第五章

第五章

そう言えば、今週末は三連休であった。

まあ、それでもきっと、自分は小説ばかり書いて過ごすんだろうな、というのは予測していたから、裕子はとくになんとも思っていなかったのだが。

「裕子、今度の連休、また富士にいくか。」

不意に、夕飯を食べながら優希がそんなことを言った。

「あら、また楽譜を買いにいくんですか?」

最近は裕子も外へ出るのは億劫というか、面倒というか、かったるい感じだった。

「いや、楽譜ではなくて、この前手紙くれたからさ、会いに行こうかなとおもってさ。手紙にもそう書いてあったから。あの影山とか言う人。」

「影山?」

あ、あのとき楽譜屋さんで遭遇した、ちょっと変な人ね。

「あ、私は遠慮しようかな。」

といってしまうが、

「いやいや、体が悪いと言うことではないんだし、ちょっとそとへ出た方がいいよ。うつと言うのはね、確かにつらいのかも知れないけれど、少し前向きになろうとする事が大切なんだから。」

うつと言われたらおしまいだった。そう診断された訳ではないけど、優希はそう思い込んでいるらしい。

「うつにはとにかくきっかけが大事だよ。そとへ出て、違う世界に触れること。そのためにお洒落して、化粧をしたり服を買ったりすることだって、立派な治療なんだから。」

まあ、確かにそうだ。てか、服を買えないほど貧しい環境の人はうつにはなりにくい。つまり、贅沢病という偏見はこういうところから来るのだろう。

「幸い、代筆してくれた人が、連絡先をしっかり書いてくれてあったから、食べ終わったら電話してみて、日程を確認してみるよ。」

そういえば、連絡先にメールアドレスは書かれていなかったし、FacebookのようなSNSも書かれていなかった。と、いうことは、スマートフォンを持っていないのだろうか?電話なんて、もう何年も使っていない。怖くてできない、ではなくて最近は必要ない風潮が強いため、それに便乗して使わないでいる。

「多分、文字を読めないから、電話番号しかないんだね。まあ、それは仕方ないことだ。なら電話すればいいことだから。」

「お店の中でもそういってたけど、あり得ない話では?だって、発展途上国ではないでしょう?」

裕子からしてみれば、そうにしかみえない。

「いや、海外でも問題になっている。君も知っているかも知れないが、トム・クルーズとか、有名な芸能人が、読み書きができなくて困っていると告白する例は結構ある。日本でもたまに見かけるようだし、これからは何とかしなきゃならない問題だとおもうよ。じゃあ、電話をしてみるから、日程が決まったらすぐいこう。」

優希は、お茶を飲み干すと、立ち上がって自室に戻っていった。できれば、あの変なおじさんには会いたくないなあと思うが、代筆をしたという、あの字が上手いひとはどんな人物なのか、見てみたいという気にはなる。勿論、言葉を交わすのは苦手だから、文字どおり見るだけで十分である。それだけでも、私にとっては、十分すぎるほどである。

自身も食べ終わって、お皿を片付けはじめたが、まだ優希は戻ってこない。五分くらいで終わるのかとおもったら、そうではないらしい。電話なんて、そういうもんなのに。二人分しかないので、片付けもすぐおわる。洗濯物はとっくに終わっているし、あとはやることはない。そうなるとすぐに小説を書きたくなるのだが、今日はちょっとよしたほうがよいかなと思った。

とりあえず、明日の天気予報をみて時間をつぶしていると、やっと優希が戻ってきた。どうだったの?と裕子がきくと、

「いや、直接本人のお宅へお邪魔しようと思ったのだが、沢山つれてくるのだったら製鉄所に来てくれといわれて、行き方を聞くのに時間がかかってしまった。まあ、確かにその方が、早いかも知れないね。なるべく早くというから、今度の土曜なら大学が休みなので、伺いますと言ったら、大喜びしていたよ。」

と返ってきた。

「富士に、鉄を作る工場なんてあった?」

そんなところ、聞いたことがない。

「いやいや、それは名ばかりで、実際は問題がある子を集めて、立ち直らせるための施設なんだそうだ。なんとも、ベルリン芸術大学の教授がやっているんだって。そこには手紙を代筆した人が住んでいるようだが、何とも桐朋時代の同級生だったよ。結婚して苗字がかわってたから、すぐ思い出せなかったんだけどさ。」

