3.ファラオ、むこ殿と旅行に出発する


「えー、本日もまこと多忙な中、こうして集まっていただき、ありがとう」


 こほんと咳払いをして、アヌが話し出した。あら、めずらしく尻尾がぴんと張ってるわ。


 私たちは聖河ナイルを下る舟上に集まっているの。甲板かんぱんの上に小さな部屋をのせたような舟ね。室内の床には上質な亜麻布を敷きつめて、脇息きょうそくも用意させて。のんびり舟旅、というわけ。


「はははははは、黒犬神アヌビスどうした!? 緊張するなど、がらじゃないだろう」


「うるさい、隼神ホルスは黙ってろ!」


「お兄ちゃん、また嫌われまちゅよ〜」


 うーん、それにしても……なんでこんなことになったのかしら。


 広いはずの舟内は、人と神々でごった返している。


 黒犬神アヌビス隼神ホルス真理女神マアト兎夫婦ウヌウヌ猫女神バステト時神トート


 別にみんなでついてこなくてもいいのにね。


 そして。


 細長い舟内の一番奥に用意された席で、私はちらりと隣を見た。そこには、神々の大騒ぎにあっけにとられるティズカール様。


 はう〜今日もステキ。はっきりとしたお顔立ちに、朱色の腰衣シェンティがよくお似合いだわ。今日は丈が長くて細かいドレープが入った高価なものをお召しになっているのよね。


 私と同じで、この旅行に合わせてお召し物を新調されたのかしら? そうだとしたら嬉しすぎない?


 もちろん私も身だしなみには気合いを入れたわよ。


 清楚な雰囲気で婿殿の心をわしづかみにするのよ、と意気込む黒兎女神ウヌトが用意してくれたのは、薄藍のチュニック。その上に純白透明の長衣カラシピスを重ねて、刺繍帯で腰を留める。

 装飾品アクセサリーは真珠でそろえて、全身を乳香できしめたわ。


 頑張ってキレイにしてきて良かった。だって真昼にティズカール様のお側に寄ることなんて今までなかったものね。


 あぁ、それにしても、陽の光を浴びるティズカール様がまぶしいっ、まぶしすぎるわ……!


「ちょっとアルシノエ、顔がだらしないよ、気をつけて」


 いけないいけない。右隣の白兎神ウヌヌに耳打ちされて、私は気をひきしめ直した。


 そうよ、いくら愚弟イアフ蠍女神セルケトの目を心配しなくてすんでも、ティズカール様の前で無様な姿は見せられないわ!


「はははははは、いいのかアヌビス? そんな風に私を邪険に扱うと、うまい食事にありつけないぞ!!」


「ぐぅ……」


 相変わらずアヌとホルスが部屋の反対側で言い争っていて、真理女神マアトが指しゃぶりをしながら薄い目でそれを眺めている。


「この国の神々は、みなさんにぎやかなんですね」


 ティズカール様が体を傾けて私の耳元でささやいた。うわわわ、船内が狭いせいで、自然と距離が近くなっちゃう! どうしましょう、私、いつまで正常でいられるかしら!?


「アヌとホルスは仲良しですからね。つい話が盛り上がるのでしょう」


「というわけで、皆の者、今日は私『炎のホルス』自ら腕をふるって食事を用意した! ぜひ楽しんでくれたまえ!! はははははは」


 調理着エプロン姿で高笑いすると、ホルスは部屋の扉を開けた。そして、次々に大皿を運ばせる。給仕役はティズカール様の従者たち。


 湯気が上がるのは、玉ねぎといっしょにじっくり煮込んだひよこ豆のスープね。うーんガチョウの串焼きがいいにおい。まぁ、カボチャとレンコンの揚げ焼きもあるのね! ホルスったら、私がレンコン大好きなのを覚えててくれたのね!


「ホルスの料理、おいしそうにゃ! ねぇ、ティズカール〜」


 あっ! ひどい、猫女神バステトったらさりげなくティズカール様のこと呼び捨てにして! しかもなんでわざわざ彼の隣に座るのよ!!


