12.ファラオ、むこ殿をぎゅっと抱きしめる



 顔が熱い。

 自分のやらかした大胆すぎる愛の告白に、恥ずかしくて死んでしまいそうだった。


 でも、でも。


「あの、ティズ様……?」


 彼は頬を赤らめたままこちらを見る。


「ごめんなさい、その……私、あなたに告白したかったのではなくて……イシュ殿とのことを謝りたかったんです……」


「なんのことですか?」


 ティズ様はきょとんとしていた。


「いや、ですから、私がお二人を引き裂いたことを……」


「そんなこと、最初から知ってましたよ?」


 え?


「いや、知っていたというか、推測できたというか……」


 ええ?


「だって当然でしょう? 黒土国ケメトのような大国が、婿を取るのにその素性を調べないわけがないですし」


 ティズ様の話す調子は淡々としたものだった。


「そば近くにイシュという女性がいることも調べあげた上で、あなたが俺を婿に選んだのだと理解してました。彼女は実家もありませんし、俺は……彼女以外の女性と特別親しくもなかったですから。そういうところが面倒もないと判断されたんだと思ってましたね」


 彼は小さく息を吐く。


「だから、婿入りする前、俺は黒土国ケメトファラオというのは、冷然とした女性なんだろうと思ってました。国の益のみを求めて婿を選ぶようなお方なのだと……だから」


 ティズ様はちょっと顔をそらして咳払いした。耳もまだ赤い。


「俺のことを……その……好いてくださって、婿に迎えたのだと言われると、あの……さすがに驚きます」


 そんな風に言われて、私はどう答えていいのか分からなくなってしまった。


 ティズ様は、ぽんぽんと自分の隣を示した。


「どうかお座りになってください。お疲れでしょう?」


「いえ、その……」


「俺も話したいことがあるんです」


 決して強い調子ではないけれどはっきりと促され、私は彼に従った。


 たいして大きくもない長椅子に腰を下ろすと、ティズ様の気配が近い。


「アルシノエ様、あなたが率直に話してくださったから、私も胸の内を語りたいのですが」


 もしかしたら、あなたを傷つけることになるかもしれません、と彼は前置きする。


 そんなことはもちろん構わないわ。だって、あなたを失う覚悟で話をきりだしたのだもの。


 深くうなずいた私に、彼ははっきりとこう言った。


「俺にとって、イシュは大事な女の子でした」


 私の目を見る彼は、オリーブの瞳に深い色をたたえていた。


「ただ、恋人というわけではなかったのです。少なくとも肌を寄せ合うような関係ではありませんでした。彼女はずいぶん幼かったですし――俺はイシュを大事にしなきゃいけないと思ってましたから」


 彼は遠くの空を見上げた。


「確かに、あなたがおっしゃるように、イシュとの離別はつらかった」


 何事かを思案するように、ティズ様が黙った。

 そして不意に口を開ける。


「……そうですね、もし黒土国ケメトに来た直後にあなたに先ほどのように謝られてしまったら、俺は故国に帰ろうとしたかもしれません」


 でも、と言ってこちらを見るティズ様のお顔がゆがんでにじむ。

 大きな手が私に伸ばされた。


「泣かないでください、アルシノエ様」


 彼の指先が私の頬をぬぐう。


「今の俺は、あなたのそんなお顔を見るのが耐えられないんです」


 彼は私の正面で片膝をついた。私の手が強く握られる。小さく鼻をすすって顔をあげれば、どこか狂おしげな瞳で私を見つめる彼がいる。


「結婚してまもなく一年が経つでしょうか? 正直に申し上げて、当初の私は婿としての責務を果たすべく、そのためだけにファラオにお仕えするつもりでした。けれど、あなたのおそばに置いていただくうちに、だんだんとあなたのことを知っていきました」


