真津蛾晴男の手記

 親愛なる藤本君へ


 いま僕は、君のアトリエにある書斎で……テーブルの上にしてスヤスヤ眠っている君の隣でこの手記を書いている。書き終えたら眠っている君の部屋着のポケットにこっそり手帳を入れておくつもりだ。

 君がこの手記を読む頃、僕は君の前から姿を消しているだろう。

 自分に訪れた『覚醒かくせい現象』がいよいよ最終段階に入ったことを僕は自覚している。

 これからの数時間で、僕の肉体には劇的な変化が起こるだろう。

 それは、人間の側から見れば、驚きと恐怖を感じさせる異様な現象と映るに違いない。

 いたずらに君を驚かし恐れさせるのは僕の本意じゃない。

 だから、しばらくの間、君の見えない場所に隠れているよ。

 今夜から明日にかけて、周囲の森には濃い霧が立ち込めるようだ。身を隠すには、おあつらえ向きだ。

 僕の予想が正しければ、数時間遅れで君の体にも僕と同様の変化が起こるはずだ。

 それが完了すれば、僕らは真の同族……本当の意味で兄弟しんゆうになる。

 ここまで読んできた君が、僕の書くことを理解できず困惑している姿が目に浮かぶ。

 せっかちは僕の悪い癖だ。途中を飛ばしぐに結論に持って行きたがる。

 ここはひとつ落ち着いて、さっき君が寝入ってしまう前にしていた話、その続きから始めようか。

 かつて、この地球上には、人類とは別の知的生命体が存在し、彼らは人類との戦いに敗れ空間の裂け目に追いやられた所までは話したね。

 そして、人類の中にごく少数だが彼らを神とあがめ、その神と契りを結び、彼らの優秀な身体能力と強力な霊力を血脈に宿した人々が居たことも。

 僕の生まれた真津蛾まづが家も、そういう『神の血を受け継ぐ家系』の一つなんだ。

 残念なことに、我々の神は……人類にとってむべき異種族は……この世界から隔離された別の空間に幽閉されてしまった。

 つまり信者の家系に流れる神々の血は、もう長いあいだ更新されていないという事なんだ。

 親から子、子から孫、孫から曽孫ひまごへと血筋が引き継がれる過程で、人智を超えた能力を持つはずの神々の血は二分の一、四分の一、八分の一……と希釈されていき、数千年、数万年の時を経て、もうほとんど他の人間と変わらないほどに薄まってしまった……

 眠れる古代神を崇めその血を宿しているはずの我々一族も、いまや平凡で無力なただの人間と変わらない。

 となれば、信仰をひた隠しに隠し、その時代その時代の権力におもねって生きるしかない。

 これが、かつて人類と地上の覇権を争った知的生命体を神とあがめる信徒一門の、どうにも情けない現状というわけさ。

 ……しかし、可能性が全く無いわけでもなかった。

 我が真津蛾まづが家をふくめ、古代神を信ずる者の家系には、ごくまれに、眠れる古代神の遺伝子が突如発現し、容貌の急激な変化とともにその優れた能力を一気に開花させる者が現れるんだ。

 それは、事情を知らない外部の人間から見れば、『突如として人が人でなくなる』現象に映るだろうね。

 問題は、この現象がまれにしか発生しない事……つまり、古代神信徒の一族であっても、ほとんどの子孫は『平凡で非力な人間として』生まれ、育ち、成長して、死んでいくしかないって事なんだ。

 もはや『ただの人間』として生きざるを得ない一族の者らにとって、家族の中に突然変異的に現れる『異形の神の血を引く子』は、厄介な存在だ。

 それは、自分たちの血筋に確かに古代神の血が流れているという誇りでもあり、同時に、時の権力者に知られれば弾圧と迫害を受けかねない危険因子でもある。

 そういう『覚醒してしまった子』をどう扱うか、対応は信者の家系それぞれで違うが、我が真津蛾まづが家には『秘密裏に放逐ほうちくし、行方不明者として処理する』という暗黙の掟がある。