「まあ、そんな繋がりがあったの。え、待って、あなた、桐朋いってたとき、付き合っていた女性がいたの?」

思わずそういってしまう。だって、私には、俺はこんな気持ち悪い顔だから、ピアノは弾いていたけど、全然もてなかったよ、なんてよく口にしていたじゃない。

「いるわけないじゃないか。こんな顔で寄ってくる女性なんているもんか。もっとかっこよくて、それこそイケメンな人じゃなきゃ、もてないよ。桐朋の女性なんて、みんなプライドが高いから、どっかの海外の俳優並みの人じゃないと、興味なんか持たないから。」

「だって、結婚して苗字が変わったっていうから。」

「勘違いするな。女ばかりが苗字を変えるもんじゃないぞ。政治家の家系とかであれば、婿養子もらうという家はよくあるぞ。」

「そう、じゃあ、その人もそういう人だったのかしらね。きっと、あたしたちとは違って初めから誰々という許嫁がいるような、家庭の人ね。」

そんな古い頭の人だったなんて、ちょっとがっかりだ。もっと西洋的な人かと思ってた。

「桐朋時代は、ちょっとした名物と言われたほど綺麗な人だった。ピアノだって、俺が弾けなかったゴドフスキーの難曲を平気で演奏できるくらい上手かった。俺も、ゴドフスキーにトライしたけど、手首を捻挫してリタイアしたんだから、相当な上手さだよ。でもねえ、惜しいことに、いまは重い病気で、ずっと寝ているんだって。あの顔で随分勿体ない人だな。」

「あら。どうしちゃったのかしら。」

とりあえずそういったが、どこが悪いのか気になる話だった。もし、内蔵疾患であれば、入院するとかそうなっているはずだから、もしかしたら私とにたような感じなのかしら、なんて勝手に思ってしまう。

「まあ、本人も喜ぶからぜひ製鉄所に来てくれと言われているし、気晴らしにドライブも悪くないと思うから、土曜日に行ってくるか。じゃあ、支度しておいてくれよ。ジャージではだめだぞ。」

最近の裕子は、身だしなみなんて全く気にならず、普段着はジャージばかり着ていた。

「わかったわ。」

裕子は、とりあえずそう答えた。

そして土曜日。

10時過ぎに優希たちが、静岡を出発するというから、その前に杉三たちは、先に製鉄所へ行って、二人を迎える準備をしておくことで合意していた。蘭は、製鉄所へ向かうタクシーの中で、とにかく偉い人なんだから、絶対に余分なことを言ってはいけないとか、水穂には手を出すなとか、一生懸命話して聞かせたが、杉三はまた、馬耳東風で、無視して鼻歌をうたっているだけであった。

水穂本人は、一応恵子さんと、青柳教授から、明日鈴木優希さんご夫妻が見えるので、体調を整えておくようにと言われていたが、正直にいうと、きついものがあった。とりあえず、前日は一日休むことに専念したが、翌日になって、二人がやってくるよと改めて言われても頭痛が取れず、かといって、口にしたら申し訳なくて黙っているしかないのだった。とりあえず、恵子さんに朝食をもらって、あとはいつも通りに寝ているしかないのだけれど、また吐き気がして目が覚める。仕方なく、布団に座り、三度せき込んで内容物を出した。出るものは当然のごとく血液なのであるが、あーあ、自分もダメになったな、なんて考えながらしばらく手についたものを眺めてしまう。幸い、ブッチャーが買ってきてくれた布団はまだ汚していないけど、これをやったら一貫の終わりと確信している。ただ、そんなことを口にしても仕方ないので、とりあえず用意された手拭いで手を拭き、来客の来るのを待った。

ちょうど、杉三たちが、製鉄所でタクシーにお金を払ったりしていると、別の方向から、一台の高級車がやってきた。それをみて、杉三たちは思ったより早く着いたんだなとかそういうことを言っていた。

