西畑さんは死ね
すごろく
西畑さんは死ね
中学生の頃、あの頃の俺は、何にでも腹を立てていた。
テレビ番組で訳知り顔をして政治を語る芸能人に腹が立ったし、大した給料ももらってないくせに偉そうに将来を論じる教師にも腹が立ったし、声がでかい父も声が小さい母にも腹が立ったし、カブトムシはオスにしか角がないことにも腹が立った。
常に何かしらにいらいらしていて、消しゴムのカスなんかをこねくり回して、それがなるべく表へと出ていけないようにしたりしていた。
そんな俺にとって、いらいらを隠し通せなかったやつがいる。そいつは西畑という女子生徒だった。
西畑は一見すると、至って普通の女子だった。俺が言う普通の女子というのは、授業中に唐突に奇声を発したり、椅子を振り回して大立ち回りを繰り広たりはしないようなやつのことである。もっとも、そんなことをするやつに出会ったことはないが。
ただ西畑は暗かった。具体的にいえば、授業中だろうが休み時間だろうが関係なくいつも俯いていて、何をするでもなく、ただじっと座っている。友達らしきやつと話しているのも見かけたことがない。服装や容姿に関しても、女子生徒はみんな必死こいて制服をおしゃれっぽく着ようとしている中、西畑の制服はアイロンもかけてないみたいにだぼだぼだったし、髪はロングヘア―というよりも前髪が異様に長くて、顔を隠すためにわざとそうやっているみたいだった。だから表情なんかはほとんどその長い前髪で隠れて見えなくて、不気味な感じもあった。大人しいというよりも、暗い。そんな印象のやつだった。
まあここまでなら俺の腹立ちポイントはない。俺は暗いやつは嫌いではない。なぜなら暗いやつはただ暗いだけであって、何も邪魔したりいらない横槍を放り投げてきたりはしないからだ。そういうやつよりも俺は「コミュニケーションが得意ですよ」という態度で、誰でも分け隔てなく話しかけてくるようなやつの方が嫌いだった。あの頃の俺のクラスにもそういうやつがいて――名前は確か飯森という女子生徒だったか――そいつはクラスメイトの男子――特に暗くてオタク臭い連中――に人気だったのだけれど、俺からすればあんなやつ、他人との適切な距離感を理解せずに仲良くすればいいとだけと思っている幼稚園児未満の脳みその馬鹿でしかなかった。もちろん、そんなことほざけばクラス男子どもから袋叩きに遭うのは目に見えていたから言ったことはないが。話がずれた。閑話休題。
とにかく西畑が「暗いだけ」なら、俺にとってはただの眼中にないクラスメイトでしかなかったわけである。では、西畑の何が「暗いだけ」ではなかった。
それは西畑の手首に集約されていた。あいつの手首には、いくつもの傷があった。細い線みたいな赤い傷だ。そいつが何本も刻まれていて、重なり合っているのである。自然にできたと考えるには不自然な傷だ。そして誰でもそんな傷を見たら、察することは一つだろう。例外なく俺もそうだった。西畑はいわゆるリストカットの常習犯だとすぐにわかった。
そこまででも、まだ俺からすれば「暗いだけ」の範疇である。自傷行為というのは多少いらっとするが、それでもまだ自分の内側に留めていて他人に迷惑をかけているわけではない。だから俺の中ではリストカットをしているだけなら「暗いだけ」だし、一度二度見かけたところでそんなに腹は立たないわけである。しかし、西畑にとっての自身のリストカットは、どうやら「暗いだけ」ではなく、「暗いのをアピールするため」にあるようだった。俺にとってはそこが問題であり、最大の腹立ちポイントだった。
「暗いのをアピールする」というのがどういうことかというと、まあ端的に言えば見せびらかしてくるわけである、手首の傷を。