「あ、はい……」


「ホルスの超火力でこんがり焼いたパイは最高にゃよ〜」


 ああああああ! バステト、ティズカール様の腕に、か、からみついて!!

 やだやだ、だめ、ずるい!!


 私は彼を奪われまいと逆側から褐色の腕を引いた。


「ティズカール殿、こちらに麦酒ビールが!」


「えっ、あ、ありがとうございます」


「こっちの葡萄酒ワインも美味しいにゃ〜」


 麦酒ビールの瓶を差し出して彼を取り返そうとしたんだけど、またバステトったらティズカール様の腕を引っ張って――!! あ、しかも今こっち見て笑ったわね! なによ、その不敵な笑みは!?


 まさかバステトったらティズカール様を誘惑しようとしてるのかしら!? 今日もやけに胸もとが見える服を着てるし!! そりゃあ彼は世界一の殿方だけど――そんなこと絶対許さないわよっ!!


 今度こそ負けないわと決意して、私は両手でぎゅっと彼の腕をつかんだ。


 するとバステトはパッと彼の腕を離して、にゃあと一鳴きした。その目が三日月のように細められる。


「仲の良い夫婦にゃ、末永くお幸せににゃあ」


 え、バステトったらそんなにあっけなく行っちゃうの? わ、今度はトートにくっついて! ていうか、バステトがいなくなったら……


 残されたのはティズカール様と――彼にべったりとくっついた私だけ。


 ど、どどどどどどうしよう!?

 なんか勢いでくっついちゃったじゃない!! これ、もしかしてバステトの罠!?


 冷や汗をかいていると、くすり、と頭上で笑う声が聞こえた。


「アルシノエ様も麦酒ビールをお飲みになりますか? それともイチジクの果汁ジュースになさいます?」


 ティズカール様がいつもの調子でそう言ってくださる。表情もとっても穏やか。


「あ、では……イチジクで……」


「どうぞ」


 しがみついたままの私に、彼は瓶を差し出してくださった。それで私はストローに口をつける。


「美味しいですか?」


「……はい」


「お食事もされます?」


 彼は自由な方の手を伸ばして腸詰ソーセージをとると、どうぞと私の口もとに運ぶ。え、これ……このまま食べていいの……?


「い、いただきます」


 んん? なんかこれ……すごく仲良し夫婦っぽくない? このまましがみついていていいのかな?


 誰かに答えをたずねようと目線をあげると、神々みんながあたたかーくこっちを見つめてる。


 な、なによそのお花畑みたいな微笑み!!


「舟が揺れるのでご不安ですよね? 私でよろしければそのままつかまっていてください」


「えっ!? あ、はいっ」


 うわぁ、なんだかいつにも増して頼もしい……。すらりとした手足なのにしっかり筋肉もついているし。


 まずいわ、心音がこんなにうるさくて。ティズカール様に聞こえちゃうじゃない。


 チラリと見上げた彼は、従者に手伝われながら食事を楽しんでいる。いつも通りほがらかで、気取らないお姿。


 なんだか……ちょっとだけ胸が痛いなぁ。


 私だけこんな風にドキドキして。ティズカール様は私にふれられても、なんてことないんだわ。


 そりゃあそうよね――私が……無理やり婿にとっただけなんだもの。


 幼い頃に初めてお見かけして、それで気づいたら好きになっていて、夫婦になった今でもずっとずっと大好きで。


 ただ、私の一方的な想いなんだもの。


「陛下、どうされました?」


 黙りこんでいるとティズカール様に顔をのぞきこまれた。心配してくださっているのね。


 あぁ、私ったら贅沢ぜいたくになってるんだわ。彼が婿に来てくださった時には、お側にいられるだけでいいんだって気持ちだったのに。


 彼にも私を好きになってほしいって思うなんて。


「なんでもありません。それよりホルスのお料理は本当に美味しいでしょう?」


「そうですね、特にこのパイの包み焼きが……」


 そうよ、うじうじしたって仕方がないわ!


 愚弟イアフがいる間は難しいけど……でも、いなくなったらもっと頑張るの!


 とりあえず、今は食事と船旅と、そして彼の腕のたくましさを十分味わいましょ!!


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