10.ホルス、邪神と死闘を繰り広げる



 天井の高い石牢の中、邪神セトが闇に紛れて浮かんでいる。


「まったく面倒な話だ。さっさと太陽神ラーが出てくればいいのに、結局また息子と戦わなきゃいけないとはね」


 セトは突き出た口でため息をつく。その臭い息を吹き飛ばしてやろうと、俺は翼を大きくはためかせた。


 そう俺は炎の隼神ホルス! かつてこの忌まわしき邪神をしずめた、神界最強の男!!


「はっはっはっはっ! そう簡単に父上ラーが出てくると思うな!」


「そうだ。お前なんぞ俺たち二人で十分だ!」


 おぉ、今日は黒犬神アヌビスも殺気だっているな!

 いつもはちょっとばかしスカしているこいつも、アルシノエの危機となると違うものだ!!


 冥界で死者を導く業務が忙しいアヌビスだが……アルシノエを一目見た時から彼女と離れられなくなってしまったのは周知の事実!


 ファラオに対する愛情は、神々一なのだ、はっはっはっ!!


 思い返せば、俺もアルシノエの父――先代のファラオと常に肩を並べていた。


 気が合ったのだよ、とても。

 明るく賢い男でな。権力者としてはめずらしく、裏表がないヤツだった。それで真理女神マアトにはずいぶん心配されていたが。


 死の間際にヤツと交わした約束を、もちろん俺が忘れるはずもない。


 ――私の代わりだと思って、次のファラオにも力を貸してやってほしい。


「はっはっはっはっ! 大事なファラオを傷つけた罪、ここで精算してもらおう!」


 俺は内なる闘気を奮い立たせる。

 毎日念入りに鍛え上げた肉体に力がみなぎる。見よ! この気高き汗の伝う胸筋、腹筋、上腕を!!


 そして背に宿る翼を、炎の柱と変えて――


「さっさとケリをつけるぞ! いけ、我が魂の業火よ――!!」


 アヌビスも同時に両手を天に伸ばす。


「冥界のケペシュよ、愚かな者に魂の死を!!」


 渦巻く炎がセトを襲う。それを追うようにアヌビスの黒い刃が振り下ろされる。


 普通の神ならこれで「降参」といったところだが……!?


 しかし外套ローブをひるがえして、セトはくるりと反転した。むむむ、余裕のある動きだ!


 全身を覆う暗黒の外套ローブがあっけなく俺たちの攻撃を無力化する。


「くっくっくっ、絶好調だ」


 セトが舌なめずりをしてニタリと笑った。


「セルケトの邪心は養分に満ちていたからなぁ。ホルスよ、前回のようにはいかぬぞ!!」


 気炎をあげるとともに、セトの長身が膨れ上がった。

 闇が膨張した、だと!?


「喰らえ、地獄の嵐を!!」


 ◇


 いったいどのくらいの時間が経過しただろう。


 俺の炎とアヌビスのケペシュがセトを襲い、奴の放つ砂嵐が俺たちを傷つける。


 防戦一方、とまではいかないが、俺たちは苦戦を強いられていた。


 隣でアヌビスが背中を丸めて荒い息をつく。膝に手をついているところを見ると、けっこう消耗しているようだ。


「くそぉ、こいつ、確かに絶好調だ」


「はっはっ、以前より厄介な相手になっているのは事実だな」


 激闘により部屋は破壊され、アルシノエを捕らえていた格子は跡形もない。


 天井の高い、石壁に囲まれた部屋の中心で、セトはふわりと宙に浮いている。ワニの尾から闇がぬるぬると滴っていた。


ファラオには逃げられてしまったが、人質は息子のお前でもいいかもしれないなぁ、ホルス」


 ニタリと笑ってセトは視線で俺をなめまわす。くそぉ気持ち悪いぞ!!


 鳥肌が立った腕をさすっていると、アヌビスが丸めた背をぐいと伸ばした。


「さて、じゅーぶん時間も経ったし……


「なるほど、了解した」


 俺はコキコキと首を鳴らす。


「さぁ、これが最後の攻撃だ!! はーっはははは!」


 はやぶさの姿に戻った。これで力の制約はない。正真正銘、全ての力を出しきる!!


「援護するぜ!!」


 アヌビスがケペシュを構えてセトに突っ込む。闇が二つに分かれた。二刀流か!


「くたばれ、セト!」


 跳躍するとともに、相棒は二つのケペシュを振り下ろす。


「くだらんな、数が増えただけか」


 くっ、セトの腹から突風が! 振り下ろされた刃をからめとろうと、上昇する気流を作り上げている!

