第六章

第六章

恵子さんが、お茶を出してくれたが、とても飲もうという気になれず、落ち込んでいる蘭だった。

僕は、いらない存在になってしまったかな?

あいつに、1日でも長くこっちにいてほしいと思っているだけなのに、なんで伝わらないんだろう。そういう気持ちってかえって邪魔なのかな?

「さて、お昼の支度しなきゃ。もうすぐ、女の子たちが大学から帰ってきちゃうわ。」

恵子さんは、勝手にお昼の支度を開始した。

「え?今日は土曜で授業はないのでは?」

思わずきくと、

「蘭ちゃん、大学は平日だけやっているところばっかりじゃないわ。」

あ、そうか。通信制とかもあるのか、と、蘭は改めて考え直した。

「蘭ちゃん、そういう固定概念の強いところ、損をするからやめたほうがいいわよ。」

それだけいって、お米を研ぎ始める恵子さん。

固定概念って、当たり前のことをやっているつもりなのに。まあ、確かに日頃から貧乏くじを引いているが、その固定概念って具体的に何だと考えると、わからなかった。

不意にどこからか、ゴドフスキーの練習曲が聞こえてきた。まあ、音楽に多少詳しい人であれば、音色やテンポがちがうため、水穂の演奏ではないことはすぐわかる。しかし、素人の蘭は全くわからず、すべて同じに見えてしまう。

「わあ、止めにいかなきゃ!」

「いい加減にしなさいよ、蘭ちゃん!」

お米を研ぎながら、恵子さんがそういったので、それはできなかった。それにしても、ゴドフスキーという作曲家の作品は本当に難しいんだとわかる。こんなに音が多くて、激しい曲をやらせたら、疲れはてて倒れちゃうのは当たり前じゃないか!と思う。

演奏は、二分少々であるが、蘭には何十分かかる大曲のように感じた。おいおいおい、あいつ、大丈夫かな、あんなにすごいの弾いて。もう、杉ちゃんも、鈴木さんたちもなんでやめさせないんだよ!ほんとに、なんでみんなそういうところに無神経なんだろう。

「あ、またやる!」

杉ちゃんのでかい声で、蘭の予想は当たったとわかった。あんなすごいのやったんだから、相当なものになるぞ、と思った。しかし、恵子さんは、相変わらず野菜を切り続けているし、青柳教授も部屋から出てこない。様子見にいこうかと思うけど、本人が、お前はうるさいんだよ、といったら、さらにつらくなってしまうのは明白である。結局、僕はこうしているしかないのかあ、と、蘭はテーブルに突っ伏してさめざめと泣いた。

「蘭さん、すみません。私たち、もうすぐ帰りますから、今日はありがとうございます。」

不意に女性の声がして、蘭は顔を上げると、となりの椅子に裕子さんが、座っていた。

「あ、水穂、どうですか?」

挨拶抜きに第一声はこれ。本来失礼なのだが、それを言っている暇はないし、裕子さんもわかってくれたようだ。

「え、ええ。いま薬で眠ってます。すみません、うちの主人ときたら、ほんとに軽い人で、ちょっと試しに弾かせてくれよなんて、あんなけたたましい曲を弾いちゃうものですから。」

あ、そうか、鈴木さんも音楽学校の先生だったんだ。それなら弾いてみたい気持ちにもなるな。つまり、演奏は鈴木さんだったわけね。ちょっとほっとした。

「でも、ほんとに大変な曲なんですね。あれを音楽的に弾こうとすると、相当でないと弾けないですよ。弾けてもただのけたたましい曲になってしまう。それを主要なレパートリーにしているんだから、やっぱりすごい才能だって、主人が言ってました。」

さすがは、音楽学校の先生だな。だったら、相当体力ないとできないこともわかるだろうから、あいつに二度と弾かないでくれと、いってもらえないだろうか。

「杉ちゃん、あ、杉三さんが、お帰りは目が覚めるのを待ってからにしてくれというのですが、なんだかそれもかなり辛くて、私もこっちへ来てしまいました。主人はそうすると言いますが、私はそんな気の強い人ではないので。」

「いや、ありがとうございます。」

裕子さんの言葉にお礼してしまう蘭だった。

「少なくとも、僕と同じ気持ちの人がいてくれてよかったです。僕も正直にいうと辛いんですよ。もうほんと、なんでみんな、いつもと変わらない生活なのか不思議なくらい。あいつの、容体がどんどん悪くなっていくのは、明らかにわかるのに。」

