7.ファラオ、謝る



 なにかにまぶたを刺激されて私は目を覚ました。


 いたいっ、体中が痛いわ。しかも、なんでこんなに砂まみれなのかしら?


 いや、その前にここはどこ? 床が固くて、カビ臭くて、暗い。私、どうしてこんなところにいるの?


「目が覚めた?」


 高い声に呼びかけられて、上半身だけを起こした。聞き覚えのある声だった。


「……蠍女神セルケト


 数歩はなれたところに立っているのは、イアフメスの守護神セルケトだった。

 だいだいの髪が、彼女の手に握られた松明たいまつに照らされている。さそりの尾が床に垂れていた。


 真っ暗な部屋の中、あかりは頼りない松明だけ。彼女はそれを壁にかけた。

 揺れる炎が照らし出していたのは、石壁に囲まれた小部屋だった。


 彼女と私の間に格子こうしがある。あぁ、ここは石牢だ。


「なんだ、取り乱したりしないんだね、つまんないの」


 セルケトの表情はどこか暗くて、私にとってはそっちの方が意外だった。


「……あんたこそ、大嫌いな私を捕えたんでしょ? もっと喜べばいいじゃない」


「そうだね、本当は大騒ぎしたいくらいなんだけど」


 言いよどんで、彼女は格子の向こうで座りこんだ。ううん、座るというより、糸が切れるように崩折くずおれたから、私は驚いてしまう。


「どうしたの?」


「別に……なんか……疲れただけ……」


 私はセルケトになるべく近づこうとした。格子を握りしめて彼女の顔をのぞき込む。さほど位は高くないとはいえ、神様が倒れるほど体力を失うなんて考えにくい。


「顔色悪いわよ、大丈夫?」


「アルシノエこそ……自分の心配をしたら?」


 そう言われて、暗闇に慣れてきた目でもう一度自分が置かれた状況を確認した。


 天井の高い石牢の中だ。格子は頑丈な金属で、決して逃げ出せそうにない。


 石壁に窓はなく、格子の一部が持ち上げて開く形の扉になっている。もちろん、今は鍵がかかっているけれど。


 カビ臭くて、ジメッとしている。チュニックに長衣カラシピスを羽織っただけでは、鳥肌が立つほど寒い。


 ――死んで、魂が救われなければ、こんなところにくるのかしら。


 そう思うと、この石牢は自分にふさわしいところのように思えた。


「それで……あんたは私をどうするつもりなの?」


 座りこんだセルケトは、こちらを見てニヤリと笑った――ううん、笑おうとしたようだったわ。でも、口の端が少し持ち上がっただけで、うまく表情がつくれていない。


「アルシノエがいなくなれば、イアフメスがファラオになれる。だからあんたはずっとここにいて」


 多分、そう言うんだろうと思っていた。

 イヤになっちゃう。イアフにファラオなんか務まるわけがないじゃない。


 そう思う一方で――


 セルケトの細い目と視線が合うと、逃げだしたくなってしまう。後ろめたい気持ちに責め立てられる。


「……ねぇ、本当にイアフをファラオにしたいの?」


「そんなの当たり前だろ! お前さえいなければ、ファラオになりさえすれば、イアフは黒土国ケメトに残れるんだ……!!」


「そんなにイアフと一緒にいたいの……」


「そうさっ!!」


 床に両腕を叩きつけて激怒したセルケトは、絞り出すように語り出す。


「ボクたちはずっと一緒だった。君たち双子が産まれて、神々にお披露目された時からね」


 そう、私たちは産声をあげると、すぐに神々の祝福を受けた。


 王都の中心を成す神殿。

 スフィンクスの立ち並ぶ参道を抜けた先。石壁に刻まれた歴代のファラオが見守る至聖所に、黒土国ケメト中のあらゆる神々が集まったのだと聞いたわ。


 そして太陽神ラーが、生まれて間もない私に手をかざして微笑んだのよ。


 ――この娘は、に似ているね。


 この神々の王の祝福が、私に限りない恩恵をもたらした。


「冥界の王オシリス」「闇の黒犬神アヌビス」「炎の隼神ホルス」そして正義を司る「真理女神マアト」までもが、私を選び育んでくれた。