 つまり、こっそり家から追い出しておいて、官憲には行方不明として届け出る、ってことさ。

 君はひょっとしたら『なんて酷い一族なんだ』といきどおるかも知れない。しかし僕は親兄弟を恨む気にはなれない。

 僕は思うんだよ。古代神の血を引きながらも、あくまで人間としての生をまっとうするのが一族の決断なら、それはそれで尊重する価値がある、とね。

 しかし、そうは言っても理性と感情は別物だ。

 理性として一族の掟を尊重しようと思っていても、自分が人間でなくなり親に捨てられる可能性があると幼いころに知らされ、いつ我が身にそれが起きるかとビクビクしながら育つというのは、なかなか感情的には厳しいものがあるさ。

 僕ら兄弟は、真津蛾まづが家に生まれたものとして、いつ古代神の血が覚醒し、親兄弟から絶縁され、人としての生活を断たれ、異形の体となって孤独に生きることになるか……というストレスを常に抱えながら今まで生きてきた。

 誰かに相談することも出来ない、誰にも分かってもらえない思いを抱えて生きるというのは、本当に孤独だ。

 後述するが、実は、他人の中に眠る古代神の遺伝子を強制的に覚醒させ、一気に仲間を増やす方法が無いわけじゃない……その方法を同じ血族である父と兄に対して使えば、僕を含めて親子三人仲良く一緒に異形の神になれるんだ。

 しかし、そんな事をして何になる?

 かつての知的生命体のように、人類に対して挑戦状を叩きつけるか?

 どんなに身体能力が優れていても、強い霊能力を持っていても、三人ぽっちで何十億人もの人類に宣戦布告するなんて馬鹿げている。

 それに……真津蛾まづが家の当主である父および兄と僕は、確かにかつて古代神と契りを結んだ信徒の子孫だ……しかし母さんは違う……母は、ごく普通の人間の家庭からとついで来た女だ……ある日突然、夫と息子たちが異形のバケモノに変化へんげしたら、どうなる? ……いや……そんな母を悲しませるようなことは、僕には出来ないね。

 こうして、僕と兄は「いつ自分がバケモノに変化するか分からない」という恐怖と孤独を抱えて育った。

 同じ運命を背負っていても、父も兄も、僕よりずっとタフで立派だった。

 二人とも、いつ自分の体に変化が起きるか分からないというストレスを乗り越え、この人間社会で出来る限り前向きに生きることを選んだ。

 でも……僕は駄目だった。

 ご存知の通り、若い頃の僕は、ただ自堕落で享楽的な生活をダラダラと続けた。

 いつバケモノになるか分からないのに、真面目に働くなんて馬鹿らしい……当時はそんな風に考えて、ヤケになっていたんだな。

 そして……自堕落で享楽的な日々を送る僕の前に……


 * * *


 ……いよいよ『覚醒』が始まったようだ……思うように字が書けなくなってきた……もう少しだ……もう少しでこの手記も書き終わる……どうかそれまで人間で居させてくれ……

 急いで話を先に進めよう。

 文字が乱雑で読みにくくなって行くかもしれない。なんとか読みこなして欲しい。


 * * *


 あの夜、あのナイトクラブで、女たちを引き連れてバーカウンターに降りて行き、そこ君を見たときの僕の驚きを分かってもらえるだろうか……

 ひと目みただけで、僕は直感した。

 、と。

 これも古代神の血のなせる技なのだろうか……理由は分からないが、とにかく君と僕が潜在的には同じ能力を持った同族だと確信できた。

 無性に嬉しかったよ。

 兄弟以外には誰にも言えない孤独を抱えて今まで生きて来た僕が、初めて会った「分かり合えるかもしれない他人」なのだからね。

 それからの僕と君との付き合いをこの手記に書く必要はないだろう。

 ただ一点だけ、君に謝なければいけない事がある。

 実は、君と友人関係になった直後、こっそり優秀な探偵を雇って君の身辺や生い立ち、そして特にについて調べさせたんだ。

 これは親友の信頼に対する重大な裏切りだ。

 済まない。どうか許して欲しい。

 ただ……『ある件』に関する探偵の調査結果を聞いたとき、僕が跳び上がって喜んだという事をどうか信じてくれたまえ……それほどに、この調査は僕にとって切実なものだったのだよ。