普通、人は傷というものを隠したがる。それが故意によるものでも、事故によるものでも、「ほれほれ、どうだどうだ、これが傷だ」なんて傷を自慢してくるような馬鹿は稀である。たまに傷自慢をするやつというのは実在するが、あれは馬鹿の範疇なので俺の考えに矛盾はない。ましてや暗いやつならなおさら隠したがるだろう。「暗いだけ」で手首を切るやつなら、服の袖を長くしたり、あるいは不自然でもリストバンドや包帯なんかを巻いたりして傷を見えないようにするだろう。しかし、西畑は俺が考える「暗いだけ」のやつが取る行動はしなかった。そして西畑がしていたのは、俺が考える馬鹿の行動だった。
西畑は袖を長くするどころか、むしろ人が見ているタイミングで袖をまくり上げ、わざわざ傷を見えるようにした。掃除やら当番やらをしているとき、手首の傷をアピールするみたいに袖口を覗かせてきた。そして手首の傷を他人に見せびらかすたび、「自分はこんなことをしてしまうくらい毎日が辛いんだ。不幸なんだ」という長々とした文章を顔面に貼りつけたような、世の中のすべての悲愴を背負っている風の自信過剰な顔をするのである。その顔を見るたびに、俺は西畑の顔に重たいこぶしを一発のめり込ませたくて堪らなかった。
他人によっては「たまたまだろう」とか「本人は気づいてないだけじゃないか」などと抜かすやつもいるだろうが、今まで何人もむかつくやつを見抜いてきた俺の目にはわかった。西畑はわざとそうしているのだと。
それに気づいたときから、俺はクラスメイトの誰よりも西畑が嫌いだった。本気で大嫌いだった。「暗いだけ」というステータスを得ておきながら、あまつさえそれをアピールする行為は、俺の考えからすれば、馬鹿の自慢以下のゴミだったからだ。
それでも俺は我慢した。何度西畑のことをぶん殴りたくなっても、実際にそうはしなかった。たまたま席替えで、自分の席の後ろが西畑の席になったときはもう叫びだしたくなるほど嫌だったが、それでも表面上は平気な顔をしてみせた。一番やばかったのは、確か夏休み直前の放課後のことだったか。珍しく忘れ物をしてしまったので教室に取りに戻ったのだけれど、そこに西畑が一人だけいて、俺が入ってきたにも関わらずこれみよがしに手首を切っていた。あのときは本当に頭が一気に熱くなってどうにかなると思った。幸い俺の理性の力はかなり強大だったらしく、歯を食いしばって耐え、どうにか忘れ物を持ってその地獄のような空間から脱出することができたが。
あのときの西畑は間違いなく俺のことに気づいていて、手首から血をぽたぽたと机の上に滴らせながら、必死に耐えて忘れ物を探す俺をちらちら見ていた。今思い出してもぞっとしない。あれを耐えきったあのときの俺は本当に偉かったと思う。
そんな感じで俺は西畑を恨めしく思いながらも、まあなんやかんやで平凡な学園生活を送っていたわけだけれども、ある日事件が起こった。事件とか言っても大したことではない。この程度で事件とか抜かすと本当の事件に失礼である。しかしまあ、事件以外に言い方して適切に該当しそうな言葉がないので、あの出来事は事件と称させてもらう。
その日の、確か二時限目の歴史の授業中だったか、一枚のくしゃくしゃに丸められた紙が前の席のやつから回ってきた。なんか授業中に教師の目を盗んで生徒間でメモみたいなものを回すやつ、覚えのあるやつは結構いると思う。それで、その回ってきた紙を広げてみると、そこには『気味悪いし、西畑さん無視しない?』とずいぶん丸い文字で書かれていた。大方、女子生徒の誰かだろうというのは察しがついた。しかし、俺はなんだかそれが気に食わなかった。授業中にこんなくだらない提案を書いたメモを回してくることもそうだし、その提案内容もいらついた。西畑を無視するというのは大いに賛成ではあるが、わざわざ無視する確認など取ってどうするというのか。無視したいなら勝手にすればいいだろう。俺はずいぶんと前から西畑を自主的に無視しているというのに。こういうこそこそとした集団意識を植え付けようという考えが透けて見えることが、まったくもって気に食わなかった。
