4.むこ殿、ファラオの手を取る



 舟は聖河ナイルを下ってなめらかに進む。


 俺は妻であるファラオの視察旅行に連れられて、陛下の舟に同乗していた。


 目指すは下流のファイユム低地で、陛下はそこで行われている治水工事をご見学されるそうだ。


 往復十日間の行程で、夜は陸に上がって神殿に泊まる計画だと聞かされている。陛下が乗るこの舟以外に、護衛や荷の運搬で五艘そうが同行する大がかりな旅。


 しかも神々も一緒だった。

 神話の神々が、麦酒ビールを飲んだり喧嘩したり料理をふるまったり。


 うーん、どうも黒土国ケメトの神々は親しみを持てる方が多いようだ。バビロニアの神様は洪水起こして人間を試すような方たちだから、かなりの違いを感じるなぁ。


 ちなみに俺の守護者であるメジェド君はこの旅には同行していない。「我はほかの神とタイプではない。一匹狼なのじゃ」と言っていた。


 とはいえ彼は事前に旅の心構えを叩き込んでくれた。


 そのおかげで陛下が舟の揺れを苦手とすることや、食事は寄り添って手ずから差し上げるべきだということも事前に知っておくことができた。


 また変なこと言ってるなぁと思わなくもなかったけど、実際に陛下が俺の腕にしがみついたり、そのまま食事を召し上がってくださったので、やっぱりメジェド君は頼りになるなぁ、と感謝している。


 ◇


 旅は三日目。宿泊地の港から舟に乗り込む。


 風が気持ちのいい朝だった。常に強い日差しのあるこの国の、もっとも過ごしやすい季節が今だ。

 外の風にあたろうと甲板かんぱんに出ると、陛下もそこにいらっしゃった。


「おはようございます。良い風が吹いていますね」


 そう話しかけると、ひかえめながら微笑んでくださった。おそばに寄るのもお話をするのも、だいぶ慣れてきたなぁ。


 しばらく二人で河岸の景色を楽しんだ。

 陛下は目にうつるあらゆるものに声をあげて喜んで、その瞳はおさえようもないほどの好奇心で満ちていた。


「見てください、ティズカール殿。あそこで農民たちが種をいています」


「あ、あちらに見えるのは葡萄ぶどう畑かしら?」


「すごいたくさんの魚! あのむしろの上で天日干しにするんですね」


 特に市井しせいの人々の普通の暮らしをかいま見るのが何より楽しいようだ。その様子を見ていると、つい笑みがこぼれる。

 それに気づいてか、陛下がこちらをちらりとのぞいた。


「……わたくし、はしゃぎすぎでしょうか?」


「いえ、陛下が楽しそうで、俺も嬉しかっただけ……うわっ」


 突然舟が大きく揺れた。甲板が傾き、陛下の態勢が崩れる。


「危ない!」


 俺はとっさに彼女の腕をつかんだ。その小さな体を引き寄せて、しっかりと抱きとめる。


 胸の中で、陛下の心音を感じた。鐘を打ち鳴らしたようにドクドクと。


 本当に舟の揺れが怖いんだな、かわいそうに。


「陛下! 申し訳ございませんっ」


 先導する舟の上から、衛兵が声をあげた。彼女は俺から体を離すと、兵士の声に耳を傾ける。


「牛飼いが渡した綱が進行をさえぎっておりまして。今、それを撤去させるように……」


「牛飼いの綱、とは?」


 陛下に問いただされて、若い兵士は青ざめた。叱責されていると思ったのだろう。

 でも、多分そうではないな、と俺は気づいた。


「陛下、家畜とともに河を渡る際には、流れに体をさらわれないように綱を張り、それをつたっていくのですよ」


「なるほど! でも河を渡るだなんて……聖河ナイルにはワニもいるというのに……心配だわ」


 兵士が再び声をあげた。


「河を渡るときには呪文を唱えるのです。ワニやカバに出会わないようにと」


「そうなの……。私、その様子を見守りたいわ」


 え? と兵士が目を丸くした。


「綱を取りのぞく前に、先に牛を通しなさい。私も彼らの無事を願い、一緒に呪文を唱えましょう」


 ◇


 そして彼女は本当に家畜の渡河とかを見守った。川につかる牛飼いたちの顔がガチガチにこわばっていたのは、危険な猛獣を警戒してばかりではなかっただろう。


 夕餉ゆうげをいただきながら、お隣の陛下と話がはずむ。彼女は今日見知ったものをもう一度噛みしめるようにお話してくださった。


「牛飼いはあんな危険なことを繰り返しているのですね。彼らのおかげで乳や乾酪チーズを楽しめているのに、私ったらそんなことすら知らなかったなんて……もっと勉強しなければいけませんね」