「私も、驚いてしまいました。本来なら、病院にいってあたりまえだと思いますし。明治とか大正じゃないんですから、いまは抗生物質もたくさんあると思うし。」

ああ、それはね、にてるけどちょっと違うんですよ。と、蘭は言いたかったが、口に出せなかった。

「でも、それを言おうとしたら、杉三さんが絶対に言うなと言って怒るので、私、言えませんでしたけど。」

杉ちゃん、君も困った人だよな。ほんとに、、、。なんで僕には余分なことばっかりっていうのかな。君のほうがよほど余分なことしているんじゃないか。

「だから私、もしかしたら別のものと勘違いされたかなんかして、労咳とはやく発見できなかったんじゃないか、と考え直しました。最近は、どこかの学校で集団感染なんかもあったようですしね。」

「そんなことは、はっきりいってどうでもいいんですが、僕はとにかくあいつが、少しでも楽になってくれればと思うんですけどね。それだけなんです。だけど、なんか知らないけど、本人にも他の人にも、余分なことするなになってしまう。」

蘭は一生懸命自分の本音を口にした。これをわかってもらいたかった。

「私も、多分蘭さんの立場になったら、そうなると思います。いくら本人は嫌だとしても、説得して無理矢理病院にいってもらうとか。だって、そういう態度を示したら、相手をこれだけ大事に思っていると、わかるんじゃないでしょうか?」

それも、歴史的な事情のせいで、断られてしまうのはよくわかる。本人もそれはよく知っているし、辛いだろう。それは歴史的な事情がない人になら通じる。

「すでに僕も何回も試みましたが、いずれもダメでした。あの顔に合わず、結構きついところがある人ですから。音楽業界ならわかるのでは?ほら、意外にわがままな人っているじゃないですか。例えば病院に行くのを極度に嫌って、辺境の地で静養したいとか言い出す人。」

「そうですか、本当に昔の人みたいですね。」

裕子も驚いているようである。

「でも、僕はできることなら、あいつに良くなってもらいたいのです。」

すると、裕子さんがこういうことを言い出した。

「じゃあ、少し意識改革というか、そういうことをしてもらったらどうでしょうか。少なくとも、昔と違って、ここで事切れたら、まだまだこまる、と伝えたほうがよいと思いますから。ほんとに、いまは明治ではないんですから、まだまだ治る可能性はありますよ。主人も、多分お手本にしたいと思いますし、お弟子さんになりたい人が出るかもしれない。勿体無い人です。だから、もうちょっと、前向きになってもらうために、なにかしてもらわないと。」

「カウンセリングとかですか?」

ピンと来るものがあった。

「あ、それだけじゃなくていまは、意識をかえるとか、トラウマを癒すとか、いろいろあるじゃないですか。私も、受けたことがあるんですが、ヒプノセラピーとか、いろいろあるでしょ?どうしても変えられない悪い癖とか、私、直してもらいましたよ。もちろん、うつが直るかということには繋がらないかも知れないけど、考え方を変えるには、すごい役に立ったとおもいます。」

はじめて聞く単語であるが、蘭はぜひそれにすがりたいと思った。

「あの、それはどこへいったら受けられるものなんですかね。東京とか、そういうところですか?」

「なんなら、紹介しましょうか?静岡市に住んでいらっしゃるけど、事情を話せば、こちらへ来てくれるのではないかしら。あ、でも、難しいかしらね。あの先生、目が見えないから。でも、ほかにもやってくださる先生はたくさんいますし、権威がある方を紹介してくれるかもしれないから、私が、お話だけでも、してみますよ。」

「いや、目が不自由な方がかえっていい!その辺りは僕らが何とかしますから、ぜひ連れてきてください!もし、お代が必要なら僕が出します。」

と、頭を下げると、勢い余って、テーブルがごちーんと鳴った。

「いてて、、、。すみません、おっちょこちょいで。」

「もう、大丈夫ですか?そういうことなら、そうした方がいいですね。わかりました。私、お話ししてきます。」

「お願いします!僕の連絡先も書いておきますから、お伝えください。」

蘭は、車いすのポケットから、手帳と鉛筆を出した。そのページを破り、急いで自分の名前と住所と電話番号を記入して、裕子にわたした。

「ほんとに、水穂さんとはタイプがちがいますね。文字の書き方が、全然違う。」

と、笑われるほど下手な字。

「あ、すみません。」

と、苦笑いした。

しばらくして、鈴木夫妻は帰ることになった。目が覚めた水穂にも丁寧にあいさつして、玄関先から出て行った。水穂は、おぞましいところを見せてしまってすみませんとお詫びした。その時杉三が、笑い飛ばしてくれなかったら、きっとすごい悲しい雰囲気の訪問になってしまったことだろう。杉ちゃんは、ちゃんと役割を持っている。蘭は、自分には何もできないのかと改めて、がっかりしてしまうのであった。

