第九章
第九章
一方、あの大喧嘩のあと、自宅へ戻った蘭だったが、その日は本当に疲れ切ってしまって、電話などする気になれなかった。しかし、時間がたつにつれ、いくら同意してくれたとしても、かえってつらいことを言わせてしまうのはかわいそうだという気持ちがわいた。やっぱり僕は悪いことをしたと思い立ち、謝罪の電話をすることにした。一日の仕事が終了後、蘭はスマートフォンを取って、製鉄所に電話をした。
「すみません。」
「あら、蘭ちゃんどうしたの?」
出てくれたのは恵子さんだった。
「先日は本当にすみませんでした。あんなに派手にけんかして、、、。」
「そうね。蘭ちゃんも、もうちょっとやり方を考え直すべきね。」
恵子さんも、自分の足りないところを指摘した。
「そうですよね。すみません。その節は本当にご迷惑かけました。あの、謝りたいのですが、水穂、いますか?」
「蘭ちゃん。これ以上疲れさせてどうするの。水穂ちゃんなら、眠ってるわよ。今起こしたら、かわいそうでしょ。」
確かにそうだと思いなおした。そうかもしれない。今日は疲れさせたらいけないような気がしたので、もう電話を切ることにした。
「あ、わかりました。じゃあ、また後日かけます。今日は、失礼します。ごめんください。」
そういって、静かに電話を切る。
まあ、その時は、単に眠っているので、起こすのにはまずいというだけだと思い込んでいた。そこで、翌日になって改めてかけなおしてみたが、やはり寝ているから起こさないでくれという。翌々日になっても同様だった。その次には、さすがに心配なのだがというと、恵子さんは、もう、これ以上しつこく電話なんかしないで、という始末。と、いうことはつまり、容体がそれだけ深刻なのだろうか?と聞いてみると、いい加減にしなさいよ、蘭ちゃん、と叱責されるので、つまりそうなんだと考える。それだけ悪化して、もう決まった人しか出入りが許されないとか、そういうことになってしまったのだろう。つまり、僕があいつに会えたのは、あの大喧嘩をした日が最後になってしまうという可能性もある?そんな馬鹿な!せめてもう一回、もう一回だけでいいから、あいつに謝らせてほしいのに、、、。もう、遅すぎるのか。ああ、人間というのは、本当にこういう感じで、別れるんだなあ、、、。そういうことを考えながら、毎日を過ごすようになっていた。
「おい、蘭。何そんなにぼけっとしてんだ?」
ふいにそう聞かれてハッとする。気が付くと、自分は電車の中にいた。あれ、いつの間に電車なんか乗っていたんだっけ?隣には、杉三がいて、自分の車いすは、車掌さんにつかまれていた。あ、そうか、今日は杉ちゃんにしきりに頼まれて静岡に出かけたのか。しかしどういういきさつで静岡に行くことになって、なぜ自分がいま電車に乗っているのか全く思い出せなかった。
「あれ、なんで今電車なんだっけ?」
「なんでじゃないよ。今日展示会があって、見に行ったんじゃないか。」
あれれ、展示会なんていっていたのか?思い返せば、自分の車いすのポケットには「横山大観展」と書かれたパンフレットが入っていた。そうかそうか。自分は杉ちゃんと一緒に、静岡市内の美術館に行ったのか。そういえば、杉三が、隣で横山大観の絵について、学芸員のおじさんとうるさいくらいしゃべっていたのを思い出す。蘭はそれが嫌になって、美術館のラウンジでずっと待っていたのだ。確か、おしゃべりが終わるには、二時間以上かかった。その間に蘭は、テーブルに置かれていた、本日の横山大観展について書かれた、書籍などを読んで過ごしていたが、なんだかその時から、意識がおかしくなってきたような気がする。杉ちゃんが何か話してくれた時は、そこから離れることはできるが、それがなくなれば頭の中は自動的に水穂の容体について考えてしまう。しまいにはそのほうに支配されてしまい、もう、いつどこで誰が何をどのようにどうしたなんて全部忘れて、そればかり考えてしまっていた。
「そうだっけね。」
とりあえずそれだけ言う。
