6.むこ殿、メジェド神を赤く染める


 俺がイアフメス様をお見かけしたのは、陽が落ちかけた頃合いのことだった。


 剣を振って汗を流そうとルツとともに部屋を出たのだけれど、そのお姿を中庭で見かけてギョッとした。


「王弟陛下、どうなさいました!?」


 彼は地面にいつくばって、植木の下をのぞきこんでいたのだ。ガサゴソと枝葉をかき分けて、なにかを探しているようだった。


「……むこ殿」


 顔だけで振り返った彼は、なんとも言えない表情をしていた。

 迷い子のような不安を瞳ににじませながら、一方で俺をにらみつけるような。


 以前お会いした時は、自信に満ちた表情でおられた。いや、彼はいつでも堂々とされていた。


 このようなお姿を見てしまったらどうしても放って置けない。

 なにせお顔もアルシノエ様にそっくりなのだ。


「一度立ち上がってください。あぁ、傷が」


 枝に引っかかれたのか、彼の赤銅しゃくどう色の上半身は小さな傷でいっぱいだった。生成りの腰衣シェンティも砂まみれで、裾が擦り切れてしまっている。


「いったいどうされたんですか?」


 つとめて穏やかな声で話しかけた。

 イアフメス様が小柄なので、二人で並ぶと俺の方が頭一つ背が高い。なので、少し腰を落とす。


「むこ殿……あんた、蠍女神セルケトを知らねぇか?」


「セルケト様? どういうことですか?」


「いないんだよ、どこを探しても」


 そう言いながらも、彼の視線は中庭をさまよっている。


「お出かけでしょうか?」


「そんなはずねーよ! 俺とセルケトは一晩だって離れたことはないんだから! 出かけるなら絶対俺に言うよ」


 興奮したままイアフメス様は続けた。


「それに、あいつ最近、なんか具合が悪かったんだ! すぐ疲れて、ずっと寝てて。もしかしたら力尽きてさそりの姿でどっかに転がってるかもしれないだろ……」


 声がしぼんでいく。視線も地面に落ちて、肩が震えていた。


「でしたら、私も一緒に探しましょう」


 その両肩をつかんで、俺はなるべく力強くそう言った。ターコイズの瞳がじわりと揺れる。


「……俺、もうこの辺りは探したから……あとはまだ北の方が残ってる」


「えぇ、ではまず北側を。中庭が終わったら別のところを。あぁ、ルツ」


 黙って俺の後ろに控えていた従者に声をかけると、歯切れの良い返答があった。


「イサヤたちも呼んできて。みんなで探そう」


「承知いたしました」


 走り去る後ろ姿に見とれるように、イアフメス様が立ち尽くしている。視線を向けると、ぷいと顔をそらしてぼやくように言う。


「いいな、むこ殿は。忠実な従者が三人もいて」


 そういえば、なぜ彼は一人でこんなことをしているのだろう。

 ファラオであるアルシノエ様の唯一のご姉弟きょうだいで、限りなく尊いお方のはずなのに。


 その問いに答えるように、ボソリと彼は呟いた。


「俺には、人間の従者とかいないから。みんな俺のこと嫌いだし……だから俺にはセルケトしかいないんだよ」


「イアフメス様……」


 彼はぐしぐしと顔をぬぐった。こちらに背を向けているので、表情は分からなかったけれど。


「では、なんとしてもお探ししましょう。はやくしないと陽が落ちてしまう」


 そう、俺が改めて気をひきしめたその時だった。


「おい、イアフメス!!」


 東側の棟――アルシノエ様の自室がある方だ――から黒犬神アヌビス様が駆け込んできた。

 しかも、隣にメジェド君もいる。


 うわ、メジェド君って走れるんだ。しかも意外と速っ……。


 腕がないせいか独特な走り方で、メジェド君はいちはやく俺のもとに駆けつけた。


「アルシノエ嬢が……ぐえっ」


 その白布の頭を踏み台に、一歩遅れてやってきたアヌビス様が跳躍した。そしてイアフメス様に襲いかかる。


「てめー、アルシノエをどこにやった!?」


 アヌビス様が彼を地面に叩きつけて馬乗りになる。その目は血走っていた。


「あ、アヌビス様!? どうされたんですか?」


 俺はその少年の姿の神様を引きはがそうとしたが、意外な怪力で逆に払いのけられた。


「ティズ君、大変なのじゃ。アルシノエ嬢の姿が見えない」


 メジェド君の言葉に、俺は目を見開く。


「イアフメス! お前と話をした直後だぞ、アルシノエが消えたのは!!」


 アヌビス様が牙をむく。


「お前とセルケトの仕業しわざだろ! アルシノエを返せ!!」


 その正気とは言えない剣幕に対して、王弟も逆上した。


「ふざけんな!! セルケトはいねーよ! お前らこそ俺のセルケトをどっかにやったんだろ!!」


 王弟は思いっきりアヌビス様の尻尾をつかんだ。ぎゃ、っとうめいて黒耳の少年は飛びのく。


「貴様っ……この“闇のアヌビス”に向かっていい度胸してるじゃねーか……!!」


「うるせぇ、俺にとって神はセルケトだけだ!!」


「お二人とも、お待ちください!」


 立ち上がってにらみ合うお二人の間に割って入った。

 何がなんだか分からない。ただ……。


