4.
書斎のテーブルに
『誰か』と言っても、今夜この
毛布を私の体に掛けながら、
「水晶の銃だ……水晶の銃を持つ男たちに気をつけろ」
今度こそ本当に、私の意識は眠りの闇に沈んでいった。
* * *
窓から入る朝の光で目が
テーブルに伏せていた上体を起こすと、肩に掛けられていた毛布がフワリと床に落ちた。
「朝か……」
頭が痛い。二日酔いだ。
いつもなら外の森からこの
(……やけに静かだな……)
嫌な予感がした。
首を回して窓を見ると、カーテンを開けたままの窓の向こう側は、濃密な白い霧で満たされていた。
真っ白で木々も草も何も見えない。
立ち上がって、改めて室内を見回す。
書斎を出て便所で用を足し、台所へ行って冷蔵庫からミネラル・ウォーターを出してガブ飲みし、それから
それほど広い家でもない。
隅から隅まで回るのに、さほど時間は掛からない。
……どこにも
玄関に戻り
(外に出たのか? まさか家の主人である私に黙って去ってしまったのか?)
だとしたら、相変わらず身勝手な人だ。
私は部屋着のまま素足の上から自分の革靴を履いて、玄関の扉を押した。
締めたはずの鍵が開いていた。
(……やはり
外に出ると、五メートル先も見えないような濃い霧が森に満ちていた。
手探りするように歩いて、町へ降りる唯一の道へ出た。
森の中をくねくね曲がりながら走る細い山道だ。
(そう言えば、マイカーでここまで登って来たって言ってたな)
近くにクルマが停めてあれば、まだこの近辺にいるという事だ。
まずは、町へ降りる方向に歩いてみた。
五十メートル程ゆっくり歩いたが、クルマは見当たらなかった。
いったん家の前まで戻り、今度は山へ登る方へ歩く。
十メートルも行かないうちに、それらしきクルマを発見した。
この細い山道には、所どころ退避所のように道幅が膨らんだ場所があった。
そのクルマも、そうした退避所の一つに寄せて停められていた。
ありふれた中古の軽自動車だった。
ぱっと見、十年落ちくらいだろうか。
窓から車内を
後部座席の上に、大小二つの
(親から
それほど高級そうな鞄でもない。中に札束が入っているとしたら、わざと安っぽい鞄を選んで入れたという事だろうか。
なんにせよ、クルマがあるのだから彼はまだ近くにいる。いくら
(おおかた、森の中の散策と
そんな事を思うと、急に
(とにかく、いったん
私はクルマを離れ、相変わらずの濃霧の中を自分の家に向かって歩いた。
玄関から中に入り、扉の鍵を掛け、熱いシャワーでも浴びようと風呂場へ向かった。
脱衣所で部屋着を脱ぐ直前、ポケットに何か入っているのに気づいた。
手を入れてみると、小さな黒い手帳だった。
身に覚えが無かった。
(何だ?
手帳の内容も気になったが、とにかく先にシャワーを浴びることにした。
脱衣所で服を脱ぎ、鏡に映った自分の姿を見て、私は叫び声を上げた。
……何だ、これは……
胸、腹、太もも、肩、上腕の皮膚の上に、奇妙な幾何学紋様が浮かび上がっていた。
黄色、緑、青、赤……鮮やかな原色が私の皮膚の上で踊っている。グロテスクな紋様だったが、ある種の美しさも感じられた。
一瞬、
(やつか……やつの悪ふざけなのか?)
だとしたら、あまりに
ジョークで済ませられる限界を超えている。
カッと頭に血がのぼった。
もし近くに
私は洗面台の蛇口をひねり、掛けてあったタオルを水に浸して鏡の前で自分の胸を強く
いくら擦っても、胸に描かれた紋様は落ちなかった。
タオルを放り投げ、指で
(油性ペンか何かで
いや、違う。
嫌な汗が全身から滲み出てきた。
冷静になって考えてみれば、いくら泥酔していたとしても、寝ている私を起こさず、気づかれず、服を脱がせ、体のこれだけ広い面積に何かを描きこむことは不可能に思える。
(だとしたら、これは何だ?)
もう一度、鏡の前に立って左手で胸や腹の紋様に
表面に絵の具を塗られたというよりも、皮膚そのものの色が変わっているように見えた。
(
……その時……
左の上腕に描かれた紋様が動いた。
ここが森の中の一軒家で良かった。これが
左上腕皮膚の紋様は、黄、緑、青、赤それぞれの色が互いに絡みあいながらモゾモゾと
それは、腕の表面に描かれた『蠢く色の触手』とでも表現すべきものだった。
私は叫び声を上げながら、右手で床のタオルを拾い、ゴシゴシと左腕を擦った。
何の意味もなかった。
私は直感していた。
これは皮膚そのものの変化だ。表面に塗られた絵の具などでは断じてない、と。
しかし、それでも肌を擦ることを
『色』の侵食は手首を超え、手の甲を染め、五本の指の先端まで到達して、やっと収まった。
「何なんだよ……これ……」
私は、その場に
脳裏に、昨日の
包帯でぐるぐる巻きにして、ジャンパーのポケットで隠していた左手……
「そうか……奴も……これは奴から
居ても立ってもいられなくなった。
私は手帳を握り、裸のまま脱衣所を出て寝室へ行った。
クローゼットから長袖のシャツとジーンズを出して着ると、尻のポケットに手帳をねじ込み、急いで玄関へ向かった。
(一刻も早く
玄関の
てっきり
……ダークスーツを着た男たちが三人、扉の外に立っていた。
前に一人、後ろに二人。
三人とも無愛想な顔をしていた。誰も一言も喋らなかった。
前に立っている男の視線が、私の顔から徐々に下へ降りていき、シャツの袖から出た左手の上で止まった。
私は急いで左手を背中に隠した。
同時に、目の前に立っていた男がスーツの
一瞬、それが何だか分からなかった。
拳銃だった。
金属製ではない。銃身も、
(水晶の……銃?)