「水穂ちゃん、そろそろ起きて。杉ちゃんたち、もう着いたってよ。」

と、恵子さんがふすまを開けた。ちょうど、手拭いをしまったところだった。

「あ、今日は起きれたのね。じゃあ、そのまま起きてて。なんか、お客さんたちも、道路がすいていて、早く来るみたいだから。今日くらいは、よほどのことがなければ寝ないでよ。」

「はい、わかりました。」

そういって水穂は枕もとにおいてあった羽織を急いで羽織った。いくらなんでも浴衣のままで応対するのはまずいと思った。恵子さんは、杉三たちを迎えに、玄関さきへ戻ってしまった。と同時に、

「来たよーう。ほぼ同時に到着だ。鈴木優希さんと、奥さんの裕子さんがいらしたよ!」

玄関先からでかい声がする。そうか、もう結婚していて当たり前だよな。奥さんはひろこさんか。そういえば桐朋では、結婚するのは一番遅いだろうなと予言されていたんだっけ。きっと、似たもの夫婦というか、不細工な女しか嫁にもらえないな、なんて、からかわれていたこともあったね。

「本当に迷惑はかけるなよ。あんまりべらべらとしゃべるのはだめだよ。」

蘭が注意しているが、それは余分だなとやっぱり思った。それができるんだから、思ったほど体調が悪いわけでもないのかな。

「こんにちは、どうも初めまして。いや、珍しい建物ですね。なんか典型的な日本家屋で、ある意味貴重ですよ。」

懐かしい声だ。ずっと変わってないな。

「いいえ、こちらこそ。よく言われますけど、昔はこれで当たり前でしたよ。」

にこやかに応対する青柳教授の声も聞こえてくる。

「あの、杉三さんたちから、名前は聞いていると思いますが、一応、こういうものです。」

たぶん名刺を渡したな。

「ダメ!名前くらい口に出して言わなきゃ。そんなものに頼ってどうするんだ!」

「あ、ごめんごめん。失礼しました。改めて、鈴木優希です。こちらは妻の裕子です。」

杉三に叱責されているらしい。

「へーえ、本当にかわいい奥さんって感じの人だね。なんか妻というより、先生と生徒みたいだね。一体どれくらい離れているんだ?」

「あ、12年離れてます。」

へえ、年の差夫婦か。あいつらしいな。きっと適齢期を逃して、そうするしかなかったんだろう。

「そうですか。まあ、海外ではよくある話ですよね。愛し合っていれば何歳でもいいという考えが当たり前ですから。じゃあ、おあがりください。大したものはないですけど。」

青柳教授に促されて、お邪魔しますと言いながら、全員中に入ったようだった。

「じゃあ、まだ資料の執筆があるので、すみませんが、恵子さん、案内をお願いします。」

「はい、任せてください。こちらの奥の部屋です。まあ、あんまりいっぱい入らせたら、狭い部屋だから、ちょっと入りきれないかもしれないですけど。」

まもなく、何人かの足音大合奏が聞こえてきた。

それに従って、優希と裕子も中に入らせてもらったが、優希は杉三や蘭と、割とすぐに話ができるのであるが、裕子は挨拶さえも言い出せなかった。

「かわいい奥さん、挨拶くらいしな。」

急に杉三に言われて、裕子は困ってしまう。

「あ、すみません。えーと、あの、、、。」

といっても何を言ってよいのか。

「挨拶はこんにちはで、すみませんではないんだけどな。」

杉三が、廊下を移動しながらそう言った。この人は、楽譜屋さんで会った時もそうだったけど、やっぱりハチャメチャな人という印象を持ってしまう。私の夫はなぜこういう人と平気であのとき会話したのだろうか。やっぱり、教育者だからかな?

