2.ファラオ、バステトお姉さまに遊ばれる


 とっても忙しいケアトがやっと終わって、聖河ナイルの水量は順調におさまっていった。


「うふふ、このケアトはティズカール様とたくさんお話できちゃったわね」


 ファラオとしてのお仕事が終わった夕暮れ時、自室の窓辺で外を眺めながらついニヤニヤしてしまう。


 けど、背後からは二つのため息が聞こえてきた。


「たくさんお話……確かにそうだけど」


 振り返ると、黒兎女神ウヌトが首を横に振っていた。黒い巻き毛がふわふわ揺れている。


「その話の内容がねぇ……」


 彼女の横で、白兎神ウヌヌが肩を落としている。くるくる頭から伸びるウサ耳もしおれたお花みたい。


「なによ、せっかく仲良くなれたのに、何が悪いっていうのよっ!」


 悪くはないですけど、と兎夫婦ウヌウヌはじっとりとこちらを見つめてくる。


「話題が、経済や外交のことばっかりで……いや、僕もそれは立派だと思うよ。でも、もっとこう、夫婦らしい話をするべきだと思うんだよね」


「そうそう、せめて手を握りあい見つめあってみるとかね」


 ウヌウヌが実演しながらそう言うんだけど、もうっ、ほとんど抱き合ってるじゃない!


「市場の流通の話をしながらそんなことしてたら変人よっ!」


「アルシノエ、顔が赤いわよ」


「いい加減むこ殿に慣れればいいのに」


「む、無理に決まってるでしょ! 毎日あんなに格好いいのよ!?」


 はぁ〜とまたため息をつかれてしまう。


「でもさ、婿殿も真面目よねぇ。最近はよく夜に訪ねてきてくださるけど、なーんにもせずにお話だけして帰っていくなんて」


「こっちはれったいよね」


 そうなの、ケアトの盛りに私の部屋を訪れてから、ティズカール様はたびたび夜に忍んできてくださるようになったのよ。

 寝台のある奥の部屋には決して入らずに、お話をして帰るだけなんだけど。


 私はウヌウヌに口を尖らせる。


「まぁでも、そっちの方が都合がいいじゃない。神官たちのお世継ぎ要求もかわせるし。逆にあんまり仲良しになっちゃうとティズカール様が愚弟イアフメスの標的になっちゃうし」


 ウヌヌが白い耳をぴこぴこさせた。


「仲良くなり過ぎても、ならなくてもダメ。難しいところだねぇ」


 そうなのよね、と私はもう一度外を眺めた。

 城の三階にある部屋からは、中庭の豊かな木々が目に入る。風にそよぐ緑を見ていると気持ちが安らぐわ。


 あれ、椰子やしの木の上に黒猫がいる。夕日のせいかしら、瞳が黄金色に輝いて見えるわね。


 ん? あのすらっとした美しい体と、黄金の首輪は――。

 そんなことを考えてるうちに黒猫がこちらに跳んだ。そして私のわきを横切って、部屋の中に着地する。


猫女神バステトっ!」


 ウヌウヌが同時に声を上げて、黒猫はもやに包まれた。


「にゃぁん〜人型になるのは久しぶりにゃあ」


 さらりと長い黒髪をかきあげながら現れたのは、妖艶ようえんな美女――人型のバステトだった。


 うわぁ、相変わらず目のやり場に困る!


 黒い肌に金の瞳。きつい目元にはくっきりとした瑪瑙めのうの色のアイメイク。


 ぴったりと体にはりついたチュニックは真珠のように光沢のある白で、太ももがあらわになるほどの深い切込みスリットが入っているの。胸元も大きく開いていて――女の私が見てもドキドキしちゃう!


 もちろん神様らしく、頭からは猫耳が、お尻からはふんわりとした長い尻尾が伸びているわ。


「久しぶりにゃあアルシノエ。また可愛らしくなったにゃあ」


 バステトはすべるように近づいてきて、人差し指でくいっと私のあごを持ち上げた。そんなに近くでジロジロ見ないで〜とドキドキしているうちに、突然私の耳元にふっと息を吹きかけた。


「きゃあっ」


「にゃ、やっぱりまだウブなのにゃあ」


 彼女は腰をくねらせながらくすくす笑う。毛の長い尻尾も、私をからかうようにゆらゆら揺れていた。


「ちょっとバステト! アルシノエで遊ばないでちょうだいっ!」


 ウヌトがプンプン怒りながらやってきて私の頭を抱きしめた。この二人って仲が悪いのよね……それにしても、ウヌトのおっぱいやわらかいぃ……!