「大変そうだったなあ。」

帰りの車の中で、優希がそうつぶやいた。

「世の中には本当に、どうしてああいうやつがああなってしまったのだろうと、思わされる事例が多いんだな。教育者として情けないよ。ああならないようにしてやるのが教育者なのにねえ。」

「そうねえ。もしかして、あたしたちがしてきた身近なことがかえって役に立つのかもしれないわね。」

裕子は、そんなことを言った。

「なんか、意外に小さなことが、解決につながるのかもしれないわよ。」

「へえ、お前も前向きになったな。そうだよ、そういうことを大切にしろ。」

「ごめんね、今まで変なことばっかり言って。」

「気が付けばそれでいいよ。」

そうやって、何も言わないのは、やっぱり年上の夫ならではの特権なのかもしれないなと、裕子は考え直すのであった。

数日後。

蘭が、自宅で下絵を描いていると、スマートフォンがなった。見たことがない番号だったので、一瞬出るのに躊躇したが、まあ、新しいお客さんか、今までのお客さんが番号を変えたのかな、と思いながら、急いで電話に出た。

「はい、伊能ですが。」

「あ、すみません。初めまして、先日鈴木裕子さんから紹介された、古川涼と申しますが。」

あれ、誰だっけ?と思ってしまうが、そういえば裕子さんがそういうことを言っていたことを思い出した。

「いきなりお電話してしまってすみません。本当はメールでもお送りするのが礼儀だと思うのですが、全盲のため、メールの操作ができないので、お電話を差し上げたのです。」

静かな口調でいうこの男性は、さすがに心を扱う人らしく、穏やかで優しそうな人物だった。

「あ、ごめんなさい。わざわざ裕子さんにお願いしてしまって。申し訳ないですね。僕が本当はお願いすべきでしたが、、、。」

「いえ、かまいませんよ。単刀直入に申しますが、施術はいつからご希望でしょうか?」

「いや、施術してほしいのは、僕ではなくて、僕の友人なんです。」

蘭は、こうなったら言ってしまえ!と思い、水穂のことを急いで語った。さすがに、同和地区の出身者であるということを言うことはできなかったが、出身階級に問題があって、こういう治療というものはなかなか手が出せなかったことを強調した。

「わかりました、階級がどうのとか、民族がということは気にしなくていいですよ。それは基本的に必要な要素ではありませんから。」

「え、ほんとですか!じゃあお願いしたいです。僕もいくら説得したってまったくわかってくれないので、もうこういう方に頼まないとだめだなと思っていたのです!」

「了解です。ただ、実際にそちらに伺うのは、ご本人の確認を取ってからにしていただきたいので、確認が取れたらこちらに折り返し連絡をいただきたいです。もし、施術していて、留守電になってしまったら、申し訳ないのですが、電話番号と一緒に要件を録音しておいてくだされば、こちらからかけなおします。メールという手段はできませので、電話だけになってしまいますが、申し訳ないです。」

まあ、杉三がいつもやっていることなので、電話をすることに抵抗はないが、実際は電話ができないという人も数多いのだろう。涼先生は、そこが申し訳なさそうだった。本来なら、そういうことは気にしなくていいのにな。

「わかりました!すぐに本人に伝えておきますから、それができたら直ちに連絡をしますので!」

蘭は、天からの助けがやっと降りたような気がして、大喜びで電話を切った。

杉三式に言えば、万歳をしたいくらいだった。頑張ってあいつを説得し、何とかして前向きに生きる気力を持ってもらおう。すぐに製鉄所に行って伝えなければと思ったが、杉三が一緒では、かえって邪魔になると思い、自身一人で行くことを決断する。ここは杉ちゃんの邪魔がなく、一人でやり遂げよう。変なギャグを利用するのではなく、ちゃんと理論的に説明したほうが絶対納得してくれるだろう。この時の蘭はそう考えていた。

