8.むこ殿、己の中の野獣と戦う


 どう考えてもおかしい。


 お隣でイチジクの果汁ジュースを召し上がるアルシノエ様のお顔をじっと見つめがら、俺は目をこすった。


 ふわふわとしたやわらかそうな黒髪。明るいお人柄を象徴する赤銅しゃくどう色の肌。華奢な肩は一見頼りなさそうに見えるのに、その背筋はピンと伸びて清々しい。


 大きな瞳は、黒土国ケメトの大空よりもなお澄んだターコイズ。

 微笑めば、暗闇に光がさすようで――。


 うん、おかしい。


 ――このお方、こんなに可愛いかっただろうか?


 ◇


「ティズ様、ごらんください。夕日が丘の向こうに沈みます。宮殿の窓から眺めるときとは、また異なるおもむきがございますね」


 旅の七日目が終わろうとする刻限。俺と陛下は船の甲板かんぱんで見事な黄昏たそがれに見入っていた。

 砂漠を朱に染め上げて、恵みの神が世界に別れを告げていく。


「故郷でなじんだ夕日とも印象が違います。あちらでは陽は山々の向こうに沈んでいくものでしたから」


 そう申し上げると、夕焼けを映した瞳を細めてにっこりと微笑んでくださる。

 緩やかに笑みを作る唇を見ていると、ついあらぬことを考えてしまう。


 ――接吻キスしたい。


 できれば今すぐあなたの肩を抱いて、そっと背を引き寄せて。その見事に長いまつ毛がゆっくりと伏せられるのを見届けてから。


 ――アホか、俺は。


 自分のあまりの愚かさに嫌気がさして、彼女のお顔から目を背けた。


 おかしい。ついこの間まではこの方を隣にして、こんな不埒ふらちなことを考えたことなんてなかったのに。


 考え始めると、これまでの自分の愚行がまざまざと思い浮かんだ。


 陛下のお部屋に忍び込んで壁に追いつめ、耳もとに近づいたり。

 ひたいひたいを重ねようとしたり。

 きわめつけは、押し倒して無理やり唇を――。


 膝から崩れ落ちる思いだった。

 自分が信じられない。なんて無礼で野蛮な男だったんだ俺は。


 いや、待て。そうだ、俺に余計な助言をしたのはメジェド君だぞ。くそっ、あのシーツのかたまりめ!


 それにしても、ともう一度アルシノエ様のお顔をチラリとのぞいてみる。夕陽にみとれている彼女の瞳はあまりに清らかだ。


 出会ってまだ一年もたっていない、政略結婚によって結ばれた妻。

 俺は彼女のなにを知っているだろう。ともに過ごした時間も短く、まともに会話ができるようになったのもつい最近で。


 自分に失望する。俺ってこんな軽い男だったのか。


 ――本当に好きになる人は、人生でたった一人だと思っていたのに。


「ティズ殿、どうされました?」


 ふわりと甘い香りがした。気づくとこちらを見上げるアルシノエ様の瞳がやや困惑の色を表している。


 そうだ、婿の挙動がこんなに不審なら困りもするだろう。今まで通りに振る舞わないと。しっかりしろティズカール、お前なら大丈夫だ。


 そう奮起してみるものの。

 アルシノエ様――その上目遣いはいけません。


 それに、こんないい香りで近づかれると、やっぱり――


 ――接吻キスしたい。


 自分の中の野蛮な生き物を抑え込むために、俺は彼女から少し離れた。


 ◇


 舟旅八日目の早朝、出発前。

 寝所としてあてがわれた神殿の一室を出て、俺は中庭で陽射しを浴びた。付き添うネイハムに持たせた木刀は、俺が普段から愛用しているものだ。


 ぐっと大きく体を伸ばす。舟旅はどうしても体が固まるから、朝のうちに体をほぐしておかないと。


 それに、剣の腕がなまるのも避けたい。隊商をひきいて暮らしていた頃は、山賊に襲われることもしばしば。もちろん傭兵を雇うこともあったけれど、自分の腕を磨くにこしたことはない。


 素振りを繰り返してまずは軽く汗を流す。無心に剣を振るい空気を裂く動作は、体に馴染んで心地よい。


「ネイハム、手合わせしてくれ」


「承りました。でもティズ様、ちゃんと手加減してくださいよ。本来は俺たちじゃ相手にならないんですから」


「じゃあルツも呼んでくるか。二対一ならいいだろ?」


「どうしたんです? このところ鍛錬たんれんに力が入りますね」


 返答をはぐらかしつつ、相棒を呼びに戻るネイハムを見送った。


 力が入る理由は分かっている。何のために鍛えるか、その目的が明確になったからだ。


 瞳を閉じて息を整える。


 さぁティズカール、あの事故で味わった恐怖を思い出せ。

 あの時は落下する荷からアルシノエ様をお守りすることができた。けれどまたいつ危険が迫るかわからない。彼女はこの広い黒土国ケメトを治める唯一無二のお方で――俺の妻だ――。