 あっけなく二つの刃が巻き上げられた。ついでに小さなアヌビスの体も。


「うおぉぉぁぁぁぁあ!」


 しかし、くうに浮いたアヌビスは、気合いとともに強引に体をひねった。


「ならばこっちを喰らえ!!」


 新たに放たれた一撃は――黒い尾、だった。

 アヌビスの特徴的な長い尾。その黒い毛の一本一本が、まるで針だ。無数の針がセトの肩口を襲う。


「ぐぁぁぁぁ!!」


 決まった!

 ひるんだなセト! この瞬間、逃さんっ!!


 俺は隼の全身を炎の塊へと昇華させた。そして一条の線のごとく急降下する。


 溶岩――もしくは彗星!!

 灼熱の一撃となり、貴様を燃やし尽くす!!


「ふざけるなぁぁぁぁ!!」


 な、なに!?


 セトがアヌビスの尾をつかんだ。信じられん! これでは奴も無事では――!


 そう思った刹那、火の玉となった俺に、アヌビスの体が叩きつけられた。


「がっ!!」


 つぅ! 体が床に打ちつけられた。そして、相棒が火に包まれる。


 ――アヌビス!!!!


「…だいじょーぶだ!」


 そうとだけ言うと、炎に巻かれた少年の姿がかすみに包まれる。

 代わりに現れたのは黒犬だ。なるほど、本来の姿になって己を守ったか! いい判断だ!


 しかし。


「死ね!!」


 その短い間に。セトは間合いを詰めていた。


「まずは貴様だ、王家のいぬめ!!」


 黒い手が外套ローブから伸びる。汚泥をまとう指先。それが、黒犬の脳天を――


「な、なんだ…?」


 脳天を突く、直前。


 ほとんど床と水平に飛んだ邪神の体が、ピタリとその場に止まっていた。横倒しになった彫像が宙に浮いている、そんな風にしか見えない。


「ふっ、背後に気をつけろよ、邪神さんよぉ」


 キザな台詞セリフが天井に響く。


 その声に胸を撫で下ろし、俺たちは人間の姿に戻った。


「はっはっはっ、作戦成功、だな!!」


 俺の高笑いにも、セトは微動だにしない。

 それはそうだ、眉ひとつ動かせぬ様、奴ののだからな!


「おせーよ、時神トート! 丸焦げになるところだったじゃねーか!」


「ふっ、英雄というものは簡単には現れないものだ。それに時を止める秘術を記すのは容易ではない」


 肩に垂れるターバンをかきあげながら、キラリと白い歯を見せて中年オヤジが笑う。


 そう、黒土国ケメトのあらゆる事象を記録する時の神トート。こやつがアルシノエのさらわれた場所を見つけ出してくれたのだ。


そして、トートは右手の巻物を邪神に向かって放り投げた。


「トート……貴様ぁ……!」


 するすると巻物がほどけて、パピルスが邪神の体に巻きついていく。その表面に刻まれるは神聖文字――文字が構築するのは、トートにのみ許された呪文。


「時を縫い付けたというのにまだ言葉を発するとは。ふっ、さすがはセト」


「はっはっはっ、前回よりも念入りに封じてやろう!」


 俺の高笑いに、セトがこちらをぎょろりと睨む。白いところのない眼球が、破裂しそうなほど激しく震えている。


「いやだ……あの静かな砂漠の中は……俺が欲しいのは、欲しいのは……」


「まずい! セトが術を破る!」


 アヌビスが悲鳴をあげた。


 ――憎悪、悲劇、惨劇、絶望、失望、堕落、虚無、汚辱、背徳。


 セトの口からどろりとした汚泥とともに言葉がこぼれていく。その穢れで、トートのパピルスが腐敗する。


 一刻の猶予もなし! 今度こそ仕留める!!


 再び俺は隼に変化した。

 高く舞い上がれ、炎の翼よ! 邪なる神から、王家を、国を守るために!!


 そして、その俺の背をなにかが後押しする。


 ――この力!


 はっはっはっ、やはり大人しくはしていられなかったか!

 この力、思う存分お借りするぞ――父上っ!!


「いっけーーーーーーー!!!!」


 アヌビスが吠え、俺は炎のいかずちとなった。


 雷鳴、轟く。

 業火、唸る。


 向かうは、邪神の肉体、ただ一つ。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ」


 俺の一撃を腹に受けて、セトが炎にまかれる。

 外套ローブが朽ち、闇が霧散する。輪郭りんかくがぽろぽろと崩れるように、奴の姿が炎の中へと消えた。


 さらば、セトよ。

 どうせ魂までは滅せぬ。

 このまま、またゆっくりと砂漠で眠るのだ!


 はっはっはっはっ!!

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