5.ファラオ、後悔する
私の恋は、長い間ただ遠くから見つめるだけの、ごくささやかなものだった。
視線の先で、花がほころぶように笑うのは、小国の王子様。
眺めているだけで幸せだったの。
でも、欲望はちょっとずつふくらんで――そのうちいつかお話ししてみたいと思うようになっていた。
あの笑顔が自分に向けられたら、優しく名前を呼んでいただけたら、どんな心地がするだろう――そんなことを考えながら過ごした日々。
お会いしたいという、その密やかな情熱が実ったのは、今から五年前のことだったわ。
空色のチュニックに身を包み、高鳴る胸を抑えきれなかった私は、パパのかげに隠れるようにして、彼が現れるのを待っていた。
まずは背すじを伸ばして、初めましてと言おう。そして名前をお伝えするの。彼もお名前を教えてくださったら、にっこり微笑んで――あぁでも、緊張してうまく笑えないかもしれないわ。
考えすぎて、興奮しすぎて、どうにかなってしまいそうだった。
「おぉ、ティズカール殿、久しいな!」
パパの声に、私の心臓が跳ね上がった。
奥の通路から彼がやってくる。中庭に植えられた木々の間、
私は勇気を出して一歩踏み出した。まずは私を知ってもらいたい。私がここにいることを、あなたを見つめていることを知ってほしい。
けれど。
彼は私の方など見向きもしなかった。
「ご無沙汰しております陛下。おい、イシュ、ちゃんと挨拶しろって! すいません……礼儀がなっていなくて」
彼の
女の子だった。
「ティズカール殿、どうした、娘ができたのか?」
「いや、もちろん私の娘ではありません。別の隊商でひどい扱いを受けていたのを、私が引き取ったのです」
パパが感心している最中も、彼はその少女に挨拶をさせようと必死だった。
そう、彼は。
私ではない――別の女の子のことしか見ていなかったのよ。
世界が暗転した。その真っ黒い世界の中で、なぜかその少女の姿だけが目に焼きついた。
多分、私よりも幼い。やせ細って、ちっぽけで。
でも透き通るような白い肌と、長く真っ直ぐ伸びた黒髪は、銀細工のように
それにね、その長い髪には明らかに丁寧に
それで、この子がすっごく大事にされていることが想像できてしまって。
なにより。
彼が少女を見るまなざしが――あまりにあたたかくて。
◇
結局、その日私はティズカール様と一言もお話できなかった。彼の視界にちゃんとおさまっていたのかさえあやしいと思う。
夜になると私は寝台の上で、例の少女の顔を思い浮かべた。キレイな女の子だった。あんな子が彼のそばにいるんだ――。
いいえ、大丈夫よアルシノエ。
彼女はどんなに美しくても
そう考えてハッとする。
私ったら、なんて
体の中を虫が
そしてその感覚から逃れるために、私は自分の内側に目を向けるのをやめてしまった。
◇
半年後。
再びティズ様をお見かけする機会が訪れたわ。パパが彼に鉄製武器を発注していたみたいなの。それで、彼は都までいらっしゃったのよ。
もちろんまた彼に会おうとしたわよ。
今度こそ私を気にかけてくださるかもしれない。だって、まだあの女の子が隣にいるとは限らないもの。
そう、あの子さえいなければ――。
「イシュでございます。
けれど、少女はそこに――ティズ様のおそばにいた。彼のやや後ろにひかえて、美しい黒髪を高く結い上げて。
あぁ、前回とは表情が違う。獣のような鋭さを失って、彼女の視線は丸みを帯びている。
そして、その
◇
それからの数年は、つらかった。
会うたびに彼女は美しくなり、そして徐々に大人に近づいていく。
ティズ様は
きっと、あのイシュという女の子がいるからだ。あの子が大人になるのを待っているのだ。
そう思ってしまうと、もう耐えられない。
ずっとずっと好きだったのに。あの人が誰かのものになってしまうなんて――。
◇
そんな中、私自身に大きな転機が訪れたわ。
パパがね、亡くなったの……。
突然の戴冠。悲しむ余裕もないほどに慌ただしい日々。
