第三章

第三章

「しかし杉ちゃん、どうしてこんなに早く楽譜が買えたんだ?カールさんも、ピアノの譜面が読めるんでしたっけ?」

蘭はどうしてもそこが心配だった。というのも、カールさんが、

「いや、まあピアノの楽譜は何とか読めますか、テンペストという曲はあまり聞いたことがありません。」

と、言ったからである。だから、文字すら読めない杉三が、どうしてテンペストを探し当てることができたのか、心配で仕方なかったのである。

「だって半年待たされるよりいいじゃないか。それともその方がよかったのか?」

という杉三。本人からしてみれば、折角楽譜が買えてうれしくて仕方ないのを一気にぶち壊しにされ、嫌な気分になるだろう。でも、本当にそうなったら、なんか疑ってしまうような気がしてしまう。買ってこないほうが、正常だったような気がする。

「だけど、これはね、すぐにホイホイ手に入る楽譜じゃないんだよ。買えなくて当たり前なんだよ。いったいどこへ行ったんだよ。」

以前、ドイツにいたときもそうだったけど、彫菊師匠に師事していた弟子のなかには、趣味的にピアノが好きで何かやっている人もよくいた。でも、彼らが持っているのは大体ヘンレとかペーターズといった一般的な楽譜ばかりで、シュナーベルの楽譜に手をだすひとは、よほど専門家でない限りないよ、と、よく言っていた。いろんな出版社があるドイツでさえそうなんだから、日本ではさらにその傾向は強いのでは?

「はい、厚原に瀧澤楽譜店というところがありましてね。あそこが比較的輸入のピアノ楽譜が充実していると、以前うちにきたお客さんに聞いたことがあったんですよ。そこへちょっといってみたんです。ほら、静岡にも常葉学園大学なんかがありますから、そこに在籍している方がよく買いに来るようで、売り上げはかなりあるようです。」

と、カールさんが説明した。ああそうか。常葉学園に音楽学部があることは聞いていた。確か、いろいろ工夫していて、教育的にはかなり充実しているらしい。結構難しい曲をやらされることで有名である。

「そうだね。僕は見たことはないが、卒業演奏では協奏曲をやらないとだめとか、それくらい厳しいみたいだね。」

杉三がそう付け加えた。そういうことなら、シュナーベルの楽譜を欲しがる人も出るかもしれないな。都内の有名大学でも、卒業演奏に、協奏曲を課す大学はあまり多くない。

「そうか、そういうマニアックな楽譜を販売する店が、富士にも進出したわけね。しかし、杉ちゃん、外国の楽譜なんて、タイトルすら読めないことが多いのに、何でテンペストを見つけられたんだ?」

蘭はどうしてもそこを聞きたかった。文字の読めない杉三は、もしかしたら楽譜屋さんに怒鳴り付けて迷惑をかけていないかとか、そういう不安もあった。そうなれば、杉三本人が謝りにいくのではなく、代わりに自分がいかなければならないことは、目に見えていたからだ。

「もう、蘭。その言い方だと、僕は悪事をして、取り調べを受けているように見えるぞ。」

心配しているだけなのに、取り調べなんか言わないでくれよ。ただそれだけなんだから。僕は警官でも何でもないよ。

「水穂さんも、喜んでくれるかと思って一生懸命探したのに、何で怒られなきゃいけないんだろ。」

杉三からしてみればそれくらいの感想だと思うのだが、

「ということは、やっぱり楽譜屋さんと押し問答したりしたんだな?」

と、蘭は思わず言ってしまう。

「しないよ!なんだ、がっかりさせる方が、よかったのかよ!」

杉三もムキになってそう返した。

「まあまあ、変なところで喧嘩はしないでくださいよ。そんなことしたら、水穂さんのほうもかわいそうじゃないですか。何も押し問答はしていませんよ。確かに、テンペストを見つけるのは大変でしたけど、僕たちが困っていたら、先客としてきていたご夫婦が、一緒に手伝って下さって、楽譜を見つけてくれました。」

カールさんの説明でやっと真実が判明した。

「ご、御夫婦だって?」

「そうだよ。中年のおじさんとかわいい女の子の歳の差夫婦だったね。ちょっと気持ち悪い顔をしていたおじさんだけど、でも優しそうだった。ピアノにも詳しかったから、きっとピアニストとかそういう人だぜ。まあ、運がよかった。お陰さまで、すぐに楽譜が見つかったんだから!」

「気持ち悪い顔ってなんだよ。」

「あ、そうですね。有名人でいうと、阿藤快みたいなああいう感じかな?」

カールさんが例えてくれたので、なんとなくイメージはできた。なら、気持ち悪くはないじゃん。

「杉ちゃん、変にその人とべらべら話し込んで、迷惑をかけなかっただろうな?」

どうしてもそこを聞いてしまいたくなる。案の定、答えはこうだ。

「やっちゃいけないのか?なんか、すごい楽しかったのに。それに、迷惑だと思うんなら、もう帰るとか、口に出していうから、すぐわかる。」

だから、その理論で判断しちゃダメだよ!少しは遠慮しなきゃ!杉ちゃんにはどうしてもそこをわかってもらいたい!