 探偵の報告書には、こう書いてあった。

「藤本家と真津蛾まづが家のあいだには血縁関係がある可能性が高い」と。

 話は、明治時代にさかのぼる。

 当時、真津蛾まづが家は東京でそこそこ手広く商いをして、それなりに裕福に暮らしていたらしい。

 ある時、そこに――県の田舎から若い娘が女中としてやって来た。

 そして……まあ、良くある話だが……奉公先のお坊ちゃん(つまり真津蛾まづが家の後継あとつぎ)と恋仲になった。

 それから色々あったらしいが、結局この恋は実らず、娘は真津蛾まづが家から手切れ金・口止め料・退職金をまとめて渡され追い出され、失意のまま故郷の田舎に帰っていった。

 そのとき娘は、既にお坊ちゃんの子を身ごもっていた。

 やがて月が満ち、女の子が生まれた。

 母親は女手ひとつで赤ん坊を育て、成長した女の子は、同じ県の別のまちにあった藤本という家に嫁いだ……つまりそれが君の祖先さ。

 分かっただろう?

 君にも、僕と同じ古代神の血が流れているんだよ。

 ……しかし、ここで再び僕は悩んだ……

 いま書いたような事実を君に告げるべきか、否か。

 見たところ君自身は、自分の中に古代神の血が流れているなんてことには全く気づいていないようだったからね。

 自分が異形の神々の遺伝子を持っていると知る……それはすなわち、僕や兄と同じ孤独と苦悩を、君も背負ってしまうという事だ。

 僕と君が同族だと知って欲しいと思うのと同じくらいの強さで、君は何も知らないまま普通の人間として生をまっとうして欲しいという思いもあった。

 そして、いつ僕の体に『覚醒』が起きて異形の怪物に変化するか分からないという状況の中で……僕がまだ人間でいる間に……あくまで『人と人』として、出来るだけ交友関係を続けていたいとも願っていたんだよ。


 * * *


 今から十五年前……ちょうど君が美術大学を卒業する頃、とうとう僕の体に『最初の兆候』が現れた。

 古代神の血を継ぐ者がその能力を『覚醒』させるのに掛かる時間は、個人個人で大きく異なる。

 最初の兆候が見えてからわずか一時間程度で『変態』が完成してしまう者も居れば、何十年もかけて徐々に進行する者もいる。

 僕の場合は十五年かかったというわけだ。

 こうなってしまっては、もう君の前に姿を表すことは叶わない。

 ……いや、知り合いの誰とも……家族にさえ、もう二度と会えない……それが真津蛾まづが家の『掟』だ。

 父は掟に従い、残りの人生(そんなものがあったとして、だが)を暮らすのに充分な現金を持たせ、二度と帰ってくるなと言って僕を放逐ほうちくした。

 僕も、父の決断を受け入れ、従った。

 辛かったが……幼い頃から覚悟していたことだ。

 それから、各地を転々としながら、目立たぬよう、目立たぬように社会の片隅で生き続けた。

 自分の中で徐々に進行する『覚醒現象』と向き合いながらね。

 われわれ古代神の信者はその時代その時代の権力者によって弾圧を受けて来たことは話した……しかし、ここ百年間に限って言えば、本当に恐ろしいのは『表の』権力機構や警察組織じゃないんだ。