そこで、俺はこのメモを書いた主を少し面食らわせてやりたくなった。そうするのは簡単だった。ただ後ろに――西畑にメモを回すだけで良かったからだ。
メモをすでに見ていた何人かのクラスメイトが、驚いたような視線を投げかけてくるのがわかった。西畑はそんな視線を知ってか知らずか、ぼんやりした顔で俺から丸められたメモを受け取ると、それをごそごそと広げた。
みるみるうちに歪んでいく西畑の顔。今でもよく憶えている。
西畑は突如として奇声を発した。「うがあああ」と喚き声を上げながら髪を掻きむしり、勢いよく席から立ち上がった。椅子が鈍い音を立てて床に倒れた。後ろの席のやつや、横の席のやつがビビって飛び跳ねた。
西畑はそのままの勢いで窓へと駆け出していった。そして窓をがらっと開け、サッシに足をかけると、多くの生徒――もとい授業をしていた教師――が西畑の急な奇行に怯えて廊下側に逃げている中、そっちに向かって叫んだ。
「ここから飛び降りて死んでやる!」
ちなみにその教室があったのは三階である。打ち所が悪ければまあ死ぬ可能性はあるし、良くても足の骨の一本くらいは折れるだろうという高さだった。
「お、落ち着け、西畑。どうしたんだ?」
教師がびくびくしながら口を開いた。教師はメモのことも知らないわけで、本当に何がどうしてこんなことになっているのかさっぱりわからないけれど、大人だし対応しなければならない、といった感じだった。
「どうしたも何もないわよ! みんな私のことクソメンヘラ女だと思ってるんでしょ!」
たぶんクラスメイト全員が「そうだろ」という顔をしていたと思う。俺もそうだった。
「今ここで私が飛び降りて死ねば清々するんでしょう! そうでしょう!」
俺も初めは西畑の突飛な行動に気が動転するばかりだったが、少しだけ冷静になってみれば、ふつふつと怒りが湧いてきた。今まで散々他人様に不快なものを見せびらかしておいて、いざ自分が不快なものを見たら被害者面か。本当に見下げ果てた女だ。
そんなやつでも、教職に就いている大人は義務として止めならなければならないわけで、教師は嫌々という感じを滲みだたせてたどたどしい説得をしていた。曰く、「ご両親が悲しむぞ」とか、「命あっての物種だ」とか、定型文みたいなことを言っていた気がするが、別段そっちに関しては興味もなかったのでよく憶えていない。
そういう風に教師が上っ面丸出しのことを諭しても西畑は喚き散らすばかりで、他のクラスメイトなんかは「どうすんのこれ」とか「さすがにやばくない」とかざわざわとした小うるさい効果音を鳴らしているだけである。俺はといえば、西畑にも教師にもクラスメイトどもにも、どいつもこいつも、この世の果てにも腹が立つような気がして、とりあえず気づかれない程度に貧乏ゆすりをして耐えていた。そんな状態が十分くらい続いた。
そこまでくると、もう俺の腹立ちゲージはカンスト状態である。そもそも授業時間を潰されて、何でこんなやつと対面していないといけないのか。別に俺はそこまで真面目な生徒ではなく、授業も適当に聞き流すことは多いが、学校の授業というのは中学生に与えられている数少ない権利の一つである。その権利をこんなやつに潰されていると考えるだけで、その権利が自分にとって必要であるかないかに関わらず腹が立つのは当然ではないか。
俺の貧乏ゆすりももう「気づかれない程度」には収まっていなかった。激しく地団太を踏むような感じになっていた。周りにいた何人かは俺の様子が変なのに気づいて、距離を置いていた。この激しい地団太を踏むような貧乏ゆすりは俺の最後の警告のようなものだったが、自分の不幸アピールで必死の西畑はまったく気づく気配もなかった。
