夢幻なる時の流れ

序幕    新たな一日の始まり



 息を大きく吸い込み、久遠くどう悠真ゆうまは上半身を素早く持ち上げていく。

 全身から汗がき出ているのが、見なくてもわかった。激しく肩で息をしながら、まるで水でもびたかのような首筋に腕をわせ、汗を雑にぬぐい捨てる。

 ぐっしょりとした黒いシャツが肌に張りついており、少しばかり気持ち悪い。

「……くそっ。またあの夢か」

 まだ朦朧もうろうとする意識をかかえたまま、悠真はベッドから両足だけを降ろした。

 れた黒髪に指を通し、頭を強めにでる。ゆっくりと呼吸を整え、真正面にある硝子がらすまどに視線をえた。陽光ようこうし込んでおり、寝起きの目には少しまぶしい。

 悠真は木製の床に向かって、深い溜め息を落とした。


 前屈まえかがみの姿勢をたもち、しばらくぼんやりとする。無理な姿勢に少し疲れ、背後へと両手を回してベッドに寄りかかった。不意に、右手から奇妙な感触が伝わってくる。

 とても柔らかく、どこか女体を思わせる手触てざわりに感じられた。

「あぁ……あ、んっ! だ、めっ……」

 女の嬌声きょうせいが耳に届き、悠真のほおが引きつった。

 おそおそる、悠真は後ろを振り返る。つやのある紅色べにいろの長髪を、ツインテールに結ったエレアノール・エヴァンス――エレアと呼んでいる少女が、そこにはいた。

 理解不能な事態に、悠真の体が完全に停止してしまう。

 時が止まったとすら錯覚さっかくする空間の中で、必死に現状の把握はあくをする。


 エレアは非常に整った顔立ちをしており、普段はりんとした印象をかもしている。今は眠っているせいか、どこか少女らしい顔つきになっている。

 彼女の左目の下にある黒子ほくろを少し眺めたのち、悠真は視線を横に流した。

 黒と赤を基調きちょうとした学生服――やや短めのスカートの下には、ニーハイソックスを着用している。おまけに黒革のロングブーツも、ご丁寧ていねいいたままであった。

(なんで……こいつ、土足なんだ?)

 視線を顔に戻したとき、エレアが重そうなまぶたを持ち上げていく。

 かすかにうめきをあげ、エレアは目許にそっと手の甲を乗せた。そして小さな欠伸あくびを漏らした彼女もまた、石化の秘術でもかけられてしまったかのように硬直する。


 ほどよい大きさの乳房ちぶさに手を置いたままの悠真に、静かな混乱こんらんが降りそそいだ。

「は……?」

「ん……?」

 目許をかくした手の下にあるせま隙間すきまから、金色こんじきの瞳が流れ落ちていくのが見えた。悠真が手を置いた胸元のほうに、彼女の視線は向かっている。

 ほどなくして、その静寂せいじゃくは破られた。

「き、きゃあぁあああああ――っ!」

 耳をつんざ甲高かんだい悲鳴に、悠真は耳をふさぎながらあわててベッドから飛び降りる。

 ベッドのきわにある壁を背にして、エレアはあたふたとけ布団をかき集めた。


 抱き締めるように掛け布団で体をおおったのはいいが、そのせいで短めのスカートがめくれてしまい、きめ細やかでなまめかしい肌の太ももがあらわとなっている。

 光景のみを見れば、女としての色っぽさがかなり浮き彫りとなっていた。十八歳と年頃としごろの悠真からすれば、無条件に欲情的な意識が芽生めばえてしまう。

 悠真の心音が速まる中、エレアはほおどころか耳の先まで紅葉もみじ色に染めていた。

 金色の瞳を涙でうるませ、憎悪ぞうおのこもった眼差しでにらんでくる。

「お、おお、お、おぉ、お前! 私の体に何しているのっ?」

 単純に、自室で眠っていただけのはずであった。ここが本当に自分の部屋なのか、悠真は錯乱さくらんしながら周囲を見渡していく。


 八畳一間の空間には、箪笥たんすや本棚、食事や勉強をする背の低い机など、自分が店を巡って買いそろえた物であふれ返っていた。

(え? 俺の部屋、だよな?)

