第4話 口下手

 夏の間だけ営業しているアイス屋の角を曲がると、最後の下り坂が見える。


 海沿いの国道は、コンクリで固められた防波堤が寄り添っている。その向こう側で、空と海の間になだらかな弧を引く水平線が見えた。浩太は防波堤によじ登ろうとして、ようやく晶の手を握ったままだったことに気付く。


「はなっ、して」


 浩太は息も絶え絶えに言う晶の手を離した。


 晶は両手を膝にやって肩で息をする。黒髪のつむじが浩太に向かって上下に揺れている。晶の頭のつむじを見つめていて、唐突に申し訳なく思った。塾から走り続けて得ることのできた開放感は、見る影もなく消え去っていた。


 ここまで走り続けることに意味なんてなかった。それどころか、ここに来る意味なんて存在しない。無理に理由を作るのであれば、それはイルカの夢を見たことだろう。夢の直後に地震が起きたことで、浩太は〝今すぐ何かをしなければ〟と、脅迫観念に襲われた。それが海まで走り出した理由だと思う。しかし、海まで走ったところで、何が解決するのだろう?


 そもそも、浩太は目覚めた時から、夢の内容を現実だとは思っていなかった。


 走り出した本当の理由は〝してはいけないことをしたくなった〟からだ。


 それは朝のHRで担任のカツラを取りたくなったり、消火栓の非常ボタンを押してみたくなったり、扇風機の羽に指を突っ込んでみたくなったりする類の行為。塾から逃げ出して海まで走るのは、それに近い感覚だった。


 しかし、それに晶を付き合わせる必要なんてなかったはずだ。


 どれだけ考えてみても、辻褄が合わないじゃないか。


「えっと、ごめ――」


 声をかけると、晶が顔を上げた。


 鋭く向けられた晶の視線に突き刺され、浩太の謝罪は失速する。


「どうして走り出したの?」


 声が掠れているものの、晶からは怒りが滲み出ている。馬鹿げた理由だったら承知しないと、その顔は語っていた。


 参った。


 浩太は頭を回転させる。


 気の利いた話をしなければならない。そう考えれば考えるほど、浩太の頭は空回りして時間だけが過ぎていく。晶が落ち着きを取り戻し、フェリーの汽笛が鳴っている。拭うことも忘れた額の汗が垂れて目に入り、浩太は手の甲で目を擦った。


「実は、イルカの夢を見たんだ」


 浩太は夢の話を始めた。


 それは、夢を操る兵器を開発し、日本を奪おうと企むイルカ達の話だ。


 話を続けながら、なんて馬鹿な話をしているんだろうと自分でも思う。本当のことを言うことが正しいなんて思ってはいなかった。自分はただ、時間に比例して増えていくプレッシャーに耐えられなかっただけだ。嘘を付かないことへの美点よりも、どうして嘘をつけないのかとウンザリした。


「――だから、イルカ達を何とかするために、海まで走ってきた」


 晶は機嫌が悪い時、浩太の頬をビンタする。


 浩太は目を閉じて身構えたが、一向に叩かれる様子がない。


「ばっかじゃないの」


 晶の口調は啓太の予想通りに不満げで、呆れ果てたとでも言いたげだ。


「馬鹿じゃない、俺は日本を守るために――」


 いつもなら、こんなタイミングで晶がビンタする。そのビンタは怒りのビンタであり、浩太の罪に対する刑罰であり、浩太が晶に許してもらえる唯一の方法だった。


 それなのに、晶はくるりと背を向けた。


「帰る」


 晶はそれだけ言うと、本当に歩いて行ってしまった。浩太はそれが不可解で、何も出来ない。立ち尽くす浩太は、まるで大人に置いて行かれた幼児のようだった。振り返る素振りのない晶の後姿は、着実に小さくなっていく。


 古びたアスファルトの黒が太陽光を反射する。アイス屋の営業中を示す〝氷〟の文字が風になびいている。それに伴って、旗に括り付けられた風鈴が揺れていた。ここからでは聞こえない風鈴の音は、晶の耳に届いているのだろうか。


 アイス屋の角を曲がった背中が、浩太の視界から消えた。


 その背中にかけるべき言葉は、最後まで見つからなかった。

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