「私が死ねばいいんでしょう!」
俺はもう我慢できなかった。口は勝手に開いていた。
「そうだぞ」
思いのほか、はっきりとした声が出た。
西畑は一瞬きょとんとした顔をして黙った。教師も、周りのクラスメイトどもも一斉に俺のことを見た。俺の口は他の連中と違って止まることなく、すらすらと動いた。
「お前さ、自分が言ってる通りさ、もう生きてる意味ないよ。だからな、死ねよ」
西畑はまだ状況が飲み込めないという顔をしていた。俺はまだ喋った。
「誰がお前なんか気にかけてくれるの。そうやってアピールして、ただ死ねって思われるだけなの気づいてないの。それともそれが狙いなのか。だったら何ですぐに死なないんだ。そこから飛び降りて死ぬんだろ? 早くしろよ。さあ、早く」
西畑の眉のあたりの筋肉がぴくぴくと痙攣しだす。
「もうさ、鬱陶しいよ。十分くらい喚いててさ、本当に死ぬ気あんの? いやもう死ぬ気なくても死んでくんないかな。お前の気持ちなんてどうでもいいわ。死ね」
「・・・・・・う、うるしゃい・・・・・・」
徐々に西畑の顔面全体の筋肉がうねうねと震えだす。
「ほれ、しーね、しーね、さっさと死ね。マジで死ね。死ね。死ね。とにかく死ね」
自分でもよく憶えていないけれど、最後の方はとにかくこんな感じで幼稚に「死ね」を連呼していたと思う。そのときの俺の頭の中には、今すぐ西畑に死んでほしいという気持ちしかなかった。周囲に気を配る余裕も消失していたので、教師やらクラスメイトどもがどんな表情や反応をしていたのかはわからない。たぶんドン引きだったとは思う。
西畑は俺から「死ね」と言われるたびに、もう顔だけ別の生物に乗っ取られたみたいに、人間がするとは思えない表情へと歪んでいった。俺はそれを見ながら「飛び降りろ、飛び降りろ」と念じながら「死ね」と言い続けた。そして決着はわりかし早く訪れた。
俺が百回目くらいの「死ね」と言ったとき、西畑は突然「うぐああああっ」とメモを見たとき以上に特大の奇声を発して――そして――。
――窓の外へではなく、教室の中へと前のめりに倒れこんだ。
そうしてまるで粗相をした赤ん坊の如く、猛烈な勢いでわんわんと泣き始めた。
「どうしてえ、どうしてえ、どうしていじめるのおっ」
俺はそんな今度は蹲って泣き喚きだす西畑の姿に、茫然とするしかなかった。怒りはいつの間にかどこかへ吹っ飛んでしまっていた。たぶん西畑に対して、初めて「引く」感情を覚えたのだと思う。
周りのクラスメイトどももほんの数秒の間、駄々っ子状態の西畑の前に棒立ちだったけれど、おそらく義務感でか真っ先に我に返った教師が「大丈夫か」とこれまた定型句を吐きながら近寄ったことによって、その謎の膠着状態にも終止符が打たれた。
教師と一緒に何人かが西畑のもとに駆け寄り、何人かが逃げるように教室から飛び出していき、何人かがそのまま棒立ちだった。俺は棒立ちの方だった。そのときの俺の頭の中には、「結局死ななかったな」という何か諦観めいた想いが取り残されているきりだった。
それでその後の顛末であるが、西畑はその日早退し、それ以来学校に来なくなった。俺はあの一件でクラスメイトから良くない意味で一目置かれる立場になったようで、無視されているわけではないけれど何となく避けられているという、非常に微妙な立場に身を置くことになった。誰とでも口を開くとクラス男子どもに大人気の飯森でさえ、俺と話すときはぎこちない感じになった。まあ俺はもともと飯森のことが嫌いだったし、ようやく距離感を弁えてもらえたようで良かったのだが。