「もう、富士駅だから出るよ。」
あそうか、それで車掌さんがここにいるのか。
「はい、間もなく富士駅に到着いたします。」
車掌さんが親切にそう言ってくれなかったら、もう富士駅で降りることも忘れて、終点まで行ってしまったかもしれない。
「あ、すみません。じゃあ、おろしていただけますか?」
「ボケ!もうそれはお願いしてあるよ!」
「誰が?」
一体何を?と考えても思い出せない。
「蘭が電車に乗る時ぼけっとしすぎていたから、僕が代わりに車掌さんにお願いしたの聞こえなかったの?」
あ、あ、あ、そうだっけ。もう何をやっているんだ。そんなことまで忘れて、もう、僕もどうかしている。
数分後、電車が富士駅で停車した。車掌さんが車いす渡坂を準備してくれて、二人を順番におろしてくれた。蘭は、どうもありがとうございますと車掌さんに丁寧にお礼を言って、車いすエレベーターで改札階に向かうほどの体力と気力はあった。二人は、改札階へ行き、駅員に手伝ってもらって改札をして、帰りのタクシーが待機している、タクシー乗り場へ向かった。
「蘭、電車の中でずっと考えていたんだろ?」
ふいに、移動しながら杉三がそんなことをいった。
「なんのことだよ。それまで話さなきゃいけないのかよ。」
むきになって急いで言い返す蘭だったが、
「いけないっていうか、もうバレバレだった。ずっと考えていたんだろ?水穂さんのこと。」
「あいつの、何を考えていたというのさ。」
「図星か。考えても体力を消耗して無駄にするだけだから、やめときな。」
「杉ちゃんに言われたくないな。考えないでどうするんだ。よく平気でいられるな。なんでそうなるのかのほうが不思議だよ、こっちから見れば。」
思わずそう言ってしまう。やめときな、なんてできるはずもない。
「いくら電話しても、恵子さんに断られちゃうんだよ。これで心配しないでいられる?」
「なんて断られるんだ?」
「はぐらかさないでくれ。いつも電話すると、寝ているからよしてくれって言われてさ、、、。」
もうそこから先が言えない。
「じゃあ、そうなんだろ。寝ているんだよ。それだけのことだ。蘭が電話した時、たまたま寝ているというだけだ。じゃあ、これからは寝ていない時間にかけてみろ。そうすれば、安否が取れるんじゃないの?」
本当に、単純素朴な答え。杉ちゃんさ、その裏にあることを読み取れ。事実関係だけでなんでも結論付けるな。
「寝ていない時間って、寝ていないのは真昼間だろ?その時にかけているのに。」
「じゃあ、ご飯くらい食べるだろ。そういうときにかければ?」
「馬鹿。それじゃあ、恵子さんたちに迷惑がかかる。」
杉ちゃん、君は本当に礼儀を知らないんだね。
「まあ、それならそういうことだ。もし、容体が悪くなったら青柳教授が何か言ってくるだろ。それが今は全くないから大丈夫。ただ、蘭がタイミングが悪いだけで後は何もない。もし、どうしても気になるのなら、今度は寝ていないと思われるご飯の時間にかけてみな。ただし、恵子さんに、今忙しいから後にしてとか、そういうことを言われるのは必須だと思うけどな。」
「杉ちゃん、そういう安易な励ましは、かえって迷惑というものだ。君みたいに事実関係でなんでも通るかと言ったらそういうことはないんだよ。そうじゃなくて、物事は事実の裏に必ず何かあるんだから、そっちのほうを読まなくちゃ。その能力も人間にはある意味必要なんだよ。」
蘭は、一生懸命自身の気持ちを伝えるが、杉三にわかってもらえるなんて、百年たってもできないだろうなと思う。
「まあ、そうかもしれないが、どうしても人間にはできないこともあるから、そういうことを伝えるのは非常に難しいことだからさ、感じたとしても諦めな。」
杉三の答えはこれだった。
「諦めなって、、、。」
つまり、杉ちゃんもそう思っているのか。
と、いうことは、僕には知らせないで、杉ちゃんには知らせてあるのだろうか。それとも、カールおじさんを通して知らせているとか?そういうことか。もう、恵子さんも、青柳教授も意地悪だ!