「今度来るときは、まず初めにこんにちはで、すみませんという挨拶はするなよ。」

また杉三がそんなことを言った。

「はい、ここです。どうぞ。」

恵子さんがふすまを開けると、

「やっほ!来たぜ!ほら、喜べよ。同級生の鈴木優希さんが奥さんと一緒に来てくれたぜ!」

一番初めに杉三がでかい声でなりふり構わず部屋に入っていくのだった。全員、中に入って、すし詰め状態で座った。基本的に和室というものは、ふすまを開けると中が丸見えになるつくりになっているが、そのせいで中にいる人物がすぐにわかってしまった。確かに、予想した通りとてもきれいな人だった。でも、妖精の王子様にありそうな、強そうな雰囲気はまるでなく、自分より小さくて、どこか華奢というか弱弱しく、もっと言えば痛々しい感じの人である。

それを見た蘭は、より悪くなったなと思って、心配でたまらない表情になった。

「あ、どうも、右城君。相変わらず綺麗なまんまだな。俺のほうは、いつまでも、気持ち悪い顔のままか。」

優希が挨拶すると、

「そうですね。ちなみに、もう結婚して、右城ではなく磯野ですよ。僕からしてみても変わっていませんね。その阿藤快みたいな顔。」

水穂も覚えているようで、すぐにあいさつした。これで、蘭も初めてこの人が阿藤快みたいな顔だということが分かった。

「そうだっけね。どうしても、印象に残っているので、どうしても右城君と呼んでしまうのだが。それに敬語でしゃべらなくていいよ。どうせ、同じ学年なんだからさ。」

「まあ、実質的には、一つ年下になるんですけどね。一応法律上は同級生になりますけど。でも、ずいぶん出世されたじゃないですか。案内してくれた杉ちゃんたちから聞きましたけど、常葉学園の教授までなったとか。」

「はは、そんなお褒めの言葉はいらないよ。大学の教授なんて、どうせ何も役に立たない職業なんだから。どうせ、常葉学園なんて、音楽家の一人も作れないんだから。」

と、優希はにこやかに笑って頭をかいた。

「それよりも、右城君のように演奏家として、いろんなところで活躍できたほうがうらやましいよ。俺なんか最近は学生の指導に忙しくて、演奏のことは後回しだよ。」

「まあね、それは僕が教育現場に行けなかったからではないですかね。」

「いや、来ないほうがいいよ。桐朋なんてそう言うとこだよ。指導者を作ってくれる大学というより、パフォーマーを作ってくれる大学でしょ。そういうところだから、指導者として雇われても、何もわからなくて困ってしまうことばっかりだよ。」

「何を言っているですか、教授まで昇格できたんでしょうが。」

「いやいや、それは紙一枚書けばだれでもできる。それより、君のように、ゴドフスキーを散々演奏して、パフォーマーとして成功したほうがよほどいい。俺はただの、ピアノ好きな人間に、上っ面の稽古をしているだけで何も意味がない。」

「でも、いいじゃないですか。だって、これからの演奏家を育てる義務もあるわけですし。」

「いやあ、右城君ね、そういうのは、桐朋とか東京芸大といった、すごい大学の指導者になった人にいう言葉だよ。」

もう、優希さんの自己紹介は本当に腰が低い。いくら、音楽業界では立場が低くても一応大学の先生なんだから、もう少し堂々としてもいいのに、と裕子はいらいらしてくる。

「だけどさあ、相変わらずゴドフスキーの楽譜が本当にいっぱいあるんだな。」

優希は、ふいにそばにあった本箱を見て感心している。

「俺なんて、一冊しかないし、学生も難しすぎてほとんどの子が匙を投げる。中には無理してやりたがる子もいるけど、手首を捻挫して、全治三週間なんてなることも多いから、無理してやらせないようにしている。ほかにも今はそういう子が多いのよ。無理して大曲を弾きたがるのはいいけれど、体を壊すのはもちろん、実力がなくて、全然うまくなれない子が。もう、卒業演奏会とかひどいもんだ。もうさ、うるさいのばっかり弾きたがって、なぜかけたたましい音を立てる子が多いので、聞いていて頭が痛くなる。それに、へたくそという言葉を使えば、パワハラとか人権侵害とかそういう手段に買って出るので教えるのもすごい一苦労だぜ。」

「そうでしょうね。どこかの分野のように馬鹿者と怒鳴って、すぐにわかってくれるような学生ではないでしょう。」

「できれば、怒鳴れたらいいのになと思うよ。だって本当にさ、ショパンのバラードだって、よくやりたがるんだけど、まあテンポは速いし、打絃は強烈すぎるし、弾いているというよりたたきまくっているという感じで、ショパン本人もあんな演奏はしてほしくないのではないかなと思われるくらい、オーバーな演奏をする学生が多くて、、、。」