そんなわけで、俺は卒業するまでどうにも馴染みづらい学園生活を送ることとなったが、そもそも俺は他人に馴れ馴れしくされたり偉そうにされたりするたびに腹が立つようなやつだったので、避けられて過ごす中学生活はむしろ気楽だった。だから俺は後悔していないし、反省もしていない。西畑は卒業式の日まで学校に来ることはなかったが、それはあいつの意志なわけで、俺とは一切関係ない。またあのとき西畑が死んでいたとしても、それはあいつの自業自得だから、やはり俺には何も関係ないことなのだった。
あれから年月が経ち、俺ももう立派な社会の歯車で、安い給料としょぼい生活目当てに今日も今日とてぐーるぐる回っている。そんなある日、ほぼ放置しているツイッターのアカウントにダイレクトメールが届いた。
『もしもし、もしかしてあなた稲目中にいた浅谷さんですか?』
今更ではあるが、稲目中とは俺が通っていた中学校であり、浅谷とは俺の苗字だ。
俺は何か怪しい詐欺ではないかと警戒しながらも、好奇心で対応することにした。上手くいけば変な発言を引き出せて、そいつをスクショして晒せば、俺もバズるなんていうミーハーな現象を体験できるかもしれないとか、そういう邪な思惑があった。
『私は確かに稲目中にいた浅谷ですが、どちらさまですか?』
『あ、やっぱりそうだった。私はあなたとクラスメイトだった飯森です』
飯森――ああ、あのうざかった女子生徒。何で今更俺に連絡なんかしてきたのだ? わざわざツイッターのアカウントなんて見つけて。俺はまだ怪しむ気持ちを忘れず、チャットを続行した。
『飯森さん、憶えています。でも何で今頃私にダイレクトメールを?』
『はい、急な話で失礼かなとも思ったんですが、じつは今度、稲目中の同窓会が開かれるんです』
『同窓会?』
『はい。私は同窓会の幹事を任せられまして、それでクラスメイトに片っ端から連絡を取っているんです。大方のクラスメイトとは連絡を取れたんですが、その、浅谷さんの連絡先を知っている人が誰もいなくて・・・・・・』
『ああ、そりゃそうでしょうね』
誰とも連絡先を交換するほど仲良かったことないからな。
『どうにか連絡を取れないか模索していたら、ツイッターに浅谷さんっぽいアカウントを見つけて、ちょっと迷ったんですが、ダイレクトメールを送らせていただいた次第です』
『なるほど、そういうことですか』
詐欺やら宗教やらの怪しい類のものではなかったのか。俺は少し落胆した。
『さっそくではあるのですが、同窓会には出席なされますか。日時は×月×日の×時からで、場所は×××の××あたりにある居酒屋のりおって店なんですが』
『申し訳ありませんが、欠席させていただきます』
俺は考えるまでもなく、そうすぐに返事を送っていた。同窓会なんぞ行っても一文の得にもなるまい。語りたい思い出話なんてのもないし。それとも西畑のあの一件について語るか。きっと結婚式に経を唱えられたような雰囲気になるぞ。それはそれで面白そうだが。
あ、そうだ。西畑、あいつはどうなんだ。
『そうですか、わかりました。それではこれで失礼します』
『ちょっと待ってください。お訊きしたいのですが、西畑さんは出席されるんですか?』
飯森がそそくさとやり取りをやめようとするので、俺は慌ててそう打ち込んだ。
しばらく間があった。やはりあの一件のことを思い出して引いたか? と思ったが、返事は返ってきた。
『いえ、西畑さんは出席なされないそうです』
まあ想定内の答えだった。しかしそうなると、一つの疑問が浮上する。
『というか、西畑さんの連絡先はわかったんですか?』
西畑はあの一件以来、ずっと学校に来ていなかったのだ。連絡先を知っているやつがいるとは思えない。
『はい、わりとすんなりわかりましたよ。クラスメイトに出版社に就職した人がいたので』
『どういうことですか?』
『西畑さん、漫画家になられてるんですよ、今』
「はあっ」と、俺は現実世界で画面に向かって素っ頓狂な声を上げてしまった。
『西畑さんが漫画家? それは本当ですか?』
