9.ファラオ、愚弟と向き合う



 ティズ様。ティズ様。ティズ様。


 彼の胸に抱かれて、しばらく何も考えられなかった。


 あったかくて、ホッとする。怖かった気持ちが消えていく。


「アルシノエ様、もう大丈夫です」


 彼は私の肩をつかんで優しく微笑んでくださった。そして私を抱き起す。


「ここはあのお二方に任せて、ひとまず逃げましょう」


 そう目線で示された先には、背中の翼を燃え上がらせる隼神ホルスと、全身から殺気を放つ黒犬神アヌビスが並んでいる。


「はっはっはっ、覚悟しろ、邪神セト!」


「アルシノエを痛めつけてくれた礼は、たっぷりさせてもらうぞ!!」


 怒りを爆発させるアヌの周囲に闇の気配がただよっている。セトと同じように黒々としたものが渦巻くのに、アヌはどうして明るく見えるのかしら。


「さぁ、こっちじゃ」


 メジェド神が石壁にあいた穴のわきで白布のすそをふりふりしている。


「でもアヌたちが……」


「神々の戦いの前では私たちは無力です。先に逃げると約束してあります。さぁ、行きましょう」


 私の手をつかもうとしてティズ様は首を傾げた。


「その中に、何かを守っておいでですか?」


 うなずいて、私はそっと手のひらを開いた。


蠍女神セルケトなの……」


 小さな体を差し出す。


「なんとかイアフのもとに連れて帰りたいの……ティズ様、お願い。この子のことだけは助けて……」


 ピクリとも動かないさそりを前に、ティズ様は息をつめた。そして、私の肩を引き寄せる。


「バカなこと言わないでください。みんなで助かるんです!」


 そう言った彼の右手には剣が握られていた。


「はやくするんじゃ、ティズ君!!」


 メジェド神に急かされて、私たちは穴の中に駆けこんだ。


 ◇


 穴の向こうは廊下だった。先ほどまでいた牢と同じ、石造りの狭い壁が続く。


 石牢から遠ざかると、あかりがなにもない。外光も入らない。一度角を曲がってしまうと、ほんの数歩先が闇の中だった。


「仕方がない……我の力を嬢にもご覧いただこう」


 ペタペタと前に歩み出て、メジェド神が腰を落とすような仕草をした。腰がどこかはわからないけど。


刮目かつもくせよ!! 我が目力めぢからを!!!!」


 その大そうな掛け声とともに、突然彼の白布が光を放った。いや、光っているのは瞳だわ。


「メジェド・ビーーーーーーーーーーム!!」


「えぇ!?」


 炭色の瞳から、白い光線が発せられた。な、なにこれ、まぶしい!