「じゃあ、杉ちゃんは事実を知っているの?今の発言からすると!」
思わず怒り出してしまう蘭であったが、
「おい、タクシーが来たぜ。急いで帰ろう。カレーを作らなきゃ。」
と、はぐらかされてしまった。どこへ出かけてきても、晩御飯を作るという作業は絶対欠かさないのが杉三であった。
そうなると、やっぱり、そういうことなのかと蘭は確信した。もしかしたら、青柳教授が、あれだけ大喧嘩した後なので、ことが起こらないように、僕には知らせるなと指示を出しているのだろう。そうだよな、いま知らせを受けて、会いに行ったとしても、取り乱さないで居続けることができるかというと、できる自信はない。きっと顔面蒼白になった水穂と顔を合わせて、子供みたいに泣きはらして、かえって作業をしている利用者たちに迷惑をかけることになるだろう。それに、間近で見ている恵子さんや、ブッチャーもさらにつらい思いをするだろう。だから、あえて製鉄所には来ないで、と言っているのだ。こうなると、一人だけ味噌っかすみたいな気もするが、それは蘭自身の性質というか、特質なので、もう修正のしようがないから、そういう風なやり方をすることで示しているのだ。それなら、もうあきらめるしかないな、、、。
泣きたかったけど、タクシーの中なのでそれはできなかった。運転手さんと明るく楽しくしゃべっている、杉ちゃんがうらやましくて仕方なかった。
どこかで、人間は常に笑顔で生きるなんてことは到底できないんだなということを知らされているような気がした。
一方。
静岡市では、いつも通り、鈴木優希と裕子が日常生活を送っていた。でも、あの時、製鉄所を訪問して以来、裕子は、周りの景色が変わったというか、大げさに言うと世界が変わったような気がするのだ。今までは、何かをするなんてとても嫌で、何かやってみろと言われても、つらいからと言って、断ってしまっていた。夫の優希さんは、学生たちにピアノを教えていくという義務がある。本人はそれは実にむなしい仕事であるというけれど、なぜか裕子はそういうことはないのではないかと思ってしまった。優希さんは、将来のある若い人に、ピアノという楽器の素晴らしさを伝えることができる。確かに、有名な大学ではないから、ピアニストとしてデビューとか、ピアノ教師として後進の指導に当たるとか、そういう人物を作ることはできない。でも、大学にいる間だけでも、学生たちはピアノという楽器に真剣に向き合う機会を与えられる。それを作ってあげられるんだから、称号に結びつかないとしても、作曲者の意図や音楽を通して人生訓を伝えてあげられることはできる。優希さんはそれができる。だから、すごいことをやっている。
でも、それに比べて、私は何をやっているのだろう。伝えることなんて何もないし、何かをしようにも、もう気持ちがどうしても落ち込んでしまっていて、それどころではないのが当たり前だった。私は、心が病んでいるのだからそれでいいと思っていた。心が病んでいる人間は、それしかできない、ただ苦しいと言い続けるしかできない、それでいいと思っていた。
ところが、製鉄所を訪問して、それではいけないと思ったのだ。あの、水穂さんという人がそうだった。あの人こそ、伝えてほしいことをたくさん持っているはずの人だ。でも、体に邪魔されて何一つできない。よく、心が病んでいる人は、体のほうは何も異常はないんでしょ、なんて言われて、いいえ、それ以上に大変なのよ、と、ダジャレのようなセリフで言い返してきたが、今になってなんて馬鹿なことを言ってきたのだと思う。伝えたいことが山ほどあっても、体に邪魔されるほうが、よほどつらい。だって、私ができている当たり前のこと全部が、あの人はできないんだから。
もちろんつらさの度合いというものは人によって違う。それは、そうだと思う。でも、そういうことはあくまでも他人の目で見ることであって、自分でできないと言い切ってしまうほうがよほど社会に甘えているような気がする。それが、水穂さんから撃たれた、私に対する鉄槌であると思っている。
だから私も何かしなきゃ。家事がやっとなのよ。なんて、そんなばかばかしい言い訳はしてはいけない。そういうことは自分が決めることではない。だからしなければ。
とはいっても、何をしたらいいのか、思いつかなかった。仕事をするとしても、何をしたらいいのかわからない。だって、優希さんのようにピアノが得意というわけでもないし、日本の社会は、学生の頃しか「できること」は与えられないことは百も知っている。いくつになっても夢は持てるなんて、上流階級の金持ちか、旧華族の身分の高い人だけに許されている行為であり、私のような凡人には、嫉妬と偏見の目しか与えられないだろう。だから、今あることをやっていくしかない。