 ――彼女を守るために、強く賢い夫であらねば。


 ◇


 舟旅最後の朝、夜明けとともに舟に乗りこむと、甲板でアルシノエ様が風をあびていらっしゃった。


「ティズ様、おはようございます。どうぞこちらへいらっしゃって」


 俺を見つけてそう呼びかけてくださった彼女は、腕を後ろに回して何かを隠している。表情もはにかんだようで、なんだろうと思いつつもおそばに近づく。


 その足もとに黒犬のお姿のアヌビス様がうずくまっていた。ちょっとくっつきすぎじゃないですか。


 思い出すのは王弟のイアフメス様と蠍女神セルケト様の仲むつまじいお姿だ。神々と言えど油断できない。特にアヌビス様には二人の時間を邪魔されたこともある。警戒してしかるべきだろう。


「アルシノエ様、今日もよい朝ですね」


 お隣に並ぶこともお名前を呼ぶことも、もう不自然に感じない。この舟旅で俺たちはやっと普通の夫婦に近づけた気がする。連れてきてくださったことに感謝しなくては。


 そんな風に感じていたのが伝わったのだろうか。


「ティズ殿、この十日あまりの旅、とても楽しかったです。一緒に来てくださってありがとうございます」


「とんでもない。楽しかったのは私の方です」


 同じ気持ちでいてくださったのだと思うとそれだけで頬が緩む。けれど、さらに彼女は隠していた両手を俺に差し出した。


 その小さな手の平に、あしで編んだ小箱がのっている。


「これは……?」


 ティズ様に差し上げます、とおっしゃる声がか細い。どこか不安げな顔でこちらをのぞいている。


「ティズ様は冬にお生まれになったのでしょう? 新たに歳を重ねたお祝いです」


「ご存知だったんですか……?」


 アルシノエ様のような大国のファラオならばとにかく、一般の人は誕生を祝うことなどあまりしないものだ。俺の故郷でもそうだったし、きっとこの国でもそうだろう。


 それなのに、贈り物まで用意してくださったなんて。


 開けてみてもいいですか、と小箱を受け取る。彼女はうつむくようにうなずいた。その耳が少し赤い。


 ゆっくりふたを外す。何かがきらりと朝焼けを弾いて光を放った。


「すごい……」


 箱の中に収められていたのは眩ゆい紅玉ルビーにガラスのビーズ。

 手にとってみれば、それはひとつに連なる首飾りネックレスだった。


 まつ毛を伏せたままアルシノエ様が言う。


「なにか贈り物を差し上げたいと思って……ティズ様がこんなものお好きかどうか分からないですけれど。気持ちだけはちゃんと届けなきゃと思って、全て自分で紐に通しました」


「アルシノエ様が、ご自身で?」


 陽光をたたえる紅玉ルビーが明るい。


 ――どうしよう、すごく嬉しい。


「ティ、ティズ様……!?」


 気づけば俺は彼女を抱きしめていた。自制する余裕もなかった。


 ずっと自分のことを人質ひとじちなのだと理解してきた。俺たちは政治的な思惑で結ばれただけの夫婦だと。


 でも、彼女はご自分の手でこの首飾りを作ってくださったのだ。


「ありがとうございます……大事にしますね」


 ◇


「というわけで、ついそのまま接吻キスしてしまいそうになったんですけど、アヌビス様に吠えられて正気に戻りました」


「ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 俺の寝台の上で白布が激しく転げ回っている。胃の底から絞り出すように声をあげて悔しがっているのはメジェド君だ。


 宮殿の自室に戻った俺は、留守を守ってくれたこの神様にせまられ、旅の一部始終を報告した。


 聖河ナイルの風に吹かれながらアルシノエ様とたくさん話ができたこと。

 市場での事故と彼女の毅然きぜんとした対応。

 そして彼女が贈り物をくれたこと。


 とってもいい旅でしたよ、とにっこり笑うと、メジェド君は絶叫した。


「くそぉ、我も行けばよかったぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 突っ伏して足をばたつかせている。あ、白布の中身が見えそう……いや、見えないか。うん、そもそも見たくはないな。


「うっうっ、まさか我の知らぬうちに“デート”や“名前呼び”、おまけに“ハグ”まで……しかも!」


 突然ベッドから這い出ると、白布を揺らしながらずずずいっと俺に近づいてきた。例の炭で塗ったような目がまた巨大化している。


「ティズ君……要するに心境の変化があったってことじゃな?」


「まぁ……はい」


「どういう変化か言ってみよ。我に教えてくれ!」


「嫌ですよ、そんな。恥ずかしい」


 断ると、メジェド君の目からぶわっと水があふれ出てきた。えぇ、この神様泣いたりするの!? ていうかどうやって布から水が!?


「頼むぅ……ティズ君の名場面を見逃した我のために、我を慰めると思って……!!」


 ぼろぼろと泣かれると弱ってしまうなぁ。というか、ちょっと怖いし。


 しようがない、と俺は咳払いをする。そしてすぅっと息を吸った。


「俺、アルシノエ様のことを好きになってしまったみたいです」


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 今度は歓喜の声をあげて、メジェド君がひっくり返った。


 まったく、大げさなんだから。



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