 だから私はみんなの期待に応えようと――立派な統治者になるために、必死になって学んできたのよ。


 だけど、イアフは。


「みんなアルシノエに夢中で、もう一人の男の子になんて見向きもしなかった! でも、産着姿のイアフは可愛かった。ボクにはお前なんかよりずーっと可愛く見えたんだ!!」


 彼女の瞳から涙がぽろぽろこぼれていく。


「……賢くなくたって、落ち着きがなくたって、ボクにはイアフが一番だ。産まれてすぐに日陰に放り込まれたとしても……ボクにはイアフだけが輝いてみえたんだ……」


 いつくばって、彼女は格子を握った。少年のような手の平が色を失うほど強く握られる。泣きじゃくる顔が間近にせまる。


「イアフは最初から何も持ってなかった! それなのに、なんでアルシノエは彼からボクまで奪おうとするの!?」


「セルケト……」


「ボクだってイアフとずっと一緒にいたいんだ……ずっと一緒にいたいんだよ……!」


 ゆがんだ顔で私をののしる彼女の顔が、不意に誰かのものと重なった。


 よくくしの通った黒い髪。

 静かな湖面を思わせる瞳も濡れたように黒く、いつもティズカール様の少し後ろに控えていた。


 美しい、異国の少女。


 思わず言葉がこぼれた。


「ごめんね……」


 涙が頬を伝う。


「ごめんね……私、他人ひとの気持ちなんて、ちゃんと考えたことなかったんだわ……」


 二人の少女に謝る。


 イアフの言うとおりよ。ファラオだから、神々に愛されてるからと、私は高慢だったんだ。


 そうだ、ちゃんとイアフとも向き合ってこなかった。

 どうせ話しても分からないでしょ、って最初からあきらめてたんだ。


 ティズ様のことだって――。


「話が盛り上がっているようだね」


 ぞくり、と背すじがざわついた。

 突然投げかけられたくぐもった声は、天から降ってくる。


 格子を握りしめたままのセルケトが、背後を振り仰いだ。私も彼女の視線を追う。


邪神セト……」


 そう呟いたセルケトの息が荒い。


「まさか、よこしまなる神……セト? ホルスが昔に戦ったっていう?」


 視線の先にいるのは、異様な長身の男だ。宙に浮いている。

 頭からつま先まで全身が外套ローブで隠され、その合間からツチブタのような顔が突き出ていた。

 

 そして、周囲に渦巻く黒々としたものが、私の目を釘付けにした。


 アヌの闇とは違う。

 彼は夜のとばりで優しく私たちを覆ってくれる。安らぐ夜を贈ってくれる。


 セトがまとうそれは、まるで底なしの沼よ。


 私は目を背けた。このままでは生気を削がれる、そんな気がしたから。


「そうだね、あのに倒されて、私はしばらく砂漠に沈んでいた」


 抑揚のない声がツチブタの口から発せられる。淡々として、その言葉に感情の色は見えない。瞳も外套ローブの陰に隠れていた。


 でも、怖い。歯の根がカチカチ鳴り出すほど。セルケトを見ると、彼女の指先も小さく震えていた。


「セト……アルシノエを捕まえてくれてありがとう……これでイアフがファラオになれるよね……」


 色を失った顔で、彼女はセトに向き直る。すがるような声もかすれていた。


「くっくっくっ、そうだな、きっとなれるな……あともう一歩だ」


 笑う声は乾いてた。


「そのために、この女を守護している神を倒さねばならない――天の玉座で踏ん反り返っているあの者をな――!!」


 最後の言葉は咆哮ほうこうだった。


 邪神は落下するように地に降りて、セルケトの目の前に立つ。


「お前のおかげでだいぶ力がよみがえってきたよ」


 外套ローブの向こうの瞳は、彼の纏う闇よりもなお暗くて深かった。深淵だ。


 だめよ、セルケト、のぞきこんじゃダメ!!


「さぁ、最後にもう一絞り、お前の力を分けておくれ……!!」


 その言葉とともに。


 セルケトの小さな体が邪神の闇にのまれてしまった。

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