でも、そんな中でも、私の頭はよく働いた。
どうしてあの時、あんなに冷静に……冷酷になれたのだろう。
「国内の貴族の息子は必要ありません。派閥争いの種になるだけです」
私は神官たちにそう断じた。
十七歳の
「婿として必要なのは、他国の王子です。外敵の侵略を防ぎ、交易を拡大するために、わたくしは
そうよ、私は――
ティズ様に大事な人がいると知っていて。
私が、二人を、
――引き裂いたのよ。
◇
イアフと中庭で衝突した後、ふらふらと部屋に戻った。
崩れた私を励ましてくれたのは、中庭の猫ちゃんたちだった。にゃーにゃーと私の足にすり寄って、やわらかな毛でなぐさめてくれる。
ありがとう、みんな優しいね。
その中に
二人の顔を見てしまうと、もう、ダメだった。
「私ね……私ね……本当はひどい女なのよ……」
そうよ、私、ずっと良い子ぶっていたのよ。
本当はティズ様を苦しめた張本人なのに、ずっとそれを隠して彼の妻をしていたの。
足もとでバステトがにゃあにゃあ鳴いている。さっきの出来事をウヌウヌに伝えてくれているみたい。
「私たちは……イアフがいるから仲良くなれないんじゃないの……全部全部私が悪いのよ……それなのに、私ったら全部イアフのせいにしてたんだわ」
「アルシノエ……」
ウヌトが私の頭を撫でてくれた。あぁ、ウヌトはいつも私の側にいてくれる。こんな私の側に。
「まぁ、こんなに泣いて……ねぇ、
うなずいたウヌヌが部屋を出ると、黒猫もそれに続いた。
部屋に二人きりになって、ウヌトは私を椅子に座らせる。そして肩にそっと手をのせてくれた。
「ねぇ、アルシノエ。あなたは初めて自分と向き合ったのね」
彼女は、子どもに言い含めるような調子で続けた。
「誰かを好きになるってね、嬉しかったり楽しかったり、切なかったり悲しかったり――そんな綺麗な感情だけじゃないのよね」
「どういうこと……?」
「好きになるって、自分の心が自分のものじゃなくなるってことだわ」
ウヌトは自分の胸を抑えて、少し苦しげに笑った。
「だいぶ昔の話だけど、バステトがウヌヌに求婚しつづけたことがあったのよ」
「え……!?」
「バステトのことが許せなくてね。
「そ……そんなことがあったの?」
「ついでにバステトを拒みきれないウヌヌにも腹が立って、あの長い耳をつかんでぶんぶん振り回してやったわよ」
「えぇ!」
そ、そんな凶暴なウヌトは想像がつかないわ……。
「ねぇ、信じられないでしょう?」
クスクスと笑って彼女は続ける。
「人を好きになると、自分が自分でいられなくなっちゃうことがあるのよ。自分の心なのに、うまく制御できないの。そんなに変なことじゃないわ」
でも、と私はうつむいた。
「……だからって、やったことが許されるわけじゃないわ……私がティズ様を苦しめたことは事実よ……」
彼にとって、そしてあの少女にとって――ある日突然降りかかった理不尽な離別は、耐えがたいものだったに違いないの。
――私が彼を失うことを受け入れられなかったように。
それを思うと――そして、そのことから目を背けていたってことに――自分の心臓をえぐりだしたくなるのよ。
「アルシノエ、私たちも人間も美しいだけではいられないわ。醜いところがあるのよ。それを認めて生きていかなきゃいけないの。それに婿殿は……」
その話をさえぎるように、突然。
私たちは暴風に巻かれた。
「きゃあ!!」
な、なにっ!? 部屋の中がまるで砂嵐のよう……!
すぐそばにいたウヌトが吹き飛ばされた。その
私も椅子から転げ落ちた。必死に身を伏せたけれど、体を持ち上げようとする風の力に逆らえない。
おかしいわ!! ここは部屋の中よ!?
暴風がやまない。何が起こっているのか分からない。体に当たる砂が痛い。
「くっくっくっ」
ごうごうと
「お前が今の
その声から逃れる間もなく。
私は、意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます