8.ファラオのどうしても大好きな人
私は恐怖で後ずさった。
「あぁぁぁぁ!!」
彼女はもがいてた。泥土のような暗黒から逃れようと伸ばした手が、格子のこちらに向けられる。
「セルケト!!!!」
のまれかけた彼女の半身に手を伸ばした。名を呼んだ声は、石壁に反射して思いのほか大きく響く。
その私の目の前で、華奢な体がのまれた。そして恐怖にひずんだ少年のような顔も。最後に、助けをもとめる指先まで。
「くっくっくっ……」
セトの突き出た口から長い舌がのびる。口の周りをベロリと舐めて、満足そうに笑った。
「あぁ、美味しかった」
彼の
「セルケト……っ!!」
乾いた砂漠の色の体が、格子のこちらにぽとりと落ちた。その少しも動かない体に駆け寄って、私は彼女を抱え上げた。
両手におさまるほどの小さな体。
あぁ、生きているのかしら……それすら分からないわ!!
「……なんてことを!!」
私は邪神の長身をにらみあげた。
「セルケトはあんたのことを仲間だと思ってたんじゃないの!? それなのに、こんな……」
「仲間だと言った覚えはないな……互いの望みを叶えるために共闘しただけさ」
コキコキと首を鳴らして、セトは話を続ける。
「
見上げる彼がいっそう大きくなった気がする。セルケトを呑んでからだ。
「くっくっくっ。奴は私を頼ってきた。イアフメスを
「それでセルケトを利用したのね……!」
「本当に助かったよ。その
長い腕で自分の体を抱いて、セトは身
「だから、その小神の望みは叶えてやってもよい。ただ、その玉座の隣にセルケトがいるかどうかは知らないが」
くい、とツチブタの口先がこちらを向いた。頭にかかった
瞳があるべきところに、二つの穴があった。底が見えない。無明の深淵。
全身に悪寒を感じて、私はセルケトを抱えたままさらに後退った。けれど背はすぐに石壁にぶつかってしまう。
「アルシノエ、お前には玉座から降りてもらう……。だが、その前に!」
彼の腕が格子の隙間から入り込む。
私が目を見開くうちに、その指先から闇が放たれた。
「きゃぁぁぁぁ!」
汚泥の
まず私の首がつかまった。するすると闇が降りて私の体を壁に縫いつけていく。
足が浮いた――身動きがとれないわ!
「お前は人質だ。お前の命が危険にさらされれば、奴が必ず現れるだろう――!!」
長身がぬるりと格子の間を滑る。ギョッとした。人間が通れるほどの隙間じゃない。彼の体は闇そのもののように揺らいでいた。
近づいてくる。彼が動くと、ワニの尾が引きずられて床に跡をつけた。ぬたりとした黒い光沢。
気持ちが悪い、怖い。ずっと歯がガクガクと鳴っている。寒気もおさまらない。
私、こいつに殺されるんだ。こんな暗い部屋で、誰にも知られずに。
無意識に両手をぎゅっと抱いた。
その指先に、
固いものがあたった。
――そうよ、この中にセルケトがいるんだわ。
歯を食いしばった。なんとか震えをおさめる。
――この子を守らなきゃ、守って、絶対にイアフのところに帰さなきゃ!!
「さぁ、
再びセトが
「きゃぁぁぁぁ!!」
ギリギリと締め上げられる。苦しい、でも……負けちゃダメだ!
命乞いをしろとセトは言うけど、死ぬのも怖いけど。
でも、私は、自分の命がそんなに大事だとは思えない。
だってイアフが言っていた通りだもん。
――ティズ様には、私なんていない方がいい。私との結婚なんてなかったことになった方が絶対いい。
あの薄紅の
私が切り裂いた二つの恋を、彼らに返さなきゃいけない。
だから、なんとしてでも、たとえ自分は命をなくしても。
セルケトだけは守るんだ――!!
「この子を助けて――誰か……!!」
私は絶叫した。
「誰か――!!」
ぎゅっと目をつぶる。涙とも汗とも分からないなにかが、頬を伝っていく。
闇に締め上げられて全身が
指先が
ダメよ、負けちゃダメよ、アルシノエ……頑張るのよ……
その私のまぶたの裏に。
じわりと一つの影が浮かんだ。
あ……
このお顔。
――もう、だから私は自分が嫌いなのよ。
褐色のたくましい肌。黒髪は風になびき、短く。
――どうして思い出してしまうんだろう。
きりりと男らしい眉をしているのに、その表情はいつも穏やかだった。
――思い浮かべる権利なんて、私にはないはずなのに。
初めて会った時に、知ってしまったの。花がほころぶように笑う人だって。
――でも……でも。
私の大好きな人。
ずっとずっと大好きで、ずるくても、醜くても、奪ってでも、私の隣にいてほしかった人。
――この最期の時も、私はあなたが、大好きよ。
「ティズカール様ぁぁぁぁぁぁ!!」
◇
その時何が起こったのか、私には全然分からなかった。
セトも唖然としている。
そのせいか、獲物を拘束する闇が緩んで、私は床に落とされた。
落ちた先で、崩れた石壁を見た。
石牢の左側の壁に、大きな穴があいている。
私の叫びに応えるように、石壁が崩れたのだ。
「なんで……?」
その穴の向こうから、
でも、私にはそれが誰だかすぐに分かった。
「アルシノエ様!!」
その声。
少しだけ低い、心地よい声。
呼びかけられると、それだけで胸が熱くなる、その声。
どうしてこんなところにいるんだろう。
あなたが私を助けに来てくれるなんて、そんなことあるはずなんてないのに――。
「ティ……ティズ様……」
ぽろぽろと頬を伝うものが熱い。
せっかくの彼の姿が、涙でにじむ。
あぁ、私やっぱり――。
「セト、アルシノエから離れろ!!」
ティズ様の後ろから、もう一つ
「アヌ!!」
私の守護神が、全身の毛を怒らせて、セトに牙を剥いている。
そしてさらに、二人の頭上で空をかいて一羽の
「貴様っ……ホルス……!!」
あのセトがじりりと背後に下がった。
「はっはっはっ! 久しぶりだなセト!!」
彼の赤い長髪が猛々しく宙に踊る。
そして、さらに。
「うむ、やはりここで間違いなかったか」
ティズ様のわきで白い布がひらひらと揺れていた。その隙間から、すね毛の生えた足がのびている。
「メ……メジェド神まで……!」
なぜだか笑えてきてしまって、そのおかげで肩の力が抜けた。
――みんな、助けにきてくれたんだ。アヌも、ホルスも、メジェド神も。そして。
「アルシノエ様っ!!」
もう一度私の名を呼んで、彼がこちらへ駆けてくる。
眉も、口の端もゆがめて、心底心配したような顔で。
「ティズ様……」
どんな顔をしていいか分からない。
もう彼に合わせる顔なんてないと思っていたから。
でも、そんな私を。
彼はぎゅっと抱きしめてくれた。
「よかった、ご無事で……」
そう言った声が切実にかすれていて。
彼の胸の中があまりにあたたかくて。
「ティズ様……」
どうしよう。
私はもう一度、恋におちてしまった。
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