 失礼だけど……可愛いなぁ、と頬が緩んでしまう。


 経済・軍事・法、どれをとっても博識の陛下だけれど、普通の民の暮らしは知らないんだ。


 当然のことだし、知らなくても責められるようなことじゃない。それなのに、生真面目きまじめに反省されている姿が愛らしい。


 黒土国ケメトに婿入りすることが決まったとき、大国のファラオとは冷然とした厳格な君主なんだろうと想像していた。


 よわい十七にして玉座につき、広大な国土をべる、“神の牧人まきびと”。


「ティズカール殿……私の話、長くてつまらなかったかしら?」


 俺が考えこんでいたせいで、また陛下に心配させてしまったようだ。


 そう、実際の彼女は思いやり深い方なのだ。国の端々に住まう民の暮らしまで気を配る、繊細せんさいな女性。


「いえ、すごく楽しくて、もっとたくさんお話していたいくらいです」


 陛下はよほど安心したのだろう、はにかむようにうなずいた。こんな時、チラリと十八歳の女の子の素顔がのぞく。


「陛下、明日にはファイユム低地に到着するようですね」


「えぇ。低地の治水工事を視察して、近くの街で一泊するようです。実はこの街を訪れるのも楽しみなのです。すごく大きな市場が開かれる活気のある街なのですって。もちろん私たちが見られるのは神殿の周りだけですけど……」


「もしかして、市場を見てみたいのですか?」


 はずんでいた声がしぼんでいくので、彼女のお気持が察せられた。あれだけ好奇心旺盛おうせいなこの方のことだ、市場の様子は気になるだろう。


「それは……その……見てみたいのですけど。私が見たいと言うと大ごとになってしまうから……」


 すると、俺の隣からすっと猫女神バステト様が現れた。そして俺の肩に顔を乗せて、にゃぁんと鳴く。


 うーん、この猫の神さま、やけにくっついてくるんだよなぁ、どうしたらいいんだ……。


「じゃあお忍びで行けばいいにゃあ。近くで私が見守るにゃ。時神トート、あんたも来るにゃ!」


「そうだな、俺は空から見守ろうか」


 バステト様の向こうでトート様がニヤリと笑った。その笑顔からは大人の男の色気がただよっている。引き締まった黒々としたお体に、じゃらじゃらと飾り立てた金銀宝石がよくお似合いだ。


 彼はバステト様を俺から引きはがすと、大きな手で俺の肩を小突いた。


「俺たちが見守っててやるから、婿殿はアルシノエを連れ回してやってくれ。市場のことならよく知っているんだろう?」


 おお、仕草まで男前だな、この神様。


「行ってらっしゃいにゃー」


 バステト様もトート様の腕にしがみつきながら同意する。


「はっはっはっ、私も新鮮な食材を手に入れるために同行……いてっ」


 高らかに笑う隼神ホルス様のスネを蹴って、真理女神マアト様もにっこり笑っている。


「そうでちゅ、二人で行ってくるでちゅ」


 神々に後押しされ、どうしますかと陛下を振り返ると、そのターコイズの瞳はもうきらっきらに輝いていた。


「行きたい! 絶対行きます!!」


 ◇


 ファイユム低地の視察は、丸一日かけて行われた。


 ケアトの間に行われた掘削くっさく工事の結果、低地には大きなくぼみができあがりつつある。丘から眺めるその景色は壮観だった。


 すでに神殿の一つや二つは入りそうな規模の穴が彫られているが、最終的には古代の王墓ピラミッドがすっぽりと隠れてしまうくらいの大きさになるそうだ。


 その土地と聖河ナイルを運河でつないで、低地に掘られた穴は人口の湖になるのだとか。


 こんな大掛かりな工事の実行を命じるなんて、と俺はファラオの巨大な権力にめまいがしそうだった。


 けれど、視察の際には鋭い瞳で技師や神官の話を聞き、質問の雨を浴びせていたファラオは、舟に戻ればただの十八歳の少女に戻っていた。


「ティズカール殿、明日の市場見学とっても楽しみですね!」


 無邪気な笑顔につい見とれてしまう。お仕事中のお姿との落差になんとも言えない気分になる。


 えぇと、こういう気分を黒土国ケメト語でなんというんだったけか。前にメジェド君に教えてもらったはずなんだけど……。


 ◇


 夜が明けて、俺たちは宿泊地の神殿を出た。


 あくまでもお忍びということで、陛下の足もとに黒猫姿のバステト様がいる以外は二人きりだ。

 あ、空で旋回せんかいしながらこちらを見守っている朱鷺ときの姿のトート様もいるね。


 もちろん、人間の兵士たちも街の角ごとに配備されている。一見兵士だとはわからないように一般人のふりをさせてはいるけれど。

 その中のどこかに俺の従者のルツたちもいるだろう。


「では、参りましょう、陛下」


 俺は手を差し出した。陛下は俺の手と顔を交互に見ながら立ち止まっている。


「早朝とはいえ、市場は人が多いのです。手を繋いでいないとはぐれてしまいます」


「は、はい……」


 彼女はおずおずと自分の手を俺の手のひらに重ねた。小さくて薄い手だ。俺はその手を大事に握る。


「さぁ、参りましょう」


 こうして、俺と陛下は市場の見学に出かけた。

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