『本当です。何かネット掲載で少女漫画を連載してるみたいですよ』
俺の頭上には今ハテナマークがびっしり並んでいる。西畑が漫画家? え? あいつが? 世の中が人間には解明できない不思議で満ちているわけだ。俺はほんの少しだけ、世界の未知に触れたような気分になった。
『・・・・・・ちなみにどこで連載してるんですか?』
『ニコニコ漫画というサイトで。タイトルは「君に恋を」。ペンネームはカレンウエストだそうです』
「君に恋を」? カレンウエスト? うわうわうわ、だっさ。
『・・・・・・でもたぶん、浅谷さんは読まない方がいいかも』
うん? 急に意味深なことを書きだすな。
『どうしてですか?』
『怒ってしまうかもしれないです、その、浅谷さんが』
ふーん、どうやら何か俺に不都合がある内容らしい。そんなこと言われたら、余計に気になるではないか。
『わかりました。読むか読まないかはじっくり考えてから決めます。今回は同窓会へのお誘い、ありがとうございました。欠席ではありますが、また機会がありましたらよろしくお願いします』
まあ、また機会があっても断るだけなのだけれど。
『はい、また機会がありましたら。それではこれで失礼させていただきます』
それから飯森からのダイレクトメールが来ることはなかった。
俺はさっそく飯森が教えてくれた漫画を検索してみた。すぐに出てきた。
あらすじを読む限りは有象無象のありがちな少女漫画の一つだ。地味設定の可愛い系女子がなぜかイケメンに好かれてすったもんだするというあれである。なんだ、ただつまらないだけで怒る要素なんてないではないか。
俺はそう思いつつ、公開されているエピソードをいくつか読んだ。そうしていたら、じきに飯森がダイレクトメールに書き残した意味深な言葉の意味がわかった。
イケメンの恋敵に、似たような面の、口が悪いという設定で、でも本心はわりと純粋みたいなキャラがいる。ここまではよくいる少女漫画の気色悪いツンデレ男である。俺もそう思って読んでいたのだが、ある場面でその見方がまったく変わった。
それはイケメンとくだらないすれ違いでなんか勘違いした主人公が、屋上から飛び降りて自殺しようとするというギャグ漫画も真っ青なアホみたいなシーンで、そこでその口悪野郎が登場する。そして主人公に向かってこう言うのだ。「死にたいなら死ねよ」と。主人公は泣き出し、そこに颯爽と本命イケメンが登場。泣く主人公を抱いて反吐が出るような愛の囁きをした後で、口悪野郎を責めるのだが、主人公は口悪野郎の本心は捻じ曲がっていて、「死ね」と言うことで自分の自殺を止めようとしてくれていたことに気づくという内容なのだが――。
俺はそこまで読んだところで、口角が自然と上がっていることに気づいた。
そして口悪野草が主人公に対して「本当はお前のことが好きで、だから心配で――」みたいな寒い語りをしだしたとき、俺はもう堪え切れずに大口を開けて笑っていた。興奮したときの猿みたいに手を叩き、それはもう腹がよじ切れんばかりに笑い転げた。泣いているのかってくらい涙は溢れてくるし、鼻水も垂れてくるし、口から飛んだ涎でキーボードが濡れた。それでもまだ笑いは止まらなくて、十分はそうやって大笑いしていた気がする。人生の中でおそらく一番笑った瞬間だった。
飯森よ、これは別に怒りはしないよ。面白すぎて笑うけれど。
俺は一通り笑って喉ががっらがらになった後、とりあえず漫画の感想を書き込むコメント欄に、「そんなわけねーよ、死ね」とだけ書き込んでブラウザを閉じた。
単行本が出たら買おうかなあ、と涙と鼻水と涎でぐちょぐちょの顔を拭いながら思った。
西畑さんは死ね すごろく @hayamaru001
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