それをわからせるには、同じ態度を貫くしかないと蘭は確信した。

「杉ちゃん、その人の名前とか、住所とか連絡先は?」

「はい、名刺いただきました。親切に出してくれました。」

と、カールさんが、財布の中から名刺を一枚出してくれた。蘭はそれをみて、またびっくり仰天。よくこんなに高尚な身分の人が杉ちゃんなんか、相手にしてくれた。そうなったらお礼とお詫びをたくさんしなければならないな。わあ、どうしよう、、、。

名刺には、常葉学園大学、教授、鈴木優希、と書いてあったのである。

「もうさ、君って人は、運がいいのか悪いのかよくわからない。」

もうがっくりと落ち込んでしまう。

「なんで?助けてもらったんだから、それでよかったなにとどめて置けばいいんじゃないのか?」

「あのなあ、大学の先生と言えば、相当偉い人だぞ。」

「そんなこと知らないわ。水戸黄門じゃあるまいし、印籠も何も持ってないよ。」

「違うよ。この名刺、ある意味印籠みたいなものなんだよ。」

「は?とっくに士農工商は撤廃されたのに、まだそんなこと言うの?蘭も頭古いよ。」

なにを言っても糠に釘だ。よし、具体例を示さなきゃ。そのためには、行動を示すことが大切だ。なので蘭はこう切り出す。

「じゃあ、お礼をするから、ギフト屋さんなんかに買いに行くか。その名刺の裏に住所が、、、。」

と急いで確認すると、静岡市に住んでいる人であることが分かった。

「あ、それはそうかもしれないね。じゃあ、何を送ろうか。団子とか、おはぎの季節だから、そういうものがいいんかな?」

「違うよ杉ちゃん。こういう人に団子なんて送ったら、よけいに嫌味と取られるから、タオルとか洗剤なんかを送るんだよ。」

「一番いい贈物は食べ物じゃないのかよ。」

あーあ、本当にずれているな。なんでこういう偉い人に、団子なんて贈るんだ。

「じゃあ聞くが、団子というのなら、どんなものを送るつもりなんだ?みたらし団子は絶対だめだぞ。そういう下層市民の食べ物は、こういう人は食べないよ。」

「そうだねえ、三色とか、あん団子とかそういうものは?あるいはどら焼きでもいいかもよ。あとは、そうだね、ちょっとおしゃれな羽二重餅なんかは?」

「なるほど、そういうことはわきまえているわけね。」

一応、杉三なりに理論というものはあるようなので、蘭はそれを聞き出すことも大事なのだなということを知った。

「まあね、日本人は、割と相手の身分を気にする傾向があるようですが、僕たちは自分の気持ちが伝わることを重視するので、何でもいいと思ってしまうんですけどね。」

カールさんはこのやり取りを見て、日本の文化は改めて身分というものが厳しいんだなと思ってしまった。蘭にしてみれば、こういう発言は、杉三に覚えてもらうということの妨げである。最近は、外国人も多数日本に在住しているので、いろんな人がいて社会というような、ヨーロッパ風の思想も結構はやっているが、いざという時は伝統思想のほうが勝利してしまう。つまり、どっちかに統一してもらいたいと思っても、できないのが日本の社会ということだと思った。これのせいで、迷惑しているのは誰なのか、もうちょっと考え直してほしいものであるが。

「じゃあ、今回は杉ちゃんの思想にのっとって、羽二重餅送ろうか。次は、もう少し相手の身分に応じて自分の態度を変えることを覚えようね。でないと、日本社会でやっていけなくなるよ。」

「蘭も説教臭いな。お礼なんて、相手の人にとっては、何なんだと思うけど?」

「いや、ダメなものはダメなの。そういうもんなんだよ。もう、明日すぐに和菓子屋さんに行って、羽二重餅かってさ、そのあと宅急便ですぐに送ろうね。」

そのダメなものはダメだとか、そういうもんだとか、そういう曖昧な理由が、日本で一番わからない文化だった。カールさんにしてみれば、理由がわからないのに、そういうもんだと言われても、何のことだ?としか感じられない。

