第七章

第七章

「何でだ。辛い話聞いてもらえるなんて、お前にとっては朗報じゃないのか?」

蘭は、そう聞き返すが、

「そんなもの、そのときの一時しのぎだ。いくら過去のことを話したって、自分で何とかしようと思わなければなんの役にもたちはしないよ。」

と返ってくるのだった。

「それなら努力すればいいだろう?それで先生に指導してもらえば、いっそう楽になれるよ。多少あるかもしれないが、僕も手伝うから。」

「楽になれる?さすがに、学校でいじめにあって、ドイツに避難できた金持ちの言いそうな台詞だな。お前みたいに簡単に逃げられるような環境の人には、こういうことなんて一生わかるはずがない。」

この台詞には、蘭も頭に来た。

「なんだよ!一生懸命考えてるのに、そんな言い方はないだろ!そんな言い方は!」

「だって、そうじゃないか。どこかの漫画みたいに簡単にタイムスリップでもできない限り、解決はできないんだよ。これは歴史を変えるしか方法はないんだ。そんなこと、いまの技術でできるわけないじゃないか!」

蘭に負けじと水穂も言い返した。でも、蘭とちがうのは、言ったあとに強烈な頭痛が待っていたことだった。

「お前、そんなこと言ってる暇があったら、自分のこと考えろ。僕らに散々心配かけて、何とかしようとか考えろよ。それを修正しようとしてくれる人をさ、こうしてやっと見つけてきたのに、なんでもう結果が分かっているような顔をするんだ。僕が一生懸命探してきたのをなんで一方的にはねのけるんだ!」

頭にきた蘭は、怒りに任せてそう言った。

「いくら、自身が強くなれとか、しっかりしろと言われても、僕たちはできないんだ。個人がいくら変わったって、日本にいる以上は一生低い身分の人間として生きていかなきゃいけないよ。それはもう、江戸時代より前から決まっていて、そういう風に生きていかないと、ほかの人は幸せになれないようにできている。もう、仕方ないんだよ。こういうことは、おそらく、普通に生きてきたというか、生かされてきた人にはわかるはずもない。」

「おい、なんだよ!それじゃあ、僕らが、お前にとって、悪事でもしていたとでもいうのかよ!」

「そうだよ。きっと、そうしなければできないことだってあるんだろ。と、いうより、人間自身のせいにして認めることはほとんどない。必ず誰かのせいにしないといけない。どこの世界でも、そういう身分とか民族というものは少なからずある。そして、当事者という人は、そういう人に近づくとか寄り添うということは絶対にできないんだ。そんなことを支援する商売なんて、役に立つはずがないよ。」

「お前はつらくないのかよ。大学でも散々馬鹿にされて、怒りとかそういうものも感じなかったの?」

「しないよ。怒っても仕方ないよ。気にしないということはできないのかもしれないが、話しても無駄であることは知っているからね。どんなに偉い人が、自己理解とか自己受容とかして、怒りをどうのこうのと著書の中で書いていても、僕たちは今日の米代を得るだけで精いっぱいだった。それしか答えなんて出ないのに、今更考えを変えるなんてできるものか。そんなもの、ただの偽善者の安上がりだ。結果なんてもう見えているんだから、偉い人に聞いてもらおうなんて、無駄なだけだ!」

「そ、そうじゃなくて、これだけ心配している僕のことも考えてくれ!じゃあ、僕はどうすればいいんだよ!」

「うるさいんだよ、お前は!もういい加減に黙れ!いくら偉い人がどうのこうのといって、自分が変われたとしても、同和問題が解決することはないんだ!」

とはいっても、もう疲れ切ってしまっていて、これ以上言葉が出なかった。代わりに猛烈な吐き気がして、畳に突っ伏し、激しくせき込んで中身を出すしかなかった。

同じころ、ふすまの外では。

「あーあ、また喧嘩してる、、、。」

恵子さんが、もう自分には止められないという表情で思わず顔の涙を拭く。そこへ、こうなると予測したのか、懍もやってきて、恵子さんに手拭いを手渡し、厳しい表情でこう言った。

「お願いがあるのですが、すぐに須藤さんに連絡を取っていただけますか?その古川という方がこちらへ来訪するときに、手伝っていただきたいとお伝えください。」

「須藤さん?あ、ブッチャーのことね。でも先生、ブッチャーも車の運転できないのではありませんか?」

と、恵子さんは心配そうに言った。確かにそういえば、聰は車の運転免許は取得していない。それに、いつの間にか本名の須藤聰も忘れ去られていた。

「いえ、彼のような人材でなければこのような状況は理解してくれないでしょうし、車の運転だけが手伝うことではありませんよ。それ以外にも、盲人がここまで一人で来訪することはまず不可能でしょう。」