「それを、そういう子たちは、偉くてかっこいいなと思い込んでいるんだよね。そして、マスコミも、そういう人をかっこいいなと報じてしまうんだ。僕もさ、そういうピアニストばっかり増えて、飽き飽きしているんだ。もっとさ、中身を伝えようという人はどうして出ないんだろうね。例えば、ベートーベンがこういうことで悩んでたとか、つらかったとか、そういうことを伝えるのではなく、単に怒り狂っているところを見せるような演奏しかできない人が横行しすぎている気がするのよ。」

二人の話にいきなり杉三が口をはさんだ。

「お、杉三さんだったっけ。いいこと言うね。まさしくその通りだよ。時折コンクールの審査員を頼まれたこともあったけどさ、もうあまりにもうるさくて、採点のしようがなく、実に弱った。もうさ、やる内容もだんだん過激になってきて、まだこんなのは演奏できないんじゃないかっていう曲を、若い子が一生懸命やったりするから、それだけで演奏技術があるという同情票がついて、自動的にそういう子が上位についちゃうんだよね。」

「杉ちゃんと呼んでくれ。杉三さんと呼ばれるのは嫌だよ。それもさ、なんか学校と一緒でさ、試験でいい点とった子が、王様になれるというおかしな神話を助長しているよね。本来、音楽って、点数をつけるべきものでもないよね。」

なぜか杉三はこういう高尚な悩みに関しては、相談に乗れるのだった。

「そうだね。杉ちゃんのいう通りなら、僕みたいな人は相当な点取り屋だったんでしょうね。まあ確かに、ゴドフスキーを大量にやり続けると、演奏技術は獲得できますが、音楽性となると、別問題ですよ。それはやっぱり、古典には勝りません。」

水穂も杉三に同意した。同時に同和地区の出身者であったから、点取り屋として生きなければならないことが非常に悲しいと思った。

「だから、点取り屋だと気が付いたんだったら、今から直せばいいの。あ、そうか、だからベートーベンにはまり始めたのか。」

「そうか、それは、楽譜屋さんでも、杉ちゃんからなんとなく聞かせていたな。いいじゃないか、ぜひベートーベンも演奏してくれよ。右城君のような演奏技術があれば、難曲といわれるハンマークラビーアだってすぐにできるよ。」

杉三の発言に優希さんも口をはさんだ。

「いやいや、いくら演奏技術があっても、中身を表現することが難しいですよ。ゴドフスキーは演奏技術はもたらしてくれますが、音楽的な中身を獲得することは難しいですよ。それをほとんどやってないんですから、一から勉強しなおさなくちゃ。」

おいおい、そんな悠長なこと言っていていいのかい?と思わず言いたくなってしまう蘭。

「そうさ。俺もお前もまだ40代、これからまだまだあるぞ。」

「すみませんが、それは言わないであげてくれませんかね。」

あまりにも心配になって蘭はそう口にした。水穂の顔がさっと曇る。彼だけではなく、恵子さんも同様だ。

「あ、そうか。すまなかった。できれば、一回聞かせてもらえると嬉しかったな。」

優希は冗談で言ったつもりだったが、

「だから、無理なものは無理なんです!いい加減に彼に対して不可能なことを押し付けるのはやめてくれませんか!」

蘭は本気で受け取ってしまい、怒りの言葉を言ってしまった。

「もう、お前はうるさい。」

水穂もがっくりと落ち込んでいる。

「うるさいじゃなくて、お前もつらくないのかい。こんなこと平気でまくしたてられて!」

一生懸命心配だと伝えようとしているのに、どうしてみんなわかってくれないんだろう。

「蘭ちゃん、お茶飲んでこようか。昨日利用者さんが、実家でとれたお茶を送ってきたのよ。後で皆さんにもお出ししますから、とりあえず、蘭ちゃんは、食堂に行ってて。」

恵子さんがそういったので、蘭は渋々部屋を出ていかなければならなかった。

「お邪魔虫は消えるわ。」

なんだか吐き捨てるようにそう言った。

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