8.ファラオのどうしても大好きな人



 私は恐怖で後ずさった。


 邪神セトの闇が大きくふくらむ。踊り狂うように嬉々として、その禍々しいものが、蠍女神セルケトを飲みこんでしまう。


「あぁぁぁぁ!!」


 彼女はもがいてた。泥土のような暗黒から逃れようと伸ばした手が、格子のこちらに向けられる。


「セルケト!!!!」


 のまれかけた彼女の半身に手を伸ばした。名を呼んだ声は、石壁に反射して思いのほか大きく響く。


 その私の目の前で、華奢な体がのまれた。そして恐怖にひずんだ少年のような顔も。最後に、助けをもとめる指先まで。


「くっくっくっ……」


 セトの突き出た口から長い舌がのびる。口の周りをベロリと舐めて、満足そうに笑った。


「あぁ、美味しかった」


 彼の外套ローブの中から、一匹のさそりが放り出された。


「セルケト……っ!!」


 乾いた砂漠の色の体が、格子のこちらにぽとりと落ちた。その少しも動かない体に駆け寄って、私は彼女を抱え上げた。


 両手におさまるほどの小さな体。


 あぁ、生きているのかしら……それすら分からないわ!!


「……なんてことを!!」


 私は邪神の長身をにらみあげた。


「セルケトはあんたのことを仲間だと思ってたんじゃないの!? それなのに、こんな……」


「仲間だと言った覚えはないな……互いの望みを叶えるために共闘しただけさ」


 コキコキと首を鳴らして、セトは話を続ける。


隼神ホルスに封印されて、黒土国ケメトにおける私への信仰は完全に途絶とだえてしまった。いかな私といえど、それでは力が弱まってしまう……。けれど、今から一年ほど前か。私が沈む砂漠に、黒々とした気を放つ神が現れた。それがセルケトだった」


 見上げる彼がいっそう大きくなった気がする。セルケトを呑んでからだ。


「くっくっくっ。奴は私を頼ってきた。イアフメスをファラオにしてくれと、邪神しか頼るものがないと」


「それでセルケトを利用したのね……!」


「本当に助かったよ。そのさそりの元に集まった不浄の信仰心は、私が美味しくいただいた。芳醇ほうじゅんで、舌触りもよかった。力が蘇っていく感覚に魂が震えたよ」


 長い腕で自分の体を抱いて、セトは身もだえした。


「だから、その小神の望みは叶えてやってもよい。ただ、その玉座の隣にセルケトがいるかどうかは知らないが」


 くい、とツチブタの口先がこちらを向いた。頭にかかった外套ローブが肩に落ちて、邪神の顔が明らかになる。


 瞳があるべきところに、二つの穴があった。底が見えない。無明の深淵。


 全身に悪寒を感じて、私はセルケトを抱えたままさらに後退った。けれど背はすぐに石壁にぶつかってしまう。


「アルシノエ、お前には玉座から降りてもらう……。だが、その前に!」


 彼の腕が格子の隙間から入り込む。

 私が目を見開くうちに、その指先から闇が放たれた。


「きゃぁぁぁぁ!」


 汚泥の奔流ほんりゅうがこちらに躍りかかる。

 まず私の首がつかまった。するすると闇が降りて私の体を壁に縫いつけていく。

 足が浮いた――身動きがとれないわ!


「お前は人質だ。お前の命が危険にさらされれば、奴が必ず現れるだろう――!!」


 長身がぬるりと格子の間を滑る。ギョッとした。人間が通れるほどの隙間じゃない。彼の体は闇そのもののように揺らいでいた。


 近づいてくる。彼が動くと、ワニの尾が引きずられて床に跡をつけた。ぬたりとした黒い光沢。


 気持ちが悪い、怖い。ずっと歯がガクガクと鳴っている。寒気もおさまらない。


 私、こいつに殺されるんだ。こんな暗い部屋で、誰にも知られずに。


 無意識に両手をぎゅっと抱いた。


 その指先に、


 固いものがあたった。


 ――そうよ、この中にセルケトがいるんだわ。


 歯を食いしばった。なんとか震えをおさめる。


 ――この子を守らなきゃ、守って、絶対にイアフのところに帰さなきゃ!!


「さぁ、ファラオよ! 命乞いをせよ!! そのさえずりで太陽神ラーを呼び出すのだ!!」


 再びセトが咆哮ほうこうする。私を捕らえた闇の力が増す。


「きゃぁぁぁぁ!!」


 ギリギリと締め上げられる。苦しい、でも……負けちゃダメだ!