 そうとしか思えないが、エレアといった非日常的な存在が半信半疑にさせる。

「お前は、いつもそうやって、私の意識がない間に、体にふれれて……この変態!」

 途切とぎれ途切れに言葉を吐き、エレアは最後に罵倒ばとうしてきた。

 悠真はまた汗でれた黒髪に指を通し、今度は自らの頭をかかえる。

「いや、ここは俺の部屋、だよな?」

 かろうじて声を絞り出すと、妙な沈黙が場に落ちた。


 状況は完全に理解不能だったが、悠真はわれを取り戻していく。

 エレアはちゅうに視線をただよわせたのち、さっと布団にくるまって身をかくした。

「お、お前が何しとんだぁああ! つか、てめぇ、なんで土足なんだよ!」

 さわやかであるはずの朝に似つかわしくない声で、悠真は腹の底から怒鳴どなった。

 エレアがのぞき見るように、け布団を少し下げた。その姿はどこか、小屋の中からにらんでくるハムスターを連想させる。

「そうね。確かに、寝台ベッドの上で土足は失礼だったかも?」

「そこじゃねぇよ! いや、それもだが、この部屋自体が土足厳禁げんきんだ!」

「はあ? 部屋まで土足厳禁って、どういう神経しんけいしているのよ」


 エレアの言った通りでは、変に思われるのだろう。しかし地球の日本生まれ日本育ちの悠真からすれば、これは至極しごく当然なマナーでしかない。

 ここはと呼ばれる、地球と異なる世界だ。とある事情じじょうから、闇の精霊王ガガルダがきんじられた古代の秘法をもちい、こちら側の世界へ選択の余地よちなく、悠真をなかば強制的に召喚しょうかんした。その事情とは行方ゆくえ不明になっていた父親がからんでいる。

 地球での事故が原因で、父親は今から数百年前のネクリスタをおとずれていた。地球に帰るすべを追求したが方法は見つからず、戦争で命を落とす結果となったらしい。

 この禁じられた古代の秘法と呼ばれる、世界と世界をつなぐ道は一度しか進めない。二度ともなれば、魂がちりして消滅してしまうからだそうだ。


 特に未練みれんはないものの、悠真の内情がどうであれ――父親と同様、悠真も地球には二度と戻れない状況になっていた。だから、こちらの世界で生きていくほかない。

 不思議な力にあふれたこの世界には、異なる世界なりの生活方法というものがある。たとえそうであったとしても、自室ぐらいは住み慣れた空間であるほうが落ち着く。

 そのために、いろいろ苦心くしんして日曜大工みたいなこともやってきた。

 悠真は片手を腰に置き、わずかに前のめりの姿勢でエレアを指差す。

「すぐ脱げ! 今すぐ、それを脱げ!」

「なっ、お前、本当に頭がおかしいのっ? 私を、裸にさせるつもり……?」

 冗談じょうだんで言っているわけではなさそうだった。エレアも相当混乱こんらんしているようだ。


「いや、服までじゃねぇよ! ブーツだ、ブーツ!」

「あ、あぁ……革靴ブーツの話ね。驚いたわ」

 くるまった布団から出たエレアが、ベッドから両足を降ろした。膝下ひざしたまである黒革くろかわのロングブーツを、手慣れた手つきで脱いでいく。

 本能に近い状態で、自然と彼女のまたに視線が向かう。

 正直、容姿のみで見れば、エレアの女としての魅力みりょくは相当レベルが高い。それこそ地球のトップ女優ですら、引き気味ぎみになるほど美人だと思える。

 二つ年下の容姿が美しい彼女の行動を、なか茫然ぼうぜんとした意識で見つめた。

 初めて出逢ったころ、しばらく見惚みほれていた記憶がよみがえる。


 悠真は雑念ざつねんを振り払い、玄関口にある靴を脱いでおく場所を指差した。

「それ脱いだら、そっちへ置いてこい」

 悠真が住んでいる商業都市には、日本に近い構造をした部屋がない。少なくとも、探した限りでは見当たらず、どこもベッドや風呂場以外は土足があたりまえだった。

 だから簡易ではあるものの、沓脱場くつぬぎばを自作するはめとなったのだ。

 ロングブーツを脱ぎ終えたエレアが、指示しじされた場所へ向かっていく。

 次に悠真は、背の低い机の辺りを指差す。

「置いたら、ちょっとここに座れ」

 エレアはロングブーツを置き、そして背の低い机にどさっと腰を下ろした。


 悠真はぎょっとして、わずかに肩が跳ねる。

「ちょ、おま、馬鹿ばかかよ! 本当にそこへ座るやつがあるか。手前に座れって!」

「どうして椅子の前に座らせるのよ?」

「椅子じゃねぇよ! それは机だ、机!」

 いぶかしげな面持ちで、エレアは小首をかしげる。

 椅子と勘違かんちがいされた木造の机は、もともと背の高い机だった。最初から希望通りの机が手に入ればよかったのだが、そう上手うまく思い通りにはいかない。

 あきらめたすえに背の高い机のあしを切りそろえ、わざわざ短くするしかなかった。

「ちょっと、私を床に座らせる気?」


「だから、そうやって座っても平気なように、俺の部屋は土足厳禁げんきんにしてんだろ」

「……変なの」

 エレアが不満げに腰を下ろした。背の低い机をはさみ、悠真も胡坐あぐらをかいて座る。

「で、どうやって入ったんだ、お前。ちゃんと鍵は閉めていたはずなんだがな」

「ここの家主に伝えたら、普通に貸してくれたわよ。ほら」

 エレアが鍵を揺らして見せつけてきた。悠真は奥歯をみ締め、拳を固くする。

(あんのくそじじぃ! あとで耳にたこができるまで言い聞かせてやる!)

