第19話 ご褒美(3)


 甘い桃のような匂いがする……。


 目を開けると、澄んだ青い瞳が、仰向けに倒れた私の顔を覗き込んでいた。

 慌てて起き上がる。


「ご、ごめんなさいっ! 部屋の中に誰がいるのか気になってしまって……」

「フフッ。いいのよ。気にしないで。私も話し相手が欲しかったの。貴女が来てくれて嬉しいわ」


 絶世の美女。

 そう言ってもおかしくないほどの女性が、そこにいた。

 彼女には少し大きいように見える真っ白な衣装から、透き通るような白い肌が覗いている。

 ほっそりとした首筋。そこに掛けられた虹色に輝く美しい領巾ひれが、自らの意思を持つようにフワリフワリと宙を舞っていた。

 頭の後ろでまとめられたつややかな黒髪がしゃらりと揺れる。

 まるで天女が羽衣はごろもまとっているかのようだった。


 彼女が、「こちらに来て座りなさいな」と私に手招きをする。

 白いロココ調のテーブルと椅子が白いもやの中に隠れるように浮かんでいた。

 靄が、部屋全体に充満し、床も壁も天井も一切が見えなかった。


 ここって、室内……よね?

 それとも平安宮の外に出ちゃったのかしら?

 あの複雑怪奇な建物は、外への扉がどこにあっても不思議ではなかった。

 もしかしたら本当に外に出てしまったのかもしれない。

 トイレ掃除がまだ残っているし、早く戻らなくちゃ。

 そう思いながらも、このまま立ち去ってしまうのは申し訳ない気がした。

 少しだけならと、もやを掻き分けテーブルに近づくと、彼女の向かいの椅子に腰を下ろす。

 その時を待っていたかのように、私の目の前にティーカップが差し出された。

 林檎の甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 口に含むと、林檎の甘さと紅茶の渋味が程好く混ざり合い、不思議と心が落ち着いた。


「貴女は、新人さん?」

「あ、はい。昨日入社したばかりです」

「あらまあ。じゃあ、これから覚えなくちゃいけないことが沢山ね!」

「はい。まだまだ山ほどあります」

「フフフ。素敵ね」


 微笑んだ彼女は、とても若く見えた。

 アラサーくらいかしら?

 彼女が、テーブルの上に置かれた丸い木の器に手を伸ばす。スティック上の何かをつまみ上げ、口に入れた。


「こうやって誰かとお話をするのは本当に久しぶり。でも、あまり引き留めるのはよくないわね。ねぇ、また来て下さる?」

「あ。はい。よろこんで!」

「フフフ。嬉しい。そんな貴女にこれを差し上げるわ。友情の証」


 それは、繊細な彫刻が施されたとても美しい髪飾りだった。

 かんざしとバレッタを組み合わせたような形は、マジェステに似ている。

 素材本来の細かな木目状の縞模様と、落ち着いた温かみのある色合いは、とても高価なものに見えた。


「い、いえ。そんな高そうなもの、受け取れません」

「受け取ってちょうだい。これは誰にでも渡せるものではないの。貴女にはその資格があるのよ」

「は、はい」


 私に資格があるようには思えない。

 ただ、無下むげに断るのは悪い気がした。

 受け取って、部屋のどこかに大切に保管しておこう。


「どこかに大切にしまっておいたらダメよ。ちゃんと身に着けてね」


 う……。

 先回りされてしまった。

 こんな高そうなものを身に着けて、もし落として壊しでもしたら……。


「フフフ。また会えるのを待っているわ」

「あ、はい。では失礼します」


 白い靄の中にたたずむドアを開けると、平安宮の廊下が見えた。

 ドアを閉め、残り二箇所のトイレ掃除へと戻る。

 残りの掃除は、つつがなく終わった。


 終わった~!

 やっと晩ごはんにありつける~!

 何にしよっかな~。

 菊露ちゃん、もう食べちゃったかな?

 一緒に食べたいな。

 ごっはん、ごっはん、晩ごっはんっ!


 すっかり頭から髪飾りのことは抜け落ちてしまった私……。

 翌日、この髪飾りが大騒動を生むことになるとは知る由もなかった――。

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