 命乞いをしろとセトは言うけど、死ぬのも怖いけど。

 でも、私は、自分の命がそんなに大事だとは思えない。


 だってイアフが言っていた通りだもん。


 ――ティズ様には、私なんていない方がいい。私との結婚なんてなかったことになった方が絶対いい。


 あの薄紅の薔薇ばらの贈り主が、きっと故郷でティズ様を想っているから。


 私が切り裂いたを、彼らに返さなきゃいけない。


 だから、なんとしてでも、たとえ自分は命をなくしても。


 セルケトだけは守るんだ――!!


「この子を助けて――誰か……!!」


 私は絶叫した。


「誰か――!!」


 ぎゅっと目をつぶる。涙とも汗とも分からないなにかが、頬を伝っていく。

 闇に締め上げられて全身がきしむ。痛い。苦しい。


 指先がしびれる。彼女を包む両手も、押しつぶされてしまいそう。


 ダメよ、負けちゃダメよ、アルシノエ……頑張るのよ……


 その私のまぶたの裏に。


 じわりと一つの影が浮かんだ。


 あ……


 このお顔。


 ――もう、だから私は自分が嫌いなのよ。


 褐色のたくましい肌。黒髪は風になびき、短く。


 ――どうして思い出してしまうんだろう。


 きりりと男らしい眉をしているのに、その表情はいつも穏やかだった。


 ――思い浮かべる権利なんて、私にはないはずなのに。


 初めて会った時に、知ってしまったの。花がほころぶように笑う人だって。


 ――でも……でも。


 私の大好きな人。


 ずっとずっと大好きで、ずるくても、醜くても、奪ってでも、私の隣にいてほしかった人。


 ――この最期の時も、私はあなたが、大好きよ。


「ティズカール様ぁぁぁぁぁぁ!!」


 ◇


 その時何が起こったのか、私には全然分からなかった。


 セトも唖然としている。

 そのせいか、獲物を拘束する闇が緩んで、私は床に落とされた。


 落ちた先で、崩れた石壁を見た。

 石牢の左側の壁に、大きな穴があいている。


 私の叫びに応えるように、石壁が崩れたのだ。轟音ごうおんと激しい衝撃とともに。


「なんで……?」


 その穴の向こうから、瓦礫がれきを踏み越えて、石牢の中に入ってくる人の影が見えた。その輪郭りんかく粉塵ふんじんで揺らいでいる。


 でも、私にはそれが誰だかすぐに分かった。


「アルシノエ様!!」


 その声。

 少しだけ低い、心地よい声。

 呼びかけられると、それだけで胸が熱くなる、その声。


 どうしてこんなところにいるんだろう。

 あなたが私を助けに来てくれるなんて、そんなことあるはずなんてないのに――。


「ティ……ティズ様……」


 ぽろぽろと頬を伝うものが熱い。

 せっかくの彼の姿が、涙でにじむ。


 あぁ、私やっぱり――。


「セト、アルシノエから離れろ!!」


 ティズ様の後ろから、もう一つ馴染なじんだ声が聞こえた。


「アヌ!!」


 私の守護神が、全身の毛を怒らせて、セトに牙を剥いている。


 そしてさらに、二人の頭上で空をかいて一羽のはやぶさが部屋の中に滑りこんだ。風切羽が炎で揺らぐ。


「貴様っ……ホルス……!!」


 あのセトがじりりと背後に下がった。威嚇いかくするようにホルスの全身が燃え上がって、その炎の中から人間の姿の彼が現れた。


「はっはっはっ! 久しぶりだなセト!!」


 彼の赤い長髪が猛々しく宙に踊る。


 そして、さらに。


「うむ、やはりここで間違いなかったか」


 ティズ様のわきで白い布がひらひらと揺れていた。その隙間から、すね毛の生えた足がのびている。


「メ……メジェド神まで……!」


 なぜだか笑えてきてしまって、そのおかげで肩の力が抜けた。


 ――みんな、助けにきてくれたんだ。アヌも、ホルスも、メジェド神も。そして。


「アルシノエ様っ!!」


 もう一度私の名を呼んで、彼がこちらへ駆けてくる。


 眉も、口の端もゆがめて、心底心配したような顔で。


「ティズ様……」


 どんな顔をしていいか分からない。

 もう彼に合わせる顔なんてないと思っていたから。


 でも、そんな私を。


 彼はぎゅっと抱きしめてくれた。


「よかった、ご無事で……」


 そう言った声が切実にかすれていて。

 彼の胸の中があまりにあたたかくて。


「ティズ様……」


 どうしよう。


 私はもう一度、恋におちてしまった。



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