そうなると、自分が今やっていることは、食事の支度と、掃除と洗濯、これだけである。あと、たまに裁縫をする程度だが、ボタンが取れただけでも、新しい洋服を買ってしまうほど、洋服はすぐに手に入るから、何も特技にもならない。優希さんは、カルチャーで何か勉強したらと言っていたけど、何回か公民館などに行って、他の受験生と人間関係が持てずに辞めている、という前歴もある。
もし、厳しい人だったら、もう追い出されてしまうと思う。というか、水穂さんにこれを言えば、張り倒されるだろう。だって、今日の米代がないのだから、自分の居場所なんて求めている暇がないからである。こんなぜいたくな悩みを口にしたら激怒されて当たり前である。本当に私は駄目ね、と裕子は思ってしまうのだった。
きっと、人間ってそういう風に生きるしかないのだと改めて感じとった。もう一度選択してしまった人生は後戻りできない。もし、国を変えたら、年を取ってから技術を、なんていうことも許されるかもしれないけど、ここにいる限り許されはしない。人間は自分で人生を作れるというが、そういうことができる人は、ほんの少ししかいないのだと知らされた。そうではなくて、そういうことを教えて希望を持たせるよりも、偏見や侮蔑などから逃れる方法を教えていくことが、何よりも大事だと思う。まず、この技術をしっかり持っていなければ、生きていかれない。そういうことって、私のように、普通に生きてきた人にはなかなか獲得は難しいだろう。もしかしたら、水穂さんのような特殊な環境にいた人のほうが、よほどそういうことについては達人である。こういう人たちの事情を子供に聞かせてあげたら、学校で苦しんでいる子供たちも、少しは楽に生きられるのではないかと思ってしまう。水穂さんのような人は、そういうところで必要になる。だから、もっと!と思ってしまうけど、現実の彼にはそういうことはできないんだと考え直す。本当に悲しいことだけど、人生とはそういうものである。
裕子がそんなことを考えながら、今日も高級百貨店の中を買い物していると、たまたま町内のイベントなどを知らせる掲示板の前を通りかかった。いつもなら、素通りしてしまうのだが、一番端に貼られている小さな張り紙が、なんとなく裕子の目の前に入ってきてしまった。
「語り手、、、?」
張り紙に書かれている文字に目が行ってしまう。
張り紙の内容は、手作りのお話を語って聞かせるサークルを立ち上げたため、メンバーを募るというものであった。まだ発足したばかりであるが、子供にテレビとか漫画に頼るのではなく、耳でお話を聞いてもらうことで、自身の問題を解決させようというのが狙いだと書かれている。活動内容は、保育園や、小学校などを訪問し、メンバーが制作した独自のお話を語って聞かせるという単純なものであったが、起訴の童話などもよいけれど、できればお話自体も、独自のものにしたいとも書かれていた。メンバーさんといっても、お話の制作から語りまですべてやるのではなく、制作をするひと、語る人、それぞれ役割は違っているので、人前に出て話すのが苦手であるという人でも大丈夫だとも書かれている。
これなら、いけるのではないか?と裕子は思った。長年、何かあったら小説書きに逃げていた。もちろん単に楽しみというのもあるが、うつになってしまった自分の気持ちを吐き出す唯一の手段というものでもあった。それに、こういうことを子供にあらかじめ伝えておけば、「うつのこわさ」を教えることができて、うつということが、どれだけ社会的に迷惑を与える存在になるか、を伝えることもできるだろう。まあ、生き方を変えるということはできないとしても、うつにならないようにしようと心がけてもらう、という教訓を与えることは可能かもしれない。
趣味的なサークルなので、特に入会に対して条件はなかった。それでも、悪戯的な応募を避けるため、一応原稿を代表に送るということはしなければならないとも書かれていた。矛盾するような応募条件であるが、たぶんそれだけ真剣に人材をほしがっているから、そういう風に書いてあるのだと裕子は解釈した。
裕子は、その小さな張り紙をスマートフォンで写真に写して、家に帰った。
家に帰って、自身の机の引き出しの中から、そういう教訓的な原稿はなかったか確認してみるが、もともとつらい気持ちを紛らわすために書いていたので、現実離れしたファンタジーが多く、とても教訓として語れるものではなかった。こうなると、新たに、原稿を書かなければならなかった。
数時間後、優希さんが、大学から戻ってきた。そこで裕子は、この写真を見せて、ここで活動させてもらいたいのだが、と告げた。優希さんはそれを待っていたかのように快く承諾してくれた。ただ、そういうものを書く場合、誰かをモデルとするのなら、肖像権の侵害に当たるかもしれないので、あらかじめ許可をもらったほうがいいとアドバイスをくれた。裕子は何の迷いもなく、それを実行に移すことに決めた。
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