「はい、そうなんですが、この喧嘩を納めないと、、、。」

「そうですね。歴史的に言えば水穂さんのほう、倫理的に言えば蘭さんのほうに軍配が上がります。しかし、二人が主張することは、決して交わることはできませんので、このままでは、決着はつかないでしょう。世界というものはそういうものなのです。相反する主張が入り混じっていてしっちゃかめっちゃか。これが原因で起きた国家紛争も数え切れませんね。そして、統一されることは二度とないでしょう。統一されている民族なんて、いまはもう数少ないと思いますね。もう、ほんの一握りだと思います。」

「先生、そういうことじゃなくて、今日の喧嘩を何とかしなければ。」

「ええ、わかっていますよ。とりあえず、そうしなければいけないのですが、導き出される結論というものは全くありません。僕たちができるのは、あの二人を止めることしかできませんからね。ですからそのためにも、恵子さんは、まず須藤さんに連絡を取ることです。まず、言葉だけでは止められませんから、こういう時には物的な手段が武器として必須になります。」

「あたしも、喧嘩を止めなくていいものでしょうか。」

「いえ、女性が騒動を止めるということはまず不可能です。女性はもともと戦場で戦うことはできませんから。それに、戦闘に女性が介入すると、事態はさらに悪化することのほうが多いから、ほかの分野で活躍してくださればいいのです。」

こういう言い方をされると、女性解放主義者の方は、ちょっと嫌な発言と取ることが多いのかもしれないが、恵子さんはそういうことは慣れているのですぐに行動に移した。一言分かりましたと言って、電話を掛けに食堂へ戻っていった。

ふすまの中では、水穂が畳に蹲って激しくせき込んでいた。せき込むたびに、血液が畳を流れていった。それはまるで真っ赤に焼けた熔岩流が、あっぴろげに平和だった平野を侵食して流れていくのに「そっくり」であった。

蘭もこのありさまを見て、自分が言い過ぎたことに気が付き、

「ごめん!ごめん!本当にごめん!お前がそんなに傷つくとは思わなかったんだよ!」

と背をたたくなどして吐き出しやすくしてやったが、水穂は何も言わなかった。と、いうより、いえなかった。

突然、ピシャンと音がしてふすまが開く。

「二人とも、無謀な喧嘩はそこまでになさい!決着のつかないことで、いつまでも対峙しようとするのは、何も結果を出さないということを頭の中に叩き込んでおくように!」

懍が厳しい口調でそう言ったのだ。蘭も、やっと血液の流れ出すのがストップした水穂も、申し訳なさそうに懍の顔を見た。

「これ以上お二方の主張を聞きあっても全く無意味なことはわかっていますから、内容は聞きません。今、恵子さんに頼んで療法家の方をこちらへ来訪させるように仕向けていますから、あとはその方の指示に従うこと!水穂さんも、彼と接見する際には、いくら盲人であるからと言って、彼を馬鹿にすることになりますから、銘仙での接見は一切許しませんよ!」

こういうとき、権力という言葉は結構やくに立つのだった。もちろん濫用してはいけないけれど、争いを止めるとか、間違ったことをやめさせるとか、そういうことには意外に効力を発揮する。ただ、そのためには、権力者が実力のある人物でなければいけないという条件もある。

「すみません。」

水穂が、小さい、細い声で答えた。蘭は、やってくれるのと確認を入れたかったが、それは許されるか迷っていた。と、いうより、やっぱり青柳教授の言葉を借りないと、自分には他人を説得できないというか、自己主張できないのが悲しかった。流れてくるのは猛烈な涙。

「お前、、、。」

思わず車いすから落ちて、着物が汚れるとかそういうことはどうでもいいから、目の前にいる親友の肩に手をかける。言いたいことは山ほどあるのだが、口に出せたのはこれしかない。