 ……じゃあ、一番恐ろしいのは誰かって? 詞雅見しがみ財団さ。連中のほうが、はるかに過酷で残酷だ。

 覚醒後の我々の肉体は強靭だ。

 多少の銃弾や刃物による攻撃は簡単にね返せる。

 例えば日本の警察官が装備しているようなものの事だね。

 だが、詞雅見しがみ財団は違う。

 奴らは……完全ではないにせよ……我々の『念能ねんどうエナルジー』にダメージを与える道具をいくつも開発している。

 恐ろしく厄介な連中だ。

 この十五年間の僕は、国家権力から逃亡していたというより、詞雅見しがみ財団から逃げ回っていたと言った方が正しいんだ。

 社会の底辺を逃げ回りながら……いつも思い出すのは君のことだったよ。

 家族以外で唯一、仲間かもしれないと思えた人間だ。

 この十五年間、思い切って君に会いに行こうと何度思ったか……

 しかし同時に私は……君には『古代神の血脈と詞雅見しがみ財団の闘争』なんぞに巻き込まれて欲しくない、このまま普通の人間としての人生を送って欲しいと……思っていた。

 まったく、僕の心は、相反あいはんする二つの思いで引き裂かれそうだったよ。

 ……今から一週間ほど前、僕の『覚醒現象』がついに最終段階に入りつつあることを自覚した。

 そして……とうとう……僕は、君に対して、ある『禁断の儀式』を行おうと決意した。

 ……我ながら本当に自分勝手な男だと思う。でも……自分が抑えられなかったんだ。


 * * *


 君は、南米に生息するある種のについて知っているだろうか?

 その大きく美しいはねを持つは、産卵期になると樹木の葉の裏側に何十個もの卵をびっしりと産む。

 やがて卵から幼虫がかえり、何十匹もの芋虫が樹木の葉を食べながら成長していく。

 芋虫たちの中にも、成長の早いもの、遅いもの、いろいろ個体差がある。

 他よりも成長が早く、一足先にサナギに変態した一匹の芋虫がいたとき、虫たちの集落コロニーに何が起きると思う?

 サナギ化した一匹の体から、ある種の化学物質……フェロモン……が発散されるんだ。

 撒き散らされたフェロモンは、他の芋虫たちの体内に取り込まれ、ある特殊な受容体と結合し、その芋虫に対し強制的にサナギ化現象を引き起こす。

 つまり、群れの中の一匹がサナギ化することで、群れ全体で一気にサナギ化が進むんだ。

 ちなみに、芋虫の体内でその特殊フェロモンが生成される過程において、中間触媒として微量ながらエタノール(エチル・アルコール)を必要とする。このの幼虫は、体内にある種のバクテリアを飼っていて、食べた木の葉を体内で発酵させアルコールを精製するんだ。

 ……だんだん分かってきたかい?

 そうだ……これが、さっき書いた『他人の中に眠る古代神の遺伝子を強制的に覚醒させ、一気に仲間を増やす方法』だ。

 これとほぼ同じ現象が、今夜、僕と君の間にも起きたはずだ。

 玄関で久しぶりに僕と再開したとき、ひょっとして僕の体から奇妙な『匂い』がするのを君は感じたんじゃないか?

 その匂いが、酒宴が始まり僕がアルコールの飲むたびに強くなっていったことに気づいただろうか?

 ……そうだ……その匂いが君の遺伝子に作用を及ぼす。

 僕の体で十五年かかった『覚醒現象』は、君の肉体にいてはわずか数時間で完了するはずだ。

 このことを知って君は怒るか?

「自分勝手だ」と言って僕をなじるか?

 しかし、想像してくれ給え……『覚醒』が完了すれば、君は人間を超えるんだ。

 人間よりも遥かに優れた強靭な肉体を手に入れ、強い霊力をあやつり、自由に空を飛べるようになるんだ。

 この能力は、世界でたった二人、僕と君だけのものだ。

 君の『変態』が完了したら、二人で大空を思う存分飛び回ろうじゃないか。


 * * *


 ……そろそろ……本当に時間が来たようだ……

 ……僕は今から人間でなくなる……そして数時間後には君も……

 ……ひとあし先に天空に行く。そこで待っているよ……

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遺産相続 青葉台旭 @aobadai_akira

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