「その前に水穂さんに楽譜をもっていくほうが先だよ。お礼するのはそのあと。今日はもう夜だから、さすがに今から製鉄所に行くのはちょっと失礼だからさ、明日日を改めて製鉄所に行く。」

「本当にわかってないね。善は急げと言っておきながら、礼儀は後かい?」

「当り前だい、とりあえず、最終目的は水穂さんにお渡しすることだろ。それをやってからでないと、納得できんわ。」

本当に杉ちゃんは礼儀というものを知らないんだなあと蘭は、あきれてものが言えなくなってしまった。

「そのほうがいいかもしれませんね。杉ちゃんが、あの店で、そう話してましたからね。かえって結果も一緒に送ったほうが、いいかもしれないですね。」

カールさんがそう発言した。そこで蘭は別の事実が判明したとわかった。

「何?話したの?水穂の事。」

「そうだよ。だって、その奥さんが、ベートーベンを何に使うんですかって聞いてきたから、まさか僕らが演奏するとは言えないからさ、正直に水穂さんという親友がやっていると、答えたよ。」

「はい、車いすでピアノを弾くことは、昔はまずなかったですからね。昔だったら、ペダリングの問題で、できなかったでしょうから。まあ今はたまにいるようですが。車いす用のペダルを使ったりして。でも、それはまだ普及しているとはいいがたいですからね。」

立て続けに言う、カールさんと杉三。

「だったら、楽譜渡して、水穂さんも喜んでいたことを伝えてあげたほうがいいよね。と言っても、僕に読み書きはできないので、お礼状を出すのなら、水穂さんに代筆してもらって、註釈のような形で、本人のお礼も書いてもらうようにすればいいのか。」

「おい、それだけはやめろ!杉ちゃん。」

蘭はとにかく、あいつには負担をかけてもらいたくないので、できる限り布団から出したくないのだが、杉三たちは勝手にことを進めている。

「いや、水穂さんのほうが字はうまいですよね。それに、弾く本人の書簡があってもいいのではないですか。外国人の僕もわかりますよ。蘭さんの字は、なんだか角ばっていて、固すぎますもの。」

カールさんは、表現を選んでくれたが、蘭の字は恐ろしく下手なことでよく知られていた。写経なんかすれば一目瞭然だ。かなり昔だが、京都のあるお寺で写経を体験させてもらった時に、筆の持ち方が悪いのか、緊張しすぎなのかで、なかなかきれいに書けないですね、なんてご住職にからかわれたことがある。

「まあ、それだったら、うまい人に頼んだほうがいいよねえ。人間誰でも何でもできるからいいのかって、いうもんじゃないもんな。そうじゃなければ、不平等にはしないよな。ある人は、これができて、ある人はこれができない。できないことは素直に認めて、できる人にしてもらう。その代わり、自分のできることは精一杯やってあげる。そのどこが悪いというんだよ。」

杉ちゃんの思想は本当におかしいよ。なんですぐに他人に頼ろうとするんだ。相手の人がどういう事情があって、どういう状態なので、負担になって悪いから、頼まないでおこうという配慮が全くできないんだから!

「本当に、だれでも何でもできるようになっちゃったら、それこそ大変だよ。国家壊滅の第一歩だよ。」

そういうことじゃないんだよ、そうじゃなくて、相手を尊重するというか、そういうことだよ!

「じゃあ、そうしたほうがいいでしょうね。悪いのですが、明日は着付けの予約があるので、ちょっと店に居なきゃいけませんから、製鉄所には同行できないのです。蘭さん、お手伝いできますか?」

と、カールさんがいいだした。そうだ、今日は平日じゃん!さすがに二日連続で店を休ませたら、売り上げにかかわってしまう。

「おう、そうするわ。今日は手伝ってくれてどうもありがとうね。おかげさまで楽譜屋さんにも行けたし、お目当てのシュナーベルの楽譜は買えたし、あのご夫婦にもお会いできて、今日は本当にいい一日だった。カールおじさんが手伝ってくれたおかげだよ。じゃあ、また何かあったら、頼むかもしれないけどさ。その時は、よろしくお願いしますよ。」

なんだ、カールさんには礼を言えるくせに、なんで僕には言わないんだ!