「にゃ、ちょっと挨拶しただけにゃあ」


 黄金の瞳を細めて笑うと、バステトは私のほっぺをつついた。


「それにしても久しぶりにゃ、確かファラオに即位した時に会って以来かにゃ」


「そうね。宮殿には寄りつかないあなたが、突然どうしたの?」


 彼女はペロリと小さな舌を出す。


「にゃぁん、黒犬神アヌビス時神トートに頼まれたのにゃ。アルシノエの近くにいてくれって」


 そんなことより、と言いながら、バステトが私の耳もとに口をよせる。また何かされるかと身構えたけど、今度はひそひそ話だった。


「アルシノエ、婿殿との関係がなかなか進展しないのかにゃ?」


「え? ……って、きゃあ、耳たぶかじらないでよ〜!!」


「こういう風にせまってみればいいのにゃ。別に女が積極的でもいいにゃ」


 えぇぇぇと悲鳴をあげると、私の頭を抱えるウヌトの力が強くなった。


「アルシノエはあんたと違って純粋なのっ! 放っておいてちょうだい!」


「おっぱいが大きいだけのウヌトは黙っていてほしいにゃあ」


「な、なんですって!?」


 まずいわ、女神のケンカが始まっちゃう! しかも私の頭を抱えたり耳をなめたりしながら……!!


 二人を止めてくれるんじゃないかと期待して、唯一の男性ウヌヌを探せば――あ、部屋のすみで獣型になってる! しかもお尻を向けてプルプル震えて。こらっ、おびえてる場合じゃないわよぉ!


「にゃ、アルシノエ、ここは私に任せるにゃ」


「ま、任せるって何を……?」


「婿殿と仲良くなる方法にゃ」


 バステトはにこりと笑う。うわぁ笑顔にすごみがある。しかも鋭い歯が怖いぃぃぃぃ!


「あのにゃ、旅行にいくのにゃ」


 ところが、バステトの提案は意外と可愛かった。驚いて見返すと、今度はほっぺをなめまわしてくる。


「そうにゃ。宮殿を出て、愚弟と蠍女神セルケトの目の届かないところに行くのにゃ。そうすれば、彼奴等きゃつらの目を気にせず、婿殿と一緒にいられるにゃ」


「な、なるほど……」


 でも、とウヌトが黒耳をぴんと張って口をとがらせた。


さそりなんてどこにでもいるわよ。王都を離れても、どこで蠍の情報網に引っかかるかわからないわ!」


「にゃーん、そのためにあたしが来たにゃん」


 バステトは長いしっぽでぴちぴちとウヌトのお尻を叩いた。


「猫々情報網をなめないで欲しいにゃん。どこにいてもあたしの眷属けんぞくが蠍を見つけてくれるにゃん」


 蠍女神セルケトはあらゆる蠍の、猫女神バステトはあらゆる猫の頂点に立つ神様。だからそれぞれ眷属けんぞくたちに協力を得ることができるのよね。


 なるほど、それでアヌはバステトを呼んでくれたのね。猫ちゃんなら国中どこにでもいるし、みんな自由に動けるものね。


「にゃんにゃん、しかも舟で移動すれば完璧にゃん。蠍の駆除さえしておけば、舟内で心おきなくイチャイチャし放題にゃーん」


 い……いちゃいちゃですって!?


「上手な接吻ちゅーの仕方……あたしが実演して教えてあげるにゃん」


「やめてー!! アルシノエにそんなことしちゃダメよ!」


「ウヌトはうるさいにゃん、慣れておくことが大事にゃん」


「えぇ、なんで接吻ちゅーなのに舌を出すの……?」


 そう聞くと、なぜか二人そろって天井を見上げてしまったわ。えぇ? 私、何か変なこと言ったかしら?



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