終章 ファラオとむこ殿の実りの季節
1.ファラオ、本気の夫にせまられる
「だから、たまには私とお話しする時間をもうけていただけないでしょうか」
私の目の前、息がかかるほどの距離で、凛々しい瞳に見つめられている。
ここは宮殿の自室。その石壁に追いつめられ、私はちっとも身動きがとれない。
そう、私、夫にせまられているのよ。
「アルシノエ様……舟旅の時にはあんなに親しくしてくださったのに、どうしてまた私を無視なさろうとするのです?」
そう言ったティズ様の口調はやわらかいけど、瞳は切なく揺れている。
「こ、こんな風に無理やり忍びこんでいらっしゃるからです……!」
彼の瞳から目をそらし、私はなんとかそれだけ言った。
あの舟旅から一月がたった。あれ以来、ティズ様とは一度も言葉を交わしていない。顔を合わせるのだって、これがほとんど初めてなの。
うぅ、久しぶりの生ティズ様……やっぱりカッコいいよぉ。
彼の若いオリーブの瞳が私をとらえて離さない。でも今の私はどうしてもそれを受けいれられない。受けいれちゃいけない。
「でも、このようにしないと顔も合わせていただけない。それが俺には苦しいのです。アルシノエ様、もし俺が何か気に
違うの、違うのよ。あなたに悪いところなんて一つもないの。
ただ、状況がそれを許さないだけで――。
なんとか彼に帰ってもらおうと言葉を探した。でもそれが見つからないまま、気まずい沈黙が続く。
ふぅっとティズ様が吐息をもらして、それが私の耳を撫でた。
「俺だって、いつまでもそんなに忍耐強いわけじゃないんですよ」
「ど……どういう意味で……んっ……!」
私の言葉は途中でさえぎられた。
彼の唇が、私の唇をふさいだのだ。
強引な口づけに戸惑っているうちに、温かいものが私の舌にふれた。ふぇぇ、ティズ様の舌が入ってくる!
うぅ、なにこの
全身から力が抜けていく。そんな私の腰に手を回して支えると、彼は唇を離して私の瞳をぎゅっと射抜いた。
「イヤならイヤだとはっきり言ってください。そうしたらちゃんとやめますから」
うぅ、だめよ、ずるいわ。イヤなわけないんだもの。
でも、このままこんなことを続けていたらティズ様の身が危ないのよ……。
迷っているうちに彼のお顔がまた近づいてくる、身構えると今度は耳たぶをかじられた。
うぇぇぇぇ今日のティズカール様、大胆すぎるよぉぉぉぉ!!!!
だめよ、このまま流されてちゃ、ちゃんとイヤだと言わなくちゃ!
それでも抵抗できない私を救ってくれたのは、部屋に駆け込んできたアヌだった。
「おい、
アヌの黒い尻尾がぴんと逆立って、吠えたてるようにティズ様に挑みかかる。
ちょっとアヌったらまたやり過ぎよ! でもこれでなんとか助かったわね……って思ったんだけど。
ティズ様は全然動じなかった。
むしろアヌに見せつけるように私の手のひらをとって、甲に口づけをした。
ふぇぇぇぇ……!
「こんばんは、アヌビス様。今は夫婦の時間ですので、邪魔しないでいただきたい」
「お、お前っ! この“闇のアヌビス”に逆らう気か!? いいからアルシノエから離れろ!」
「異邦の出身ですので、アヌビス様の権威についてはよく存じません。そもそも夫婦で睦みあって何がおかしいのです?」
ふざけんなと吠えて、アヌが牙をむいた。や、やばい喧嘩になっちゃう。ティズ様ったらどうしてアヌを挑発するのよー! さすがに神様には勝てないわよっ!!
「アルシノエ!」
「は、はいっ!」
「この無礼な婿殿に教えてやれ。忍んで来られても迷惑だってな」
突然アヌに要求されて、私は一瞬ためらった。
でも、言わなきゃ。本心じゃなくても、彼が本当は大好きでも、ずっとずっとこうしてくっついていたくても――。
「おい、分かってるだろ!」
アヌに
「離してください、ティズカール殿」
心の中の自分を黙らせて、私はつとめて冷たく言った。
「あなたにここに来られても、困るのです」
その言葉に弾かれるようにティズ様が
でも、これでいいのよ。こうしなければいけないの。
だって、ティズ様を守らなければいけないし。
それにティズ様だって、本当に私のことが好きなわけではないのだから――ただ、かたちばかり夫婦になりたいだけで。
それを私は最初から分かっていたのだから――。
「本当にご迷惑だったのですね……」
そうおっしゃる彼の瞳の色が、すうっと
やめて、どうしてそんなに悲しい顔をするの――!?
◇
あの舟旅から戻ってきた私を迎えたのは、ひどい有様になった自分の部屋だった。
「こ……これ」
「あーぁ、またイアフにやられちゃった」
重たくなった空気を振り払うように、私はなんでもないことのように言った。
寝具が切り裂かれ、
大事な衣服も
そうだわ、舟旅が楽しくて忘れてた。憎たらしい弟の存在を。浮かれていた気分がスッと冷めていく。
「アヌ、ウヌウヌ、バステト……舟旅に連れて行ってくれてありがとうね」
私はにっこり笑う。
「すっごく楽しくて、ティズ様との思い出もたくさんできたから、イアフが婿入りするまでのあと四ヶ月くらいなんとか頑張れそうよ」
ふとぐちゃぐちゃになった寝台を見ると、その切り裂かれたシーツの合間になにかが見えた。
「人形……」
それは、かつて私が大事にしていたお
抱き上げてハッとした。その男の子の胸に、
そこには、よく見なれた汚い文字が。
『むこどのと、仲良くなれてよかったな』
背すじが冷えた。一見、祝うかのような言葉が、赤いインクで書かれていて――それがまるで血のようで――。
これは予告だ、とすぐ分かった。“お前のお気に入りを奪ってやるよ”という弟の挑発。
人形を持ち上げた手が震える。そんな私に、バステトが寄り添ってくれた。
「アルシノエに怖いことが起きないように、私たちがちゃーんと守るにゃ」
ウヌウヌも私のそばにやってきた。でも、アヌだけが硬直して青ざめたまま、一歩も動かない。
「アヌ……どうしたの?」
「いや、なんでもない……」
そう言いながらも、部屋の中をさまよう彼の視線は、まるで
◇
それ以来、私はティズ様を徹底的に遠ざけた。
普通の夫婦でもダメだわ、仲が悪いと思われるくらいじゃないと。イアフの興味が決してティズ様に向かないように。
ああ、でもそれだけじゃない。私はもう無邪気にティズ様のおそばにいられない。
だって見てしまったから――。
舟旅から戻った翌日、彼のもとに故郷の家族から贈り物が届いた。神官が中身をあらためてから(そういう規則なのよ)、彼のもとに届けたのだけれど。
その中の一つがとてもめずらしく、この世のものとは思えぬほど美しかったんですって。
彼はそれを受け取るとすぐに街に出かけた。私はその様子を偶然見かけてしまったのよ。
ティズ様が胸に抱えていたのは、
ティズ様、あなたはご存知なのかしら?
その花束を見つめる自分の瞳が、痛々しいほどあたたかい色を
だから、私は分かってしまった。
あの花束は、あなたの本当に愛している少女から贈られたものなのだと――。
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