第八章
第八章
数日後、静岡駅から富士駅へ向かう、東海道線の電車に、一匹の犬をつれた男性が乗ってきた。身なりこそきちんとしていたが、空いているのに座席に座らず、視線がいつまでも上ばかり見ているので、全盲とわかった。車内アナウンスが、富士駅に到着したと通知すると、彼はすぐ近くにいた客にドアがどちらにあるのか教えてくれといった。客は少しビックリしたようだが、親切に出口のドアまで案内してくれた。
電車が停車すると、彼は丁寧にお礼して犬に誘導してもらいながら電車を降りた。そのまま、障害者用のエレベーターを探して、点字表記を頼りにエレベーターに乗った。もし、一緒に乗っていたおばあさんが、出口はこっちですよ、と教えてくれなかったら、間違いなくエレベーターの壁にぶつかって怪我をするところだった。
そのまま、点字ブロックを歩いて改札口へいき、駅員さんに切符を切ってもらって改札を出た。確か待ち合わせは北口といわれていたが、そこへどうやっていくのかをしめす点字表記はついていなかった。そうなれば駅員に聞くしかないが、どうもこの駅の駅員はちょっと冷たい雰囲気がある。駅長さんは人情味がある人だからと聞かされたけど。まあ、田舎駅であればそうなりやすいか。先日、訪問した沼津駅は、確かもっと不便だった。
「あ、先生!こちらです。すみません、わざわざ来ていただいて。本当は、静岡駅まで迎えにいった方がよいのかと思いましたが、準備不足でできませんでした。」
不意に、腕を掴まれて、無理矢理からだの向きを変えられた。
まあ、よくあることなので、特に抵抗はしなかった。
「初めまして、依頼人の青柳教授に頼まれてお迎えにあがりました、須藤聰です。皆さんには、ブッチャーブッチャーと呼ばれていることがほとんどですから、もうブッチャーと呼んでいただいて結構です。」
聰は、彼の顔を見て礼をしたが、彼の方は視線を合わせなかった。
「こちらこそ。古川涼といいます。青柳懍先生のご依頼で伺った次第です。」
どこへぶつかるか予測ができないので、礼はできないが、聰は平気だった。
「じゃあ、来ていただけますか?多分、製鉄所の皆さんも待っていると思います。」
大まかな事情は懍から聞かされていた。なので、製鉄所の趣旨についてはあえて聞かなかった。しかし、何人もの人物が関与しているとなると、今回施術するクライアントさんは、かなりの重度かな?と、推定できた。
「確か、製鉄所へはタクシーで、いかれるんですよね?」
「はい。富士は田舎ですので、タクシーが大活躍なんです。」
聰は申し訳なさそうにいった。そして、涼の手をひいて、タクシー乗り場に連れていった。すでに予約していた障碍者用タクシーつまり、みんなのタクシーが待機していた。
「こういうね、ワゴン仕様が大活躍なんです。富士では。」
と、聰は説明したが、返答はない。ワゴン仕様と言われても想像できないのだろう。
「あ、ごめんなさい。俺、無神経過ぎました。」
聰はすぐに気が付いて頭を掻いた。
「気にしなくていいですよ。それより早く行きましょう。」
「はい!」
運転手にも手伝ってもらい、聰は涼をタクシーに乗せた。
「車ってちょっと苦手なんですよ。まあ、想像できないと思いますけど、宙に浮かされながら動いているような感じなので、ちょっと怖いですね。生まれながらに失明した状態なので、もうなれたと言えば慣れてますが、、、。宿命的なものですかね。」
タクシーが動き出すと、涼が聰にそう話しかけた。表情がないため、自分がどう見られているのかわからないけど、口調から悪い印象ではなかったのだろう。
「へえ、電車のほうがまだよいんですか?」
「はい、大体到着時間も予測できるから、移動手段としてはいいですね。ただ、急行とか快速は苦手かな。途中の止まらない駅を確認できないものですから。まあ、最近は大分増えましたけど、あんまり高速化ばかりしないでほしいなと思いますけどね。」
「確かにそうかも知れませんね。俺もあんまりスピードばかり出されるのは好きではありません。どちらかと言えば、久留里線のような田舎電車の方がすきです。」
「そうですね。あれは、今でも自動改札機のない、こういう人間には非常にありがたい電車です。古くさいと思われるかも知れませんが、自動改札機を通るのがとても苦手なんです。」
うん、確かにいえる。切符を突っ込むところも、出すところも目が不自由であれば全く位置がつかめないだろう。
「そういうわけで、都会には住めないですね。一見すると良さそうですが、機械は目で操作できなければなにもできませんよ。かといって田舎ですと、こんな人間がという先入観のようなものが根強いので、村八分的な傾向が強いですね。そうなると、やはりこういう人は、海外に行く方がよいということになりますが、そう都合よくできるとは限らないですから。もし、脱出したらしたで、今度は同じ障害者から嫉妬の火が飛んでしまう。」
涼の話を聞きながら、この人であれば何とかしてくれるかもしれない、と聰は思った。先日あった蘭と水穂の大喧嘩をまだ覚えている。内容は、懍から聞かされただけで、現場は見ていないけれど、聰からしてみれば蘭の気持ちだってわからない訳ではない。もう少し水穂さんも、蘭の願いに応えてあげてほしいなあと思うのだが、自分にはおそれ多くて、発言できないのだった。
「先生、結構難しい人であることは確かなんですが、ほんとにね、俺達、できる限りこっちの人でいてほしいと切実に思っているんですよ。ですけど、どうしても彼には通じません。もちろん、歴史を責めてはいけないんでしょうが、それだけに縛られ続けてほしくはないです。俺だけではなく、青柳教授も、恵子さんも、そして蘭さんも、みんなおんなじ気持ちです。だから、そこを何とかして伝えて頂きたいです。お願いできないでしょうか!」
「はい、そうですね。ある程度本人の力に頼らざるを得ないこともありますが、できることはいたしますよ。歴史的な事情、と青柳先生は仰有っていましたけど。」
涼は、そこで言葉を切った。ということはつまり、懍は水穂さんの出身階級は伝えていなかったのか。そうなると、やっぱり同和問題の重さがのしかかる。簡単に口に出していってはいけない問題なのだろう。
「詳しいことはわかりませんでしたけど、ナチスドイツの頃の、ユダヤ人と同じような感じだと思えばよいのかな、と解釈しています。」
厳密にいうと違うのであるが、聰は訂正しなかった。カールさんもよくそう解釈しているが、多分、同和問題に一番近いものはそれだと思う。海外の人に同和問題を説明するには、それが一番よい例えだろう。
「ありがとうございます。やっぱり餅は餅屋ですね。いくら俺達が何とかしてもわかってくれないから、本当に困っていました!俺達にはできないから、水穂さんが一生縛り付けられて来た鎖を、少しずつほどいてやってください!」
表情こそ変わらないが、涼は、はいといって頷いた。
「お客さん、着きましたよ。お迎えは何時ごろに伺えばいいですか?」
間延びした声で運転手が言った。
「あ、はい、ちょっと具体的に何時とは言えないので、こちらから連絡します。」
「わかりました。その時は、また別のものがうかがうと思いますが、よろしいですか?」
基本的にどうでもいい話であるが、聰は構いませんといった。タクシーは、製鉄所の入り口の前で止まり、運転手がドアを開けて介添えしながら涼を降ろした。
一方、ブッチャーから、これから向かうと連絡を受けた水穂は、久しぶりに布団から起きて、箪笥の引き出しを開け、いつも着ている銘仙の着物ではなく、なかなか着ない正絹の着物を身に着けた。
「水穂ちゃん、大丈夫?」
心配になって恵子さんが部屋に入ってきた。ちょうど羽織紐を結んでいたが、布団から出たのは何日ぶりで、結構辛いものがある。
「まあそうですね、決して芳しくありません。相変わらず体はだるいままです。でも、しっかりしないと、教授が許さないと思います。」
「そうね、、、。青柳先生も、厳しすぎるわね。あたしがとりなして、横になったままでもいいようにしてあげようか?あたしだって、心配でしょうがないわ。」
「でも、着替えてしまいましたし、それに、こんな汚らしいところにお招きするのもいけないと思いますので。見える人でないからごまかしがきくかというと、そうはいかないと思いますよ。見えなかったら、においでわかるのではないでしょうか。そんな事したら、失礼極まりないというか、本当に申し訳ないですから。」
「だけど、先生の前で倒れちゃったら。」
「そうですね。でも、やってはいけないということもありますし。」
本人の意思はあるようであるが、恵子さんは文字通り心配で仕方ないのだった。せめて、先生が来る前に畳を張り替えようと思ったが、畳屋さんへ電話したところ、あいにく予約がいっぱいで、せめて一か月先にしてくれと言われてしまったのだ。
と、同時に玄関の戸がガラガラと開く音がして、
「こんにちは。見えましたよ。宜しくお願いします。」
「はい、お待ちしておりました。どうぞお通ししてください。」
玄関先で、須藤聰と懍が、そうやり取りしているのが聞こえてきた。恵子さんは、応対すべく玄関先へ行った。水穂もかったるい体で何とかして立ち上がり、指定されていた縁側へ出た。
玄関先では懍と涼が、偉い人同士の挨拶を交わしていた。恵子さんから見ても、涼は視点が合わず、内容はしっかり伝えられても、やっぱり目が不自由なのだなということを感じさせた。懍は、相手の表情を見て口調を変えたり、相槌を打ったりして、うまく調整しているが、涼は用件こそ伝えるものの、相手の顔を見て態度を変えることはしない。これは善と出るか悪と出るかはいろいろ違うと思うけど、水穂ちゃんのような人の場合は、意外に役に立つのではないかと恵子さんも予想した。
「じゃあ、お願いできますか。縁側で待っていると思いますから。たぶんきっと、恐ろしいほどのマイナス思考に、びっくりされると思いますが、それも彼の性質なので、少し加減してやってくださいませ。」
恵子さんも、聰も、懍が水穂の体のことについて一切発言しないのが、どうもかわいそうすぎる気がしたが、懍は全く平気だった。聰が、とりあえず、涼の靴を脱ぐなどを手伝って中に入らせる。涼は、犬はどうしたらと聞くと、懍は庭で遊ばせたらとだけ答えた。単なるペットではなく、大事な道具なのであるが、懍は、話している間は必要ないので、その間は遊ばせてあげればいいと説明した。じゃあどうぞ、と聰は涼の手を引いて、縁側に連れて行った。恵子さんが、お茶はどうしますかと聞いたが、涼は必要ありませんよと淡々と断った。
「さて、続きを書いてしまわないといけませんね。次の学会に間に合わなくなりますので。」
懍は、いつものクールな表情で、また応接室にもどり、再び机に向かって資料の執筆を再開した。恵子さんは、まだ食堂に戻る気になれないで、応接室の中にいた。暫くすると、聰が、応接室に戻ってきたので、水穂ちゃんどうだったと聞いてみると、応対はしているけど、顔面蒼白というべきじゃないかと答える。まあ確かに、ブッチャーの表現力のなさというのはよく知っているけれど、やっぱり心配なものは心配だ。俺もそう思います、と聰も同意した。
「二人とも、余分な心配はしてはいけません。もしも辛いことがあれば、本人が口に出して言うでしょうから、それがなければ大丈夫と思っていればいいのです。」
ちょっとばかりきつい口調で、懍がそう注意したが、恵子さんも聰もその通りにすることはどうしてもできなかった。
「でも先生、あたしたちは、そんなことできません。もし何かあったらどうしたらいいんですか?」
恵子さんがそういうが、
「だから言ったでしょう。何かあったら考えればいいだけの話で、今は何もないんですから、その時にぐちぐちと考えるのは時間の無駄です。」
と、さらりと返されてしまった。
「ですけど、心配ですので、俺たちはここに残ります!先生は平気でそういうことができるかもしれないですけど、やっぱり俺たちは、本当に水穂さんのことが、心配なので!」
聰が、我慢できなくなって、懍に「反抗」すると、
「二人ともお若いですね。まあ、仕方ありません。年を取れば、この理論も理解できるかもしれませんが、まだまだそこへたどり着くには時間がかかるようですね。ここで待つことを許可しましょう。」
といってくれたのでほっとする。こういう時には若い人のほうが勝つのか。せめて、若い人の意見も尊重してほしいと、恵子さんはため息をついた。
一方、縁側では水穂が、目の前にやってきた、盲目の人物に少し困惑していた。本人としてみれば、とにかくかったるかった。それでも青柳教授が出した命令には従わなければいけないから、とりあえず、涼を用意した座布団に座らせて、形式的に挨拶する。もちろん、涼は目が見えないこともあり、座布団に座ったら座ったままで、態度も変えずに挨拶をするのだが、もしかしたらこれ、ちょっと余裕のある人であれば、客に対してなんだよとか、文句を言うことがあるかもしれない。でも、それはできなかった。
挨拶を交わして、互いの自己紹介が済むと、とりあえず、一般的な形態であれば、症状や悩んでいることなどを紙に書くのが通例だが、涼は目が不自由なため、この儀式は行われなかった。
水穂にしてみたら、こういう人物に対して、同和問題について話しても無駄だと確信しているので、悩んでいることを話そうという気にはなれなかった。しばらく、二人は何も話さず、ただ、庭の鹿威しがカーンとなり続ける時間が続いた。
「水穂さん。」
ふいに涼がそんなことを言う。
「いつから、こちらにおいてもらっているというか、いさせてもらうようになりましたか?」
「え?」
そんな質問をされて、具体的に何月何日から製鉄所にいるのかなんて思い出せなかった。
「わかりません。どのくらいなんでしょう。机の中に入っている記録か何かを出せば思い出せるかもしれないですけど。」
正直にそう答えを出す。涼は、もし目が見えていたらどんな表情をするだろうか。それがわかれば、もう少し答えを出すのに苦労しないのではないだろうかと思うが、ぜいたくは言えない。
「何も言えなくても結構ですが、ここへ来るときにも、この製鉄所に入ってからも、皆さんが、心配しているんだなと、感じましたよ。迎えに来てくれたブッチャーさんも、お手伝いの恵子さんも、本当に心配してくれているんですから、できる限り早く、二人を解放させてあげられるように努めてください。」
つまり、体を何とかしろと言っているのだと分かった。
「でも、できませんよ。事情は、青柳教授からも聞いていると思うのですけど。先生のような人は、理解するのは難しいかもしれないですけど。きっと、先生は目が不自由ということで、すぐに特殊な教育を受けさせてもらうことができたのでしょう。でも、それも、僕たちはできない身分なのですから。」
たぶんきっと、時代は変わっているとか、もう法律で保障されているとか、そういうありきたりな答えが返ってくるだろうと予測した。そういう答えは、耳にタコができるほど聞かされてきたが、逆にそうやって援護してくれた人たちが、自分のせいで窮地に落とされたことも目撃しているので、もう言ってほしくなんかなかった。
「いいえ、もう結構です。いくら励ましていただいたとしても、何を言っていただいたとしても、何も変わりはしません。それに、こういう人をかばっても、単なる自己顕示欲のために利用するしかありません。もし、本当に手を出してくれたとしても、そうなればしてくださった方のほうに損害が生じて責任を取らなければならないことになるから、もうこのままおしまいにしてしまったほうがいいのです。」
思わず、本音を言ってしまう。やっぱり涼は表情を変えない。
「もう結構って、まだ何も答えを出してないのですけどね。答えを出す前に、もう結構なんて拒絶するのはやめたほうがいいですよ。」
「いえ、言わないでください。だって、ありきたりの答えを言われても、何もうれしくはないですし、かえって傷つくだけです。それはきっと、普通に生活することが保障されてきた人にはわかるはずもありません。」
「じゃあ、、、。ありきたりの答えでなかったらどうします?」
「そんなのあるわけが、」
と、言いかけた時点でまた吐き気がして、せき込みながら内容物を出した。本来であれば、すぐに背をたたいたりして、文字通り手を出すのだけれど、涼はそれをしなかった。
「すみません。本当は、何とかするべきなんでしょうが、僕もあなたがどのあたりにいらっしゃるのか、まったくわからないものですから、安易に手を出せないのです。」
「出さなくて結構です。どっちにしろ、答えなんてもう予測できてますから、どうしても言いたいのなら、言ってくださってかまいません。そうしなければ、職務を果たせなくなるとか、そういうことでしょ。僕たちから見たら、そういう慈善事業なんて、なんの役にも立ちはしませんよ。そういう人は、弱い人に手を出して、勝手に自分のことをかっこいいと思っているから、迷惑なだけな、、、。」
そう言い切る前に、魚のにおいと同じような液体を出すほうが先であることを忘れていた。
「たぶん、お苦しいなかでしょうから、聞き流してくれていいですよ。日本であれ、海外であれ、そうやって何かの犠牲になった民族というのは少なからずいますよね。でも、そういう人であっても、中にはものすごい偉業を成し遂げた人だって少なからずいるんです。たぶん、音楽関係の方なら、よくわかると思いますけど、メンデルスゾーンだってそうだったじゃないですか。ですが、ユダヤ人だからと言って、音楽史から抹殺されることはありませんでした。そこを忘れないでください。もちろん、種族とか民族とかそういう理由で、ひどい目にあった人は数多いですけど、その人たちが残した作品までが悪いものだったかというとそうじゃありません。そこを勘違いしているから、お苦しいのでございましょう。」
製鉄所は静かだった。ただ鹿威しがカーンとなっていた。
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