「いったい何が起こっているんですか!? ちゃんと説明してください!」


「婿殿は黙っててくれ! 俺はこいつと話してるんだ」


 そうアヌビス様に吐き捨てられて、俺の中で何かがプチンと切れる音がした。


「ふざけるな!!」


 腹の底から怒りをぶちまけた。

 その場の全員が動きを止めて、唖然とした顔で俺を見ている。けれど、そんなこと構うもんか。


「俺にもちゃんと説明しろ!」


 そうだ、俺は知らねばならない。


「俺は、アルシノエ様の夫だ!!」


 ◇


「イアフメスと言い争った後、アルシノエは自室で黒兎女神ウヌトと二人でいたはずなんだ。それなのに今、どこにもいない。ウヌトはなぜか全身に怪我をしていて、兎の姿に戻ってしまった。しばらく会話もできない」


 中庭の東屋あずまやに腰掛けた。日除けはあるものの、日が西に傾いて、容赦なく俺たちの顔を橙に染める。


 イアフメス様、アヌビス様、メジェド君と俺。四人がそれぞれ向かい合って座っている。


 状況を説明してくれたのは、冷静さを取り戻したアヌビス様だった。“言い争い”という言葉に、俺はイアフメス様の顔を見る。


「仲が悪りぃんだよ、俺たちは」


 そうだったのか、と思う一方で、やはり、とも思う。

 彼らは双子だ。王権をめぐって相争ってきたことは十分考えられた。


「おい、むこ殿、言っておくけど俺はファラオになりたかったわけじゃねーぞ」


「え?」


「それにアヌビス、俺がアルシノエをさらうわけねーだろ」


「……なんでだよ? そんなこと信じられるか」


 バカだな、とイアフメス様は大きく息を吐いた。


「俺はアリィをのが好きなんだ。あいつがいなくなったらつまんねーんだよ」


 アヌビス様は頭を抱えて、俺もあきれてしまった。


「それで、アルシノエ様とどんな言い争いを?」


「……俺からセルケトを奪おうとしやがって、とか」


 あぁ、と俺は嘆息たんそくした。


 彼は婿に出るのだ。

 こんなにいつもお側にいて、想いあっているセルケト様と引き裂かれる痛みは、俺にもよく分かる。


 俺もそうだったから。


 それに、とイアフメス様は続ける。


「アリィにこう言った。どうせお前はティズカールに嫌われてるって」


 ……は?


「お前が強引にむこに取ったから、ティズカールは……」


 何事かイアフメス様が説明を続けようとしていたが、俺はその言葉を最後まで聞けなかった。


「そんなことありません! 勝手なことをおっしゃらないでください!!」


 王弟陛下に向かって俺は立ち上がる。


「俺はアルシノエ様を心から愛しています!!」


 一瞬の沈黙。イアフメス様とアヌビス様が固まった。


 そして、俺の隣でドシーンと何かが倒れる音がした。


「メ……メジェド君!?」


 振り返ると、白布のかたまりがベンチから転げ落ちている。

 その鼻からは、赤い液体が流れ出ていた。


「う、う、う……ティズ君、よくぞここまで成長してくれた……これで我は萌え死ねる……」


「メジェド君! シーツが鼻血で染まってます!」


 その体を抱き起こしながら、俺は彼の白布の心配をした。メジェド君のキラキラ光る瞳に見つめられて居心地が悪い。

 椅子に戻ったメジェド君は、鼻血を垂らしたまま真顔になる。


「さて、アヌビス神。やはりアルシノエ嬢誘拐の犯人は王弟ではないぞ。冷静になれば分かったはずだ、嬢の部屋の中は砂嵐でかき乱されたようだったではないか」


「そうだな……怪しいのはむしろ邪神セトか」


 俺が疑問を浮かべると、メジェド君が説明をはさんだ。


「邪悪の神だ。かつて太陽神ラーからの玉座奪還を狙って、隼神ホルスと戦った。近頃、その力が復活しつつある」


「そんな神が……」


「豊穣の黒土国ケメトを、絶望の巣食う大地に変える――それがセトの望みさ」


 足もとから恐怖が這い寄る。アルシノエ様がそのような者に囚われていたとしたら――。


「まさか、セルケトがいないのも、セトと関係しているのか……?」


 イアフメス様の顔色も青い。

 あり得る、とメジェド君はうなずいた。


「セルケトは体力を失っていたんじゃろ? セトは人間のよこしまな信仰心で力を得、逆に力を与えたものは生気を吸われるというからのぉ」


「じゃあ、あいつは……」


 話はまとまってきた。けれど、アルシノエ様がどこにいるか分からない。


 くそぉ、と俺は天を仰いだ。黄昏たそがれが迫る。夜が来てしまう。


 こんな時だというのに、空は見事な色彩に彩られている。濃紺、黄金こがね、朱、紅。混じり合って映し出された極上の美。


 けれど、俺のまぶたに浮かぶのは、あの天上のターコイズだけだ。


「あれ……」


 イアフメス様が茜空を指差した。黄昏を黒く切り取って、何かがこちらへ近づいてくる。

 声をあげたのはアヌビス様だった。


「ホルスと……時神トートだ」



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