翌日、蘭は急いで製鉄所に直行した。ちょうど、大概の利用者たちは、学校や仕事にいっている時間帯だったので、製鉄所は静かだった。

「ごめんください。」

玄関の引き戸を開けると、恵子さんが応対した。

「どうしたの、蘭ちゃん。改まって。」

恵子さんが、そういうほど蘭の顔は真剣そのものだった。

「杉ちゃんは?」

当たり前のように聞く恵子さんだが、

「すみません。今回はちょっと重要な用事なので外れてもらいました。それより、水穂、いますか?いたら、大事な話があるので、ちょっと会わせてもらえないでしょうか?」

「あ、いることにはいるけれど。」

恵子さんは、困った顔をする。

「どうしたんです?もしかして、」

ま、また何かあったのかと身構える蘭。

「まあ落ち着いて。大したことじゃないんだけどね。いまさっき薬のんでやっと眠ってもらったの。いま起こしたらかわいそうでしょ。」

「じゃあ、すごかったんですかね?たぶんまた何かに当たって、、、。」

「そうなのよ。八丁味噌がいちばんよかったのかな。添加物の多いのは、やっぱりだめだわ。ちょっと製鉄所の利用者さんにはかわいそうだけど、これからはずっと赤で通してもらうしかないわ。」

それなら、しかないか。もういつそういうことが起きても、仕方ないというのは蘭も理解できた。

「そうですか。じゃあ、出直した方がいいですかね。でも、なるべくはやく古川先生にも返事をださなきゃいけないな。昨日お電話いただいて、すぐに返事を出そうと思ったんですけど、これでは難しいとお伝えしておきます。」

ちょうど、用事があって応接室から出てきた懍は、蘭の言葉を聞き付けて玄関先にやってきた。

「誰に返事を出すんですか?」

「あ、教授。実は、この間来てくれた鈴木裕子さん、つまり鈴木優希先生の奥さんですけど、そのかたが、水穂に心理療法とか、受けさせたらどうかと提案してくれましてね。その先生も紹介してくれたんです。」

と、蘭はそのときの顛末を詳しく話した。懍も丁寧に彼の話をきいた。

「わかりました。そういうことはぜひやってもらいましょう。すぐに本人にも伝えてください。」

「でも先生、今はやめた方がよいのではないですか?せっかく眠ってくれたのに、また起こすのはかわいそうだわ。」

懍の発言に恵子さんが、口を挟んだ。

「いえ、少なくとも寝かしつけてから30分はたっていますので、大丈夫でしょう。それにこういう場合、餅は餅屋です。実際末期がんの患者のもとに心理士が訪問することもあります。そういうことは、僕たちはできません。蘭さん、お入りなさい。」

懍がそういうことをいうとなると、問題は相当深刻だということが分かった。

「でも、喧嘩はしちゃダメよ。なかよくね。」

恵子さんは蘭にくぎを刺した。

「は、はい。決していたしません。」

蘭は、製鉄所に入らせてもらい、四畳半に行った。

「おい、ちょっと起きてくれ。いい話を持ってきたよ。辛いなら寝たままで構わないからきいてくれ。」

水穂は、眠っていたが、ふっと目を覚ましてくれて、つらそうでありながら布団に座ってくれた。その真っ青な顔は、ほんとうに疲れきっていて、なんだか文字通り、とてもつらそうである。

「辛かったら寝たままでもいいよ。ただ聞いてくれればそれでいい。」

「お前は本当にうるさいな。寝たままなら寝たままで、大丈夫かとかひっきりなしに言うくせに。」

口調はしっかりしているので、蘭が考えるほど深刻ではないようである。ちょっと安心して、蘭は懍に話したことと同じことを、水穂にも話して聞かせた。

「な、頼むから受けてくれよ。その方がお前だって楽になれるよ。僕も何とかして協力するから。全盲ゆえに駅への行き帰りが大変だったら、ブッチャーに話して手伝ってもらうなりすればいいだろ。無理だったら、介護タクシー業者とか手配するよ。だから頼む。この通り!」

蘭は一生懸命、自分の気持ちを伝えたかった。ついでに青柳教授も、こういうときは、餅は餅屋だから、ぜひやってもらったほうがいいと言っていたことも語る。

「僕たちは、お前を何とかしてやりたいが、もう限界だと思うから、こういう人に来てもらってさ、ちゃんと頭の中を整理したほうがいいと思うんだ。だから日程を決めて、来てもらおう!」

「断る。」

水穂は、小さいがしかし重たい口調で言った。

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