5.むこ殿、心に澄んだ空


 風のない、よく晴れた早朝。

 俺と陛下は手を繋いで市場のにぎわいにまぎれこんでいた。


「見てくださいティズカール殿! あの者たちはいったいなんですか!?」


「あぁ、あれは床屋ではないですか? 客待ちをしているんですよ」


「ではあの茶色っぽいかたまりは!?」


「パンですよ。陛下が普段お口にされているものとは原料も製法も違うので、見た目が違うのです」


 最初はおそるおそるといった様子の陛下だったが、今や俺を引きずる勢いで市場見学を楽しんでいる。

 どうやら市場を――というか街を歩き回ること自体が初めてらしい。


 こんなお姿は宮殿では決して見られないだろうなぁ。

 瞳を輝かせる陛下の隣にいると、俺まで胸がわきたってしまう。


 いつのまにか足元の猫女神バステト様もどこかに消えてしまって、俺たちは二人きりの時間を楽しんでいた。


 市場はにぎやかだった。人が行き交い、駱駝らくだもちらほら見られる。


 俺の母国と違って黒土国ケメトには商人がいないので、みな自分の作ったものを持ち寄って物々交換をしているようだ。


 粗末なむしろの上に野菜を並べている者、カゴの中にサンダルを積んで売り歩く者、手ぶらで売り物を眺めるだけの者。


 この活気がとても懐かしい。商人として世界を旅して回った頃を思い出してしまう。


「ティズカール殿、どうして手ぶらで来て物を持って帰る人がいるのでしょう?」


「染織工や大工などの職人なのでは? きっとすでに相手との取引が成立しているんですよ」


「なるほど! あ、ティズカール殿、あれは……」


「あの陛下……」


 俺は彼女の手を引き返し、思い切って提案してみた。


「できれば私のことは『ティズ』とよんでくださいませんか?」


 はたと俺を見上げる陛下の頬が紅潮する。あれ、俺、変なこと言ったかな?


「『ティズカール』では長ったらしいし、異邦の名は市場では目立ちます。嫌でなければ、ぜひティズと。親しい者はそう呼びますので」


「……ティズ殿」


「そうです、今後はぜひそのように」


 陛下は頬を赤らめたまま、あの、と口ごもってしまわれた。


「では、私のことも……名前で呼んでいただけませんか?」


「え?」


 驚き、ためらってしまう。そんなおそれ多いことが許されるだろうか?


 けれど俺の手を握る力は必死だった。


「嫌ならいいのですけど……私も名前で呼んでいただきたいのです。だって、だって、私たち夫婦なのですから……」


 俺の視線はターコイズの瞳にぎゅっととらえられた。胸がどきりとはずむ。


「二人きりの時だけでいいのです。ティズ殿は、そういうのは嫌ですか?」


「そんなことありません」


 今度こそ即答して、彼女の手を握り返した。笑みがあふれてしまう。


「すごく、嬉しいです――アルシノエ様」


 ずっと良い夫婦になりたいと思っていたのだ。嬉しくないはずはない。


 そのせいだろうか、胸のうちがやけに苦しい。きゅっと体の芯をつかまれたような痛みを感じて……。


 その時、不意に突風が吹いた。


「陛下――!!」


 遠くから絶叫。市場にまぎれた兵士の声だ。そして、視界がかげる。


「危ないっ!!」


 俺は陛下の手をひいた。小さな体を抱いて後ろに飛びすさる。何も考えていなかった。ただ、必死だった。


 どしり、という衝撃音とともに、悲鳴が市場に響いた。


 先ほどまで彼女がいた場所に巨大な荷が転がる。見上げると、目の前に駱駝らくだが。どうやらその背から荷が落ちたようだ。


 背筋に寒気を感じた。

 荷は俺のつま先をかすめている。俺が間に合わなければ、アルシノエ様は――。


「す、すいません!!」


 壮年の男が駆けつけてきた。駱駝の持ち主らしい。しっかりと積んだのですがと、しどろもどろに説明し始めたが、彼はあっという間に兵士たちに囲まれてしまった。


「貴様、まさかファラオに害意あって!?」


「ふぁ、ファラオ!? そ、そんな滅相もない……!!」


 そんなやり取りの間、俺は少女を抱いた腕を緩めることができなかった。

 万が一にもこの方を失うことがあったらと思うと――だめだ、それは絶対だめだ。


 抱きしめた小さな体。この方を守って差し上げたいと思った。ファラオだからという、それだけではなくて――。


「お前たち」


 腕の中で陛下が声を発した。その厳然とした声音に、俺はハッとする。


 彼女は体を起こして立ち上がった。一方俺は倒れ込んだまま、少しも動けず、彼女のけっして大きくはない背を見守る。


 その後ろ姿は、凛としていた。


 つい見惚れてしまうほどに。


 兵士たちも、彼らに縄をかけられた壮年の男も、その場の全ての人間が思わず膝をついた。騒然とした市場が静まり返る。


「私がここにいることをこの者が知っていたはずはありません。昨晩私が思いついてここに来たのだから。決して害意あってのことではない。けれど……」


 陛下はゆるりとあたりを見渡す。男が連れた駱駝は三頭いた。残りもずっしりと荷を背負っている。


「荷の積み方が甘いのであれば、それはこの男の罪。これらのことを踏まえて公正に取り調べをするように。その結果は必ず私に伝えなさい」


おおせの通りに!」


 兵士が応じ、粛々しゅくしゅくと壮年の男を連れて去った。その後ろから駱駝も手綱たづなを引かれていく。


 唖然と座りこんだ俺を、陛下が振り返った。俺は焦る。ファラオの威厳に圧倒されていた。ひざまかねば、と体を起こそうとした。


 けれど、俺を見つめた陛下の瞳がじわりとにじんだ。


「ティズ様! お怪我はありませんでしたか!?」


「お、俺ですか……?」


 ご自身が命を失いかけたのに、俺の心配を?


 彼女はうろたえたように座りこんだ。そして放り投げる勢いで俺のサンダルを外し、裸足の足をじろじろと見回す。それから優しく足をさすってくださった。


「よかった、お怪我はないですようですね……どこか痛いところはありませんか? ひねったりとか、他にも……」


「アルシノエ様……あの……」


 あぁ、ダメだ、と思って俺は天を仰ぐ。

 空が青い。まるでアルシノエ様の瞳の色のように。


 いや、違うな、これは――。


 とりあえず俺は言う。


「足にふれられるのは……ハズカシイデス」


「す、すいませんっ!!」


 彼女は俺から離れてくださった。


 ――よかった。これ以上ふれられたら、ちょっと耐えられなかったかも。


 だって、すでに信じられないくらいに体が熱い。


「ティズ殿、とりあえず神殿に戻りましょう。このままでは大騒ぎになってしまいます」


 困惑しているうちに陛下に手を差し出されてしまった。またどきりと胸が痛んで、これはマズイ、とまぶたを閉じた。


 けれど、瞳を閉じてもなお、俺の視界には青空が広がっている。

 澄みきったターコイズの、美しい青が。


 あぁ、やっぱり――心に焼きついてしまった。


 意を決して彼女の手をとった。

 ひざまずいたまま伸べられた手を握り、そのお顔を見上げる。本当に、こうして見ればただのお若い少女なのに。


 愛おしい、と強く思う。

 守ってあげたいと思ったし、同時にカッコいいとも感じてしまった。


 どうしよう。胸が苦しい。


 これは……だいぶ重症だ。




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