第2話 目覚め
浩太はみっともなく床に転がっていた。
教室に座った10人弱が、いったい何事かといった表情で振り返っている。そこには黒板に向かっていた非常勤講師の木村大輔の盛大なため息と、浩太の幼馴染、久遠晶のしかめっ面も混じっている。晶は浩太と目が合うと、口を小さく動かす。隣の席にも聞こえなかっただろう呟きは、晶の口癖だった。浩太の頭に、聞きなれた言葉が再生される。ばっかじゃないの。
木村が言う。
「席に戻りなさい」
浩太はみっともないくらいにぺこぺこして席に戻った。
自分の机には、途中で眠気に負けた痕跡のあるノートと、落書きにまみれた参考書が置かれている。
顔を上げた先にある黒板には、几帳面な字で書かれた数式が並んでおり、蛍光灯の光はどこまでも不健康に輝く。勉強に集中するための防音ガラスは、行き交う車の走行音をシャットアウトし、ちらりと見渡したそこには上着を着ている生徒がいる。異常気象として例年よりも熱帯夜が続き、老人の熱中症が問題化しているというのに、世界はどこか間違っている。
真新しく駅前にできた進学塾は、蝉の音も聞こえぬクーラー完備の清潔地獄。またの名を受験対策夏期講習という。
浩太がようやく頭を切り替え、黒板に向かっていた木村が「お前らはちゃんと勉強して、しっかりとした職につけよ」と自虐的に呟き、晶が3%の食塩水xgと、10%の食塩水ygを混ぜたら5%の食塩水が500gできた場合のx、yを導き出した時だった。
机が揺れ始めた。
現実の揺れは、浩太の夢と同じく増大していく。誰かが黄色い悲鳴を上げ、1人だけ立っていた木村がバランスを崩す。机に出してあった教科書やシャーペンが床に転がって、余っていた後ろの机や椅子が倒れる。窓辺の花瓶が倒れて割れた。誰かが机の下に隠れろと言った。
長く激しい揺れに感じたけれど、実際は数秒だったのかも知れない。
揺れは唐突に終わった。
揺れが収まっても、教室にいる全員が目を白黒させている。
「怖かったね」
「けっこう大きかったよ」
そんな他愛のない会話が教室の隅々から零れる。
「余震があるかも知れんから、まだ気をつけないといかん。おい! 割れた花瓶に触るんじゃない。それは私が片付けるから、君達は勉強を続けなさい」
木村はそう言い、教室のざわめきを押さえ込もうとする。
それは浩太が居眠りの末に起こした騒ぎと同じだった。教室は地震の残滓から抜け出し、静寂を取り戻しつつある。
しかし、その教室には1人だけ変てこな生徒がいた。彼は先ほど「地震を起こして日本を頂く」と言い放ったイルカ達と対話した男子だ。
異変に気付いた晶が、そっと浩太に近づく。
「大丈夫?」
生徒達は机から転げ落ちた筆記用具や参考書を机に広げ直す。まるで休憩時間が終わりを告げたように、彼らは受験生という与えられた役目に没頭していく。
――違う。
そんな言葉が浩太の頭を掠めた。しかし、その言葉には主語がない。何が、何と違うのだろう。ただ、刻一刻と迫りくる日常は、自分の求める何かとは違うと思った。
浩太は晶を見つめた。
「イルカの遺伝子が二足歩行でプレートを押すと日本が征服されるんだ」
「はぁ?」
浩太は晶の手を握った。
晶が顔を染めたのにも気付かずに、浩太は走り出した。教室の扉を力いっぱいに開いて廊下に躍り出る。廊下にもクーラーの冷風が漂い、そこは夏の暑さに程遠い。花瓶に気を取られていた木村の怒声が、遅まきながら2人の背中に飛んできたけれど、機を逃した怒声には浩太を止める力はない。浩太は廊下を突っ切ると、あえてエレベータを使わずに階段で駆け下りる。後ろで晶が悲鳴と罵倒を合わせたような声を上げている。浩太はそれにも気付かないふりをした。浩太は晶の手を引きながら、海へと向かう。
浩太の走り始めた足は、もう止まらない。
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