃ちゃんはぶるりと体を震わせました。

 自分を励ますように、桃ちゃんは恨みがましい声を出します。

「でも、許してくれないんだよねぇ」

 その証拠に、あの日から一年たった今でも孝一はあたしに会いにこない――と桃ちゃんは言いました。

 そうだね、と私はうなずきました。

 でしょう? とやっと、桃ちゃんは笑みを取り戻しました。あまり愉快そうな笑みではありませんでしたが。

「だから祟るんだ。あたしのこと忘れるなって」

 背筋をピンと伸ばし胸を張る桃ちゃんでしたが、私にはそれが本音だとは、どうしても思えません。

 私は真顔で尋ねました。

「祟るって、いったい何をするつもりなの」

 びくりと、桃ちゃんの背筋がこわばりました。

「……そ、それは、孝一に会ってから考えるのっ!」

 裏返った声を出してあわてる桃ちゃんを見て、私は吹き出すのをこらえました。

 しかし、こらえていてもばれてしまうものですね。桃ちゃんは露骨にむっとした顔をしました。

「笑わないでよ。止めても無駄なんだからね」

「わかってる」

 私はうなずきましたが、すぐに真顔に戻りました。

「でも、お寺に迷惑がかかることはしないで。いくらお父さんが優しくても、迷惑な子はきっと追い出しちゃうよ」

 やや、桃ちゃんはひるみました。

 わかってる、と小さな声でつぶやくと、ぷいっと背を向けて墓地の方へ行ってしまいます。


 ふう、と心の中で私は息を吐き出しました。

 もちろん、今桃ちゃんに言った言葉は、大それたことをしないための牽制です。

 しかし。何度も桃ちゃんの身の上話を聞くうちに、私も考えてしまったのです。

 私が不注意でヒロや宮子を傷つけるようなことがあったら、お父さんは私を追い出すだろうか、と。

 それは私にとって、背筋が凍るほど怖いことでした。

 私は数年前、たまたまこのお寺に、というより、お父さんに拾われた形で救われました。

 真冬にお寺へ入る石段でへたりこんでいたところを、お父さんに助けてもらったのです。

 ここに来るまでひとりで自由に生きてきましたが、その生活の中にはかじかむような寂しさがありました。

 もう、あんな思いをするのはいやだ、と私は思いました。

 そんなことには絶対にならないと思いたいのですが――。

 もし本当に追い払われてしまったら、桃ちゃんも同じ思いをしてしまうかもしれません。

 私は桃ちゃんにそんな思いはさせたくありませんでした。

 それに理由があるにしても、ヒロと同じ年頃の子が傷つくのはいやです。お父さんも悲しみます。

 せめて肝試しがなければ、直接桃ちゃんと孝一が会わずにすむのですが。

 これは兄妹の働きに期待するしかないかな、と思いつつ、私は立ち上がりました。




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