水晶銃の引き金に掛かった人差し指に力が入り、撃鉄が起きていくのがスローモーションのように見えた。
(この世に透明な銃なんて存在する訳がない。あるとすれば、それはオモチャだ。動かない置物だ)
危険は無いはずだ……しかし……私は直感した……撃鉄が落ちた瞬間、自分は死ぬと。
そのとき……上から大きな『何か』が落ちてきた。
『何か』がダークスーツ男の横に着地すると同時に、銃を前に突き出していた男の右腕が、ちょうど
切断された肘から大量の血液が吹き出し地面を染めた。
天から落ちて来た『何か』は、腕を切断されたダークスーツ男に叫び声を上げる
グシャという音とともに男の頭蓋骨が砕け、『何か』が手を離すと、男は熟したトマトが潰れたような頭を
(こ、こいつ……助けてくれたのか?)
私に水晶銃を向けたダークスーツの男を殺し、私の命を救ってくれた『何か』の姿を
全体のシルエットは、細身で長身の人間の男に似ている。
しかし、その全身を覆っているのは柔らかい人間の皮膚ではなく、硬質な甲殻類のそれだ。
ある種の蛾の
背中の
右手には長く頑丈な鉤爪の生えた五本の指を持ち、左手は甲殻が変形したと
まさに怪物……いや、怪人、か。
後ろに居た二人のダークスーツ男が同時に水晶銃を抜いた……いや、抜こうとした。
怪人が、鎌状になった左手の先端を右側の男に向けた。
手首から先が切り離され鎌だけが飛んで行き、男の眉間に突き刺さった。
男は、スーツの懐に手を入れたまま後ろに倒れた。
飛んで行った鎌と左手首は、蜘蛛の糸を極太にしたような生物由来の粘着性の紐で結ばれていた。
生体
三人のうち、私から見て前に立っていた男と右側にいた男は倒した。残るは左側の男だ。
粘着性の紐が鎌を引き、鎌が怪人の左手首に戻り、左側の男に狙いを定めて再射出されるのと、男の水晶銃が火を吹くのが同時だった。
鎌が正確に男の心臓を貫く一方、男の発射した弾丸は怪人の左肩を覆う甲殻に当たって粉々に砕け散った。
怪人は鉤爪の生えた右手で左肩を抑え、苦しそうに片膝をついた。
私は思わず「大丈夫ですか?」と声を掛けそうになった……目の前にいるバケモノに。
怪人に殺されたダークスーツの男たちの死体が三体。
苦しそうに
静かな森の一軒家だった
「純粋な天然水晶は『
最初、どこから声が聞こえるのか分からなかった。
「連中の撃つ水晶弾には、財団の
驚いたことに、話しているのは目の前で肩を押さえて
人間の言葉を……日本語を話している……そして……ああ……その声は……
「物質としての水晶弾はこの硬い甲殻によって防御できる。しかし、弾丸に込められた『破壊の念』は体の内部に浸透し、僕の『
その声は……
三人のダークスーツたちと怪人、そして玄関に立つ私の位置関係から、私には怪人の横顔しか見えていなかった。闘いのあいだ私が見ていた怪人の左半面は、昆虫の頭部を撮影した顕微鏡写真そっくりだった。
怪人が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
私と怪人は、真正面から向かい合った。
正面を向いた怪人の頭部の右半分には……あの美しい
私の心は、傷ついた彼に駆け寄って介抱してやりたいと思っていた。
しかし私の両足は、恐ろしい怪人の姿に
怪人……いや、
右半分の人間の顔が弱々しく微笑む。
「もう分かっただろう? 僕の家系……
彼が言いたい事を最後まで言う前に、その声をかき消すように銃声が
怪人は……怪人になった
倒れた
男は、
私の中で、何かがプチンッと音を立てて切れた。
私は言葉にならない雄叫びを上げながら、本能に命じられるまま左腕を男の方に突き出した。
ピキピキと音を立てて私の左腕の皮膚に亀裂が入った。
左手の指が
だがアイツを倒すのには充分だ!
私は、あの男を殺せと自分の左腕に命じた。
左手の中から現れた鎌が、粘液質の糸を引きながらダークスーツの男へ真っ直ぐに飛んでいき、その額を砕き、脳を破壊した。
同時に、水晶銃から発射された水晶の
高速で飛ぶ弾丸の衝撃波によるものだろうか……私の左頬には
……まあ良いさ……頰の傷なんて、どうでも良い……どうせ、もう
辺りに転がった五つの死体。
人間の死体が四つと……人間でないものの死体が一つ。
私は
「僕も、そうだったんだな……」
私は死体に語りかけた。
「僕も、君たちの仲間だったんだな……いつから気づいていたんだ? ……まさか、最初から……最初に出会ったあの日からじゃないだろうな?」
彼の顔の、人間の方の半分に手を当てて、カッと見開いて天を見つめていた目を閉じてやった。
もう半分の方についている目は複眼だった。どうやって閉じたら良いか分からなかった。
「まったく……最初から最後まで自分勝手な人だな……」
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