第5話 山田婆さん

 浩太は防波堤によじ登って胡坐をかいていた。


 頭をぼりぼりとかきながら、浩太は何の気なしに海を眺める。風が強く、潮の香りがする。雲が流れ、波が揺れる。波が太陽光を好き勝手に反射して光っている。打ち寄せる波が、テトラポットにぶつかって弾けた。


 浩太は走ることが好きだった。


 それに初めて気付いたのは、中学校の行事として行われたマラソン大会だ。田舎のマラソン大会は馬鹿みたいに距離が長い。全長が10キロを超える道のりは、小学生時代に経験した陸上競技とは異質の世界だった。


 走っている間は苦しい。負荷をかけたことによって筋肉が悲鳴を上げ、体調によっては脇腹だって痛くなる。自分の限界に挑戦するという自虐的な快感と、走ることによって身体に感じる風や吹き出す汗が、驚くほど清々しかった。それらの感覚はごちゃ混ぜになって、頭の中から考える余裕を奪い取る。前に進むという行為だけが、ぐるぐると頭の中を支配する。


 そして、完走時の開放感と達成感。


 初めてのマラソン大会で、浩太は上級生を抑えて校内3位の成績を収めた。高校に進学したら、浩太は陸上部に入ろうと考えている。


「浩ちゃん」


 浩太が反射的に振り返ると、そこには山田婆さんがいた。


 山田婆さんは、アイス屋で番頭をしているご長寿だ。後ろで束ねた髪は白髪が目立っているし、銀縁の眼鏡をかけた目じりには深いシワが刻まれている。山田婆さんは人の良さそうな笑顔で、棒付きのアイスを差し出していた。


「おごりだよ」


「いらない」


 山田婆さんは少しだけむっとして、手に持ったアイスの袋を破る。山田婆さんは息をつく間もなく、アイスをがぶりと食べ始めた。


「紅葉狩りには、まだ早かったみたいだねぇ」


 浩太が言葉の意味を図りかねていると、山田婆さんは浩太の頬を示した。


「見事な〝モミジ〟が、今日はないみたいじゃないか」


 浩太はようやく、山田婆さんが晶のことを言っているのだと気付いた。浩太が弁解しようと口を開くが、山田婆さんはげらげらと笑い出す。山田婆さんは清楚な物腰に似合わず、下品に笑う癖があった。


 浩太と山田婆さんは長い付き合いだ。


 浩太が幼稚園児の頃、浩太の母は民生委員をしていた。民生委員の仕事の1つに、ご老人の安否確認がある。そこで意気投合した母に、浩太は山田婆さんを紹介された。気前のよい山田婆さんに、浩太はよく懐いて遊びに行った。浩太は山田婆さんの家に遊びに行くと、必ずアイスを食べて帰ってくる。よく母から「夕食前にアイスを食べちゃいけません」と山田婆さんと一緒になって怒られていた。


 それ以外にも、山田婆さんと浩太は親密な関係がある。


 両親にはできない相談でも、山田婆さんには打ち明けることができたからだ。


 それは例えば、母の機嫌のとり方だったり、要領のいい勉強の仕方だったり、思春期特有の体の変化についてまで及んだ。その中には晶についての悩みも含まれている。山田婆さんのアイス屋には晶と一緒に行ったこともあり、山田婆さんは晶についても詳しかった。


「いつから見てたんだよ」


 不機嫌を装ってぶっきらぼうに尋ねると、


「最初からだよ」


 そう言って山田婆さんは神妙な顔をする。


「塾に行っているはずの時間だから、おかしいと思ったんだよね」


 日は高く、青空に雲は見当たらない。太陽光線が肌を突き刺すように降り注いでいるけれど、堤防の上に吹く風は扇風機よりも涼しかった。迷子になったのか、カモメが1羽だけ向かい風に挑んでいる。浩太の隣では、山田婆さんがしゃりしゃりとアイスを頬張っていた。


 浩太のモヤモヤした気持ちをあざ笑うかのように、世界は清清しく輝いていた。


「口止めされてたんだけどね」


 アイスを食べ終わった山田婆さんが、遠くを見つめながら続ける。


「晶ちゃんは、浩ちゃんと同じ高校に行きたいんだって」


 浩太は驚いて山田婆さんを見つめる。


「浩ちゃんは陸上部がある高校なら、どこの高校でも良いって言っていたね。あれはナンセンスだと思うよ。晶ちゃんが、どうして浩ちゃんを塾に連れて行きたがっていたかを考えたこと無いの? そこまで考えたら、晶ちゃんが同じ高校に行きたいことぐらい、分かると思うんだけどねぇ」


 浩太は、それに初めて気が付いた。


 浩太が晶の手を引いて走り出したのと同じように、晶には浩太を塾に誘う理由なんて無いはずだ。そこに理由があるとするならば、それは浩太の理由と同じ類のはずだった。どうして、それに気付かなかったのだろう。


「晶ちゃんは怒っていたよ。浩ちゃんは、いつも自分勝手だって。高校のこともそう。自分のことだけを考えてる馬鹿野郎だってね」


 山田婆さんは、食べ終えたアイスの棒を見て〝はずれ〟の3文字をしげしげと眺めている。間違い探しでもするように、無邪気な真剣さがそこにはあった。


「女の子は、男の子よりも早く大人になるんだよ。覚えておかないとね?」


 浩太は堤防から降りて体を伸ばした。


「ちょっと、行ってくる」


「早く行きな」


 山田婆さんはげらげらと笑った。

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