「お願い、逝かないで!」

「ほんとに、」

親友は、また弱弱しくいった。

「人の言うこと聞かない男だな。」

と、同時に、恵子さんがスマートフォンをもって入ってきた。たぶん、聰に電話をして、聰本人が、詳しく聞きたいことがあるとか言ったのだろう。

「先生、ブッチャーが具体的にどうしたらいいのか教えてくれって言ってますが。」

「あ、わかりました。ちょっと貸してください。」

懍は恵子さんからスマートフォンを受けとった。これまでの厳しい態度はどこへやら、いつもと変わらない、淡々とした口調でこう切り出すのである。

「はい、お電話変わりました。あ、須藤さん、ご無沙汰しています、お世話様です。ええ、そうなんです。こういうときは、餅は餅屋でお願いしたほうがいいと思いましてね。はい、視力はゼロですよ。まあ、顔の見えないほうが、意外に的確に聞き取ってくれるかなと思ったので。ええ、それでね、たぶん、電車で富士駅まで見えると思いますから、その時に、駅で出迎えていただきまして、タクシーに一緒に乗っていただいて、こちらまで来ていただけないでしょうか。たぶん、全盲ですから、自動的に点字ブロックを歩いてこられるとは思いますが、タクシー乗り場にたどり着けても、乗り降りや支払いなどが困難であり、一人では来られないと思いますから。ええ、お願いします。」

懍がそういうやり取りをしている間、蘭は今まで以上に強く水穂の体をつかんでいた。それこそ、彼に対して自分の思いを伝えるには最適なのかもしれなかった。恵子さんが、もう喧嘩はしないでね、なんて言っていた。

そのまま懍は、日程や時間帯などについてブッチャーと話を続けていた。懍にしてみたら、はやくこういう人に来てもらうことを望んでいたようだ。だから、もう手っ取り早く、と思っているんだろう。

その間にも、蘭はもうとにかくこいつに自分の気持ちをわかってもらうにはこうするしかないのだ!という思いで頭が一杯であり、とにかく親友の体をしっかり抱きしめ、その肩に顔をつけて泣けるだけ泣きはらした。勿論、涙でどうのこうのというテレビアニメ等でよくあるシーンは、現実には絶対あり得ないが、だからこそ今、涙を流しておいた方がよいのかもしれない。

自分には、やっぱり何かを伝えるというときは、こういう風になってしまうなということも分かったから、もう、態度で示すしか方法もなかった。

「蘭ごめん。腕を取ってくれ。」

水穂が、どこか申し訳なさそうにいう。蘭は何でまだわかってくれないんだよ!と思ったが、

「水穂ちゃんどうしたの?」

恵子さんが、代わりに聞くと、

「吐き気が。」

と返ってきた。恵子さんは、蘭にもうよしなさい、と促したが、蘭にしてみたら理由を聞ける余裕もなく、たんにわかってくれないのかとしか思えなかったが、突然、苦しそうな呻き声がしてきたので、急遽正気にかえって、水穂から離れた。

「よく出るわね、今日は。もう、来てもらわなきゃだめね。このままだと、血液どころか気力まで、全部出てって、なくなっちゃうんじゃないかな。」

恵子さんの悪い冗談ほど、大量ではなかったが、まさしく、残り少ない絵の具を無理矢理押し出す様にそっくりで、ほんとうに苦しそうだった。

「また、畳も張り替えなきゃね。きっと先生が、収容所ではないから、不衛生にはしないとか、そういうこというと思うわよ。厳しいけど、意外にそういうところは敏感だからね。」

「はい。」

一応、返答はしているが、もう辛うじてやっているような感じだった。このまま座らせていたら、間違いなく倒れるな、という感じの顔だった。

「もう眠ろうか。辛いだろうから。あんなに派手に喧嘩して、疲れちゃったよね。」

蘭は、申し訳ないことをしたなと思って、小さくなった。恵子さんが、水穂の体を支えてやりながら、布団に横にならせ、そっとかけ布団をかけてやった。

「蘭ちゃん、このまま寝かしてあげようね。もう、喧嘩しちゃだめよ。」

「すみません。僕の説得下手で。」

もしかしたら、杉ちゃん連れてきた方が、喧嘩にはならなかったかな、と思った。こういうときは、面白おかしく、ギャグを交えて説得した方が、本人も回りも楽しいだろうな。そのほうが、二人とも、負担にならずに伝わるじゃないか。そういうことは、僕にはとてもできない。でも、なるべくなら感情的にならないで、円滑に伝えられるのが一番いい。そのためには、やっぱり杉ちゃんの、できない人はできる人に頼むという理論は、間違いではなかった。そういうことも必要だ。そして、この人はこれができるからダメで、この人はこれができるからいいとか、そういう評価も必要なかった。人には、それぞれ得意と苦手があり、各個人が得意なことを発揮して、互いに必要としあうような社会がはやく来てほしいと切に思った。