「それにしても、なんというか……すいぶん、ひどい場所ね。お前、闇の精霊王からの贈り物を手放さなければ、もっといい暮らしができたんじゃないの?」


 まじまじと周囲を見回しているエレアを、悠真は頬杖ほおづえをつきながら眺めた。

「これでいいんだ……じゃなくて、お前マジで何しに人の部屋にもぐり込んだんだ」

「ちょっと折り入って、悠真に頼みがあって来たの」

 悠真は身をらせ、エレアを半眼でにらんだ。

「なんで頼み事をしに来たお前が、俺のベッドで寝てんだよ」

「何度も起こしたのに、悠真が全然起きないからでしょう。そうしている間に、私も眠たくなって……つい」

「つか、何時に来たんだ」

「六時ぐらいかな」


 悠真は時計を見て、現在の時刻を確認する――七時十五分ごろだった。

「俺が起きた一時間前ぐらいじゃねぇか。ほぼ即寝かよ」

「事情があって、眠気を押してでも来たからよ」

 エレアにわるびれた様子は一切なかった。これには、悠真も苦笑するしかない。

「まあ、なんにしても断る」

 一瞬だけ唖然あぜんとした顔をして、エレアは驚愕きょうがくの表情で机に身を乗り出した。

「まだ何も言っていないじゃない」

「どうせ厄介事やっかいごとに決まってんだから、断る。ああ断る。絶対に断る」

 エレアはくやしそうに歯ぎしりをした。


 ほんの少しして、今度は思いついたように真剣な眼差しへと転じる。

「……お前に断る権利なんかあるわけないよね? だって、この私の胸をいやらしく揉みしだいたんだから。これがおおやけになればどうなるかわかる? 死刑確定よ」

「はっきり言っておくが、俺にまったく責任はないぞ。逆に、ひとり暮らしの男の家に勝手に上がり、ベッドにもぐり込んだお前のほうが責任を問われると思うがな」

 エレアは机の表面を両手でたたいた。

「本当、小さい男ね! つまらない話を、ぐだぐだぐだぐだと」

「小さくねぇよ! なんなら衛兵えいへい沙汰ざたにしてもいいぐらいの事件だっつぅの」

 エレアは腕を組み、憤慨ふんがいした顔を横にそむけた。


 重い溜め息をついた悠真は、自然と深く肩が落ちる。

「まあ、話しぐらいはちゃんと聞いてやるよ。頼み事ってなんだ」

「断られるのに話すわけがないでしょう」

ねんなよ。いいから言えって」

 エレアの凛々りりしい眼差しに、真面目さが宿った。

「ちょっと、私の両親に会ってくれない?」

「え、はあ?」

「悠真をちゃんとした形で紹介をするから、私の家族に会ってくれない?」

 補足が加えられたエレアの発言は、悠真に茫然ぼうぜんたる意識をもたらした。


「やっぱり、きちんと紹介しておくべきだと思うの。ちょうど家族が……商業都市に集まっているから、今日の昼にでも一緒について来てよ」

「ああ、うん、そうだな……」

 悠真は、自然と虚空こくうを眺める。

「やっぱり、事前に断っておいて正解だったな」

 にっこりとした笑みを作り、悠真は小首をかしげて見せた。

「じゃあ、そういうことだから帰ってくれ」

 じっとりとした半眼でにらんでくるエレアが、顔を横にらした。

 そして唇をとがらせながら、小声でつぶやく。


「家に連れ込まれて胸をさわられた挙句あげく貞操ていそうも奪われたって言ってやるから」

「その〝事故〟以外は、あからさまに事実無根むこんだな」

 エレアが冷たい目をして、短く鼻でわらう。

「王国の騎士団であり、王の切り札でもある父がそれを聞き、それで済むかな?」

おどしかよ!」

「シャルとアリシアにも、あることないこと言いふらしてやるから」

「あ、お、おまっ、きたないぞ、てめぇ!」

 にっこりと微笑み、エレアは可愛かわいらしく小首をかしげた。

「じゃあ、ちゃんと一緒に来てね」


 悠真はほおを引きつらせる――ただただ、いやな予感しか感じられない。

 そんな、清々すがすがしくはない朝となった。



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