「はいよ、杉ちゃん。水穂さんによろしくな。体を大事にしてねと言っておいてな。でも、それだけじゃつまらないだろうから、体調のいいときは店にも遊びに来てくれともいっておいてくれるとうれしいな。」

「わかった。任せとけ。たぶん、こんなに早く楽譜がやってきてくれて、本人も大喜びして、お礼状くらいすぐに出してくれるんじゃないかな。」

すぐに出せるわけないじゃないか、座ってるのさえ大変そうなのに、、、。

蘭は、一生懸命反論しようとするが、

「じゃあ、明日店があるから、ひとまず帰るね。」

と、カールさんは、帰り支度を始めた。杉三も、玄関先まで見送りに行ってしまったので、一応、部屋に残っているのは、蘭一人になった。

もう、なんでこんなに杉ちゃんに言い負かされるんだろう。

蘭はテーブルの上にドカッと頭を伏せる。

実は、漠然とした不安を抱えていた。なんか、水穂のやつ、次第に自分から遠ざかっていくのではないか。そして、最終的に自分の手が届かないところへ行ってしまうのではないか。文字を変えれば、逝ってしまうのではないかということである。

本人はまだまだ先だよ、なんて言っているが、あんな状態ではすぐそこまで近づいているような気がする。だからこそ、できる限り横になってもらって、可能な限り長くこっちにいてほしいのだが、、、。杉ちゃんがああして、いろんな用事を言いつけたら、それができなくなっていく気がする。だから、あいつには手を出すなといい聞かせているのに。それどころか、本人さえもあんなに楽しそうな顔して。本当は喜ぶべきじゃないと思うんだけど。青柳教授も、恵子さんも、みんなわかってくれない。

「何やっているんだよ、お前。早く明日製鉄所に行くのに、タクシー予約してよ。」

いきなり杉三の声がして、蘭は顔を上げた。

「ボケっとしてないで、早く明日の予約とって。」

もう、うるさい!と言えたらどんなに楽だろうと思うが、そこまではできなかった。

「わかったよ杉ちゃん。もう本当に、礼儀もなにも知らないんだな。」

一言それだけ言って、蘭はタクシー会社に電話した。会社では、形式的に挨拶をしてくれて、明日の九時にお宅へ伺いますと、返事があった。

「あのな、帰り際にカールさんが言っていたけどさ。」

電話を切ると、杉三が又いう。もう、これ以上機関銃みたいなおしゃべりはしないでよ、と言いたいが、それすらいう気力もない。

「カールおじさんのご先祖は、もう収容所へ行くのが決まってしまったときは、せめてこっちにいるときは明るい思い出をたくさん作ろうと思うしかないと、考えていたそうだぞ。」

いきなり藪から棒に何を言うんだと思ったが、収容所へ行くというのは、即ち、カールさんたちにとっては、この世とさようならをすることになるということであるので、ああなるほど、そういうことか、というのはわかる。つまり、水穂さんもそう考えているのだろうから、好きにさせてやれ、というのが、カールさんのアドバイスだったのだと思うが、蘭はどうしてもそれは納得できなかった。

「まあねえ、確かにカールさんたちはそうだったかもしれないね。でも、オスカー・シンドラーとか、杉原千畝みたいな人を頼って、何とか生きようとした人だっているんだから、僕としたら、そっちのほうが余程強いと思うよ。」

「まあ、そうかもしれないけどさ。無理なものは無理だと思って、あきらめたら?」

「杉ちゃんさ、なんでそういうことには、無関心なんだ!」

思わずでかい声で怒ってしまう蘭。

「いくら、不安に思ったって、できないものはできないと思うよ!」

杉三も負けじとでかい声で言った。

「杉ちゃん、悲しくないのかい?」

蘭は思わず聞いてみるが、

「知るか、そんなもん!できないのはしょうがないじゃないか!おそらく教授も恵子さんもそれを踏まえて、態度を変えないんじゃないかな。」

と返ってくるのだった。

「カールおじさんは、収容所行きよりいいことだから、あんまり蘭さんは気に病み過ぎないようにと言っていたよ。そう考えるようにしろって。もうさ、こういうことなんだから、それについてくよくよ悩むことはやめたら?」

まあねえ、収容所行きというのは、文字通り強制だし、逆らったら大変なことになりかねないので、確かに決定してしまったら、もう世の中をあきらめて明るく過ごそうと考えても、不思議なことではないが、そういうことではないのだし、、、。

しかし、それよりましだと考えろなんて、カールさんもひどいことを平気で言う人だ。いくら、そういう経験した人を知っているとしても、今の僕と同じことにはしないでくれ!

「もういい。明日、製鉄所に頼むよ。」

本当は行きたくないよ。と声に出して言えたらと思わずにはいられない蘭だった。杉三は、ごめんねと一言だけ言って、静かに帰って行った。

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