「大丈夫じゃ、すぐに目が慣れるぞぃ」


 そう笑うメジェド神の瞳からは光が放出され続けて、回廊の奥までをよく照らしていた。


「……まぁ、これでとりあえず先には進めますね」


 ティズ様が呆れつつも前方を見すえる。


「それにしてもメジェド君の体は不思議がいっぱいですね。先ほどもその白布の中からとんでもないものを出してましたし……」


「とんでもないもの?」


 私が首をかしげると、ティズ様はどこか遠くを見つめた。


「アルシノエ様のところにたどり着くのに、石壁に穴をあけましたでしょう。あれ、メジェド君がやったんですよ。突然白布の中から、火花をく銀の筒が飛び出して……」


「そうじゃ、我の“ロケットランチャー”で嬢を助けたのだぞ。感謝せぃ」


「ろけっと……?」


 気の抜けた話の隙に、前方の光の中をカサカサと何かが動いた。


「むっ、これは……」


 光から逃げたそれを、メジェド神の視線が追う。


さそりだ……でかいな、しかも多い」


 言うなり、ティズ様が私を背後に押しやる。そして剣をかまえた。


 私はその群れ――そう言っていいと思う。だって二十匹以上いるから――を指差した。


「普通の蠍じゃないわ!」


 光に照らされた節のある体が黒い。それだけじゃなくドロドロとした闇をまとっている。そう、まるでセトのように。


 その異様な生き物が、こちらに向かって太い尾を振り上げていた。


「こっちには蠍の女神がいるのにのぅ。こいつらも完全にセトに操られているな」


「悪いけど倒しましょう。あれに刺されたらひとたまりもない」


 言うなり、ティズ様が駆け出した。まずは、先頭の一匹を一突きし、そのまま周囲の蠍を薙ぎ払う。


 太刀筋に迷いはなく、斬撃は正確だった。剣を扱うのになれていらっしゃるのね。


 困ったわ。


 やっぱり……ステキだわ。


 結婚してもうすぐ一年がたつわよね? それでもまだこんな風に新しい発見があるのね。


 それで、私はティズ様に何度でも恋に落ちてしまう。


 思わずぎゅっと両手に力を入れると、手の中の固い体がかすかに動いた気がした。


「……セルケト」


 胸が熱くなる。


 大丈夫よ、イアフ。

 私、この子をちゃんとあんたのもとに返してあげるからね。


 それが終わったら――自分の恋にも決着をつけなくちゃ。


 私の視線はもう一度ティズ様を追う。

 最後の一匹を斬って捨てた彼が汗をぬぐって、こちらを振り返る。


 その笑顔が苦しい。


 あなたは何も知らないから、私に笑いかけてくださるのよね。

 だからこうやって優しい瞳を向けて、良い夫婦になろうとしてくださるのよね。


 でも――もうあなたをだますのも終わりにします。


 ◇


 じめじめした回廊をさまよい、いくつか階段を上ると、やがて石壁が煉瓦れんがにかわった。


 メジェド神がいつのまにか光を放つのをやめている。


 それほど明るい。前方の階段の先から、光があふれる。

 そして、その向こうから呼びかけてくる声がある。


「おい、だいじょーぶか!?」


 正直、この声は好きじゃない。だってずっと悪口ばっかり言われてきたんだもの。


 でもね、悔しいけど、懐かしいなぁって思ったわ。


「助かったのぅ!」


「よかった……!」


 階段を駆け上がって、外の光の中にとびこんだ。メジェド神とティズ様が視線を合わせて笑ってる。


 階段の先は庭だった。煉瓦造りの建物に四方を囲まれている。ここは中庭ね、そよぐ風と緑がなんて気持ちいいの。

 あぁ、本当に助かったんだわ。


「おい、アリィ!」


 遠慮なく肩をつかまれた。さっきの声の主、イアフメスが私の全身を揺する。


「セルケトは!? あいつはどうしたんだよ!?」


 目の前でターコイズの瞳が怯えている。

 こんな顔をするイアフ、初めて見たわ……。


 私、弟のことならなんでも分かった気がしていたのに。そんなの、思い上がりだったのね。


「ここよ」


 私はゆっくり両手を開いた。そこに砂漠の赤土の色をした一匹の蠍。


「せ……セルケト……」


 震える指先で、彼はその小さな体をすくいあげた。


「おい、セルケト……セルケト……返事をしろよっ」


 イアフは彼女の体に頬をすり寄せた。おそるおそる、そして優しく。


 ああ、そうよね。私がティズ様を愛しく思うのと同じように、イアフもセルケトが大事なんだわ。


 彼の頬を大粒の涙が伝って、乾いた蠍の体を濡らしていく。


ぽつり、ぽつりとこぼれた涙がセルケトを包む。陽光を浴びてその体は輝き出すようだった。


「あ……」


 小さな体が震えた。


「セルケト……っ!」


 イアフの声に応えるように、蠍がかすかにハサミの腕を持ち上げる。


「よかった……生きてる……! おれ、お前がいなくなったらどうしようかと……」


 弟が泣きながら笑っている。それを見て、私は素直に嬉しいと思えた。


 ふっと、肩の荷が一つ降りる。


 ――よかった、私は自分の務めを果たせたのね。


 あとは……。


「ねぇ、イアフ」


 私は弟の名をよんだ。涙を流したまま、彼はこちらに向き直る。


 ターコイズの視線がぶつかり合う。

 

 赤銅色の肌、小ぶりな鼻、長い睫毛。

 私たちは、本当にそっくりだった。


 大きく息を吸う。思い切って言った。


「ごめんね。この国から追い出そうとして」


 イアフは表情を変えない。突然謝られて困惑しているのかもしれなかった。


「あなたがセルケトと別れがたく思ってること……私、想像もしてみなかったの」


 そう、あなたたちの言う通りよ。私は他人の気持ちなんて考えてこなかった。


「だから、ごめんね」


 そこまで言い切ってイアフの顔をまっすぐ見る。彼はまだ黙っている。


 その幼い頃から知っている顔をじいっと見つめていると。


 ……なんだか


 無性に、


 腹が立ってきた。


 ん? なんかおかしくない?

 なんで私ばっかり謝らなきゃいけないのよ?

 私、今までけっこう意地悪されてきたわよね? ひどいこといっぱいされてきたわよね?


 唐突に腹の底がぐつぐつ煮えてきた。


 そうだわ、おもちゃを燃やされたり、お友だちを奪われたり、変な噂を流されたり。

 頭にくること、たくさんあったじゃない。


 ぷっちんと私の中で何かが切れた。


 もうやめた。我慢するのやーめた!


 スパーーーーン


「いってぇ!!!!」


 快音を鳴らして、私はイアフの頬を平手で殴ってやった。


「よくも今まで意地悪してくれたわね!! やっぱりあんたムカつく! どっか行け! 大嫌い!!」


「はぁぁぁぁ!? 勝手に謝って、なんで今度は勝手にぶち切れてるんだよ!? このアホ! 意味わかんねー! シノエ!!」


「意味不明はあんたよメス! バカバカバカバカ!!!!」


 あらん限りの悪態をぶちまけた。隣でティズ様が唖然としている気がする。でも、もういいや。


 そうよ、最初からこうすれば良かったんだわ。お利口ぶってないで、真正面からぶつかって、バカバカって言ってやればよかったのよ。


 だって私たち、一緒に生まれて並んで育った、双子なんだもの。


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