一章 3

 自分の周りに人が居る。

 話しかけられ、話をする。楽しい雰囲気。

 いつまでもこんな時が続いて欲しい。そう願う。

 いつまでも?いつまでも続いて欲しいなんて願ったことが、自分にかつてあったのか?

 カズマは目を覚ました。よく見る夢だった。引いていく潮のように、夢の感覚が頭から零れ落ちていく。

 いつものことなので、カズマはすぐに頭を切り替えて、朝の支度を始めた。

 その日は、病院に行く日だった。外は雨だったけれど、カズマは雨が嫌いではなかった。雨の音が好きだ。雨のホワイトノイズは耳に馴染んだ。

 病院へは電車で一時間ほど掛かった。海岸沿いに建てられていて、病院の窓から海が見えた。

 受付を済ませて、待合用の椅子に座る。近くに居た高齢の女性が、手を伸ばしてこちらに何かを訴えかけてくる。カズマは少しの笑みを作って、女性に向かってゆっくり頭を下げた。

 順番が来たので、カズマは扉を開けて診察室に入った。

「失礼します」

 いつもの通り椅子が二つあったが、ドクターに近い方の椅子を選んで座る。鞄を傍に置いた。

「こんにちは、お待たせしました」

 ドクターが言った。カズマも挨拶する。

「こんにちは」

「調子はどうですか?」

 ドクターは少し目を伏せてカズマに尋ねた。

「特に変わりは無いです。夜も、よく眠れています」

 カズマはドクターの顔を見て言った。ドクターと目が合う。すぐにドクターはカルテに視線を落とした。

「お仕事でご無理をなされてはいませんか?」

 再びドクターと目が合ったが、今度はカズマの方から視線を外した。

「仕事にも慣れてきたので、そういったことはないです」

「仕事は、慣れる前が一番大変ですが、慣れた後には、仕事の量が自分の意志とは無関係に増える…、増やされることがありますから…、ストレスがかかり過ぎないように気を付けて下さい」

 ドクターはカルテに書き込みをした。

「不安感やイライラすることはありませんか?」

 想定していた質問だったので、カズマはすぐに答えた。

「時々ありますが、頓服がよく効くので大丈夫です」

「そうですか。頓服は足りていますか?」

 ドクターは処方箋を確認した。

「今のところは足りています」

「分かりました。お薬はそのままで行きましょう。次回は…、二週間後の同じ土曜日で良いですか?」

 ドクターは、パソコンで外来患者の予約を確認しながら尋ねた。カズマはデスクに置いてあるカレンダーを見た。

「はい、大丈夫です」

「時間はいつも通り十時でお願いします。お大事になさって下さい」

 カズマはドクターから、予約の日時が書かれた小さな紙を受け取った。

「ありがとうございました。失礼します」

 カズマは鞄を持って診察室から外に出た。

 先ほどの女性が、付き添いの者に何かを話しかけていた。カズマは視界の端にそれを捉えて、少し安心して会計に向かった。

 会計を終えて、ふと、海を見に行こうかとカズマは思い立った。病院の外に出て確認してみると、雨はほとんど止んでいた。

 海の方へ向かいながら、最後に海を見たのはいつだったろうかと、カズマは過去を思い返した。高校の頃、友達と一緒に海水浴に行ったことと、大学のゼミの合宿で島に行ったこと、新卒で就職した会社の研修で乗ったバスから海が見えたことを思い出した。

 通りをしばらく進んでいくと、建物が無くなって、視界が一気に開けた。潮の臭いはだいぶ前から感じていた。

 砂浜に辿り着いて、靴で砂を踏み締めた。裸足になってみようか、という思い付きが生じたけれど、帰りが面倒になるので、裸足にはならなかった。

 波と水平線を眺めていると、雨が降って来た。カズマは持っていた傘を広げた。それなりに強い雨だった。雨の音と、波の音が重なって聞こえてくる。

(ああ、そういえば…)

 カズマはカメラが無いことに気がついた。海に来ることはついさっき決めたことだから、それは仕方がないことだった。

(カメラが無くても…)

 カズマは、瞬きでシャッターを切って、目の前の空と海を頭に刻み込んだ。自分がここに見に来なくても、空も海も、変わらずここにあっただろう。ずっと前からそのままだし、たぶんこれからもずっとそのままだ。そんな当然のことを、カズマは改めて考えていた。

 何かの音が聞こえた。音の方に目を向けると、少し離れたところで、小さな子供が砂浜を歩いていた。透明なレインコートを着ている。

 子供の周囲を探してみると、傘を差した母親らしき女性が、砂浜と道路の境に立って子供を見守っていた。

 子供は、母親の方を時々見ながら、波打ち際を歩いている。すると、少し強い波が来て、子供の足元が波に呑まれ子供は転んでしまった。カズマは思わず声を上げそうになった。

 子供は砂浜に座り込んで泣き出した。母親が慌てて子供の方に向かい始めた。母親が子供のもとに辿り着くまで、カズマは二人を見つめていた。

 子供はなかなか泣き止まなかった。波と雨の音に、子供の泣き声が加わっていた。

 涙の味は海の味に似ていることと、人間は声を上げて泣くことがあることをカズマは思い出した。

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