 ふっとティズ様が笑う。


「メジェド君に策を与えられて、アルシノエ様の寝室に忍びこんだりもしましたね」


 ――病床のあなたを見舞った時に、初めてあなたを可愛い女性だと思ったんです。


 ――寝台に押し倒して怖がられたこともありましたね。でも、そのおかげでたくさんお話しすることができるようになった。


 ――舟旅では、あなたの繊細な思いやりに触れました。それに、民や兵に対する毅然としたお姿は格好よかったな。


 そして彼は紅玉ルビー首飾りネックレスを取り出した。


「これをいただいた時、私がどんなに嬉しかったか、分かっていただけるでしょうか?」


 彼が語るこの一年。

 私にとってきらきら輝く宝物のような、ティズ様と過ごした一日一日。


 ティズ様の心にも、ちゃんと大切にしまわれていたんだ。


「先をこされてしまいましたけど、俺にも言わせてください」


 涙の止まらない私をのぞきこんで、ティズ様が笑う。


「舟旅の頃には、もうあなたが愛おしかった」


「……ティズ様」


 間近にせまるオリーブの瞳に、私の姿が映っている。

 もうこの瞳の中に完全に囚われてしまったわ。


「アルシノエ様、愛しています」


 なんと返していいのかわからない。

 どんな顔をしていいのかもわからない。


 でも、やっぱり。


 ――私、この人が大好きなんだ。


 心の奥の奥。

 自分でもふれられないところ。自分でもどうしても制御できないところ。

 そのやわらかいところから、気持ちがあふれて止まらない。


 あなたが好き。大好き。


 それだけは、どうしたって変わらない。変えられないわ。


 彼の手にひかれて二人で立ち上がった。

 しっかりと両足で立って、彼と見つめあう。


「ティズ様……本当に、本当にそう思ってくださっているんですか? 本当に私でいいんですか?」


「この間まで他の女性のことばかり見ていたのに、軽い男だと思いますか?」


「ち、違います!」


 また涙があふれてきた。それを見てティズ様が慌て出すので、やっぱり泣いちゃダメだと自分を励ました。


「でも、イシュ殿のこと……」


「じゃあ……俺の心の少しを彼女に割くことを、許してくださいますか?」


 私の手を握りながら、彼は続ける。


「彼女は乙女薔薇ピンクローズを俺に贈ってくれたのです。その花言葉をご存知でしょうか?」


 首を横に振る。答えを聞くのが怖いような気がしたけど、ティズ様の表情は屈託なく晴れやかだった。


「『』ですよ。俺にこの国で幸せになってほしいと、イシュも応援してくれている。その気持ちを、受け取ってもいいでしょうか?」


「“どうぞお幸せに”……」


 その言葉を知って、涙なんて枯れるほど圧倒されてしまった。


 美しいあのひとは、私なんか及びもしないくらいにしなやかで格好いい方なのだ。


 愛する人を、『どうぞお幸せに』とここに送り出した、彼女。


 同情していたことが、失礼な気さえしてきた。


 私、油断してたら、彼女に負けてしまうわ。


「故国での離別は辛かった。その離別を招いたのが黒土国ケメトファラオ――あなた様だということも知っていた。そのうえで、あなたのことを愛しく思うようになったんです。だから、俺の気持ちを信じてくださいませんか……?」


 かしこまって話し出した彼の言葉を、私は最後まで聞けなかった。


「あ、アルシノエ様……?」


 私は彼の胸に飛び込んだ。狼狽ろうばいしたようにティズ様が両腕をあげる。


 ぎゅっと強く抱きしめた。

 絶対に失いたくないから、誰にも渡したくないから。


「信じるとか信じないとか、そんなこと関係ないんです……私がティズ様のことを大好きだっていう、それだけなんです……」


 胸もとに顔をうずめると、鼻先を彼のにおいが刺激する。汗のにおいが混じったような……でも、とっても心地よい香り。


 もう、それだけで、どうにかなってしまいそうだ。


 それなのに。


 ティズ様も私を包みこんでくれた。


 長い腕が私の背に回される。ひどく優しい力で、私は抱きしめられている。


 耳もとで、どこかほっとしたような吐息を感じた。


「アルシノエ様がさらわれた時、生きた心地がしませんでしたよ……」


「す、すいません」


「それに、あなたに嫌われてるんだと思って傷ついていたんですからね」


 あ、そうか!

 そうだったわ! 私、イアフにおびえてティズ様を遠ざけていたから。


「ごめんなさい、それには事情が……!」


 顔をあげると、ティズ様はねたように口を結んでいた。


「その事情というのはイアフメス様ご本人と黒犬神アヌビス様に聞きました。まったく……」


 彼は私の頬を両手で包んだ。お顔が近い。もう拒む必要はないんだと分かっていても、胸が苦しくって逃げたくなってしまう。


「なんで俺はあなたに守られるだけの夫だと思われていたんでしょうか? そんなに頼りなかったかなぁ」


「ち、違います……!」


「自分が情けなさすぎて参っちゃいますよ」


「違いますってば!」


 ど、どうしよう、そんなつもりじゃなかったのに! 頬を捕えられたまま必死で否定しても、彼の表情は変わらない。


 冷や汗をかくうちに、こつんと彼が額を寄せる。


 額と額が触れ合って、私はもう少しも身動きができない。


「じゃあ、これからは俺のことを頼ってくださいますか?」


「……はい」


「あと、どうしても言いたいことがあるんですけど」


 え、なに? そんな怖い顔でどんなことを?


「これからはアヌビス様や白兎神ウヌヌ様と一緒のお部屋で寝るのをやめてくださいませんか?」


 ……え? な、なんでかしら?

 返答につまっていると、ティズ様に大きなため息をつかれてしまった。


「俺以外の男の近くにいないでほしいんです! 言わせないでくださいよ!!」


 あれ……?

 こういう気持ち、私も知ってる。もしかして―― 


 ティズ様がまた頬を真っ赤に染めている。

 私も全身の体温がまた一段と上がっていくのを感じた。


「まぁ……これからは俺がアヌビス様を追い出しますけどね」


「え? あの……それは……」


「嫌われてないと分かったら、もう遠慮はしませんよ。覚悟してくださいね」


 そう言い切った彼の唇が、返事なんて待たずに、私の唇を塞いだ。


 もうなんにも考えられなくなるくらいに――


 甘くて、優しくて、体の芯が溶けてしまいそうなほど――熱い接吻キスだった。



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