「恵子さん、とりあえず希望日程は決まりました。あとは、古川先生のご都合を聞くだけです。代表として、僕が説明しますので、電話番号かなにか、お分かりになりますか?」

懍が、部屋に戻ってきた。たぶん、ブッチャーと話がついたのだろう。感情を入れないで論理的に説明をするというのは、改めて難しい作業なんだなと分かる。それなら、なおさら苦手としている自分が出る幕ではない。もし、どうしても獲得しなければならなかったら、亀の甲より年の功に頼らないといけないかもしれない。

「あたしはしらないわ。蘭ちゃんが知っているようです。」

ほら、と、恵子さんに肩を叩かれて、

「あ、すみません。電話番号は、これです。」

蘭は、乗っていた車いすまで手で這っていき、ポケットから手帳を出して懍に渡した。懍は、すぐに電話をかけ始めた。蘭はとにかく、水穂が目を覚ますまでは、帰らずにここにいると誓った。迷惑なんてどうでもよかった。恵子さんもわかってくれたようで、なにも言わなかった。

そのまましばらく、しいんとした長い時間がたった。恵子さんが、ごはんの支度があるからと言って、食堂に戻っていった。ふすまの外では、青柳教授が偉い人特有の挨拶を交わして、現在の状況などをかいつまんで説明し、そのうえで改めてお願いをして、日程などを話し合っていた。えらい人同士というのはどうしても前置きが長くなってしまうらしい。まあ、それも、偉い人が身に着けてきた会話のテクニックなのだろう。えらい人たちは、単刀直入にこうだと物事を伝えるのは苦手なようだ。そのせいで、解読に苦しんだことも多かったが、日本のえらい人たちはなぜかそういう風にできている。まず、季節の話とか、体の話などをしてから、本題を語りだすし、本題だって、飾る言葉が多くて、蘭にとっては、その本題の内容をつかみ取るのが非常に難しい。

そういうことを考えると、ドイツ語にはそういう言葉が比較的少ないので、確かにドイツはその必要がないことから、居心地のいい国家であったのかもしれない。遠回しに遠回しに本音を伝えるということはまずないからである。

そう考えると、やっぱりドイツへ逃げてしまった自分には、水穂が抱えてきたというか、苦しんできた問題に直面するのは、できないのかなともおもった。もしかしたら、直接的に馬鹿にされるというよりも、こういうテクニックの中に馬鹿にする要素が混じっていたほうが、傷つく度合いは大きいのかもしれなかった。自身が純粋すぎてしまうほど、こういう要素を感じ取る力は大きいだろうし。意外に、ドイツでは、態度で示すというより、言葉にして表現するほうが重要なので、口に出して言っていることだけを信じればいいという傾向があるが、日本では口では肯定するものの、態度で真逆のことを示していることもかなりあり、その解読はある程度テクニックに頼ることが必要である。さすがは技術大国といわれるだけあって、うまく人と話す方法などというタイトルで、テクニック的なものを指導した書籍などもかなりあるが、それに関して相手がどう感じるかということは鈍感であり、ほとんど言及していない。たぶん、水穂もそうだったのだろう。言葉ではいくら演奏がうまいぞ、と言われたとしても、裏では部落民は出ていけ、ということを示されて、やっぱり自分は、という気持ちをたくさん味わったに違いない。

だから、自身が変わっても、楽にはならないということなんだろう。

やっぱり、気が付いてやれなかったな。

ごめん、許してくれ。一方的に言うべきじゃなかった。

「また泣く。」

ふいに声がして、あたりを見渡す。部屋にいるのは、自分とあと誰だっけと一瞬思ってしまった。

「おい、もっと寝ていてもよかったのに。でないと、また恵子さんも心配する。」

「心配しているのは、恵子さんではないだろ。」

図星か。なんでもすぐにわかってしまうのか。

「お前、本当に、人のいうこと聞かないことは知っているから。」

「なんだよ、そんなに頭悪い奴に見えるか?これでも大学院まで行ったのにさ。」

ムキになって、思わず学歴を口にしてしまう蘭に、

「お前が勧めてくれたの、受けることにするよ。」

水穂はそっと言った。

そうなると、杉三であればすぐに大喜びして、万歳をするのが通例なのだが、蘭はとてもできずに、ただ泣くしかできなかった。しかし、心の中では、万歳をしたいくらいうれしかった。

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