13.ファラオ、「あんなことやこんなこと」について知る



 視界の端で菜種油のともしびがチラチラと揺れる。


 ティズカール様と私は寝台の上で向かい合っていた。

 お互い正座で。黙りこくったまま。


 二人きりだわきゃーーーーー! という脳内の大騒ぎが通り過ぎてしまうほど長い時間、ただこうしていた。


 私の中でぷくーっと困惑ふくらみ始めている。


 うーん……この後どうすればいいのかしら?


 暗くてティズカール様のお顔がよく見えないのよね。

 夜じゃなくて昼間にお呼びした方がよかったかしら? こんなに近くにいるのに、あのご尊顔を拝見できないなんて、なんだかもったいない。


 兎夫婦ウヌウヌ黒犬神アヌビスもそそくさとどこかへ消えてしまって、どうすればいいのか教えてくれる相手もいないし……。


 あぁ、そうだわ黒兎女神ウヌトが言ってたわね。「わからなくても、きっと婿殿がなんとかしれくれると思います」って。


「陛下……」


 ずっと口を結んでいたティズカール様が、なにか意を決したような雰囲気で私をよんだ。


「本当によろしいんですか?」


 ほのかな灯りに照らされて、若いオリーブのような瞳が静かな光を放つ。

 その真剣な眼差しに、私はどきりとする。


 というか――少し、怖かった。


「……招いたのは私です」


「そうですね……では」


 そう言うと、彼は体を起こしてこちらに近づいてきた。ギシリと寝台がきしむ。


 そして。


 気づいた時には、私は寝台にひっくり返っていた。


「え……?」


 何が起こったのかよくわからなくて、間抜けな声が出た。ところがその声も途中でかき消される。


「ん……!?」


 口がふさがれた。

 唇に、一瞬カサリとした感触。そして次になまめかしい熱を感じた。


 あれ、私、今、ティズカール様と、接吻ちゅー、してる?


 一拍遅れてそのことに気づいた。


 え、え、え、え、え? 本当に接吻ちゅーしてるよね?


 っていうか――


 私、ティズカール様に押し倒されてるよね?


 困惑のうちに彼が体を起こした。唇に生々しい感触が残って混乱した頭の中で、あぁこれで終わったのかな、と思った。


 けれど。


 膝立ちになったティズカール様は、ぐいと上衣シャツを脱ぐ。


 暗がりの中に硬質な体が浮かび上がって、部屋の温度がすうっと下がったような気がした。


 見上げる男の人はまるで知らない人のようで、いつもの穏やかなあの方がどこにもいない。


 そして、そびえるような高さから、大きな手が私に向かって伸ばされた。


「ひっ」


 どうしてか喉がひきつった。とっさに目をつぶってしまう。


 かさついた指先が頬をなぞって、背すじにぞくりと冷たいものを感じた。


 どうしよう、なんか――いやだ。

 大好きな人の手のはずなのに、全身が勝手にそれを拒んでしまう。


 怖い。


 まるでティズ様が見知らぬ男の人のようで。


 このまま身をゆだねていたら、どこか踏み込んではいけないところに連れて行かれそうで。


「……アルシノエ様」


 小さく名を呼ばれた。でも、返事ができない。その代わりに、


 カチカチカチカチカチカチ


 と耳障りな音が聞こえる。


 指が離れて、彼がまた体を起こした。


「怖いですか?」


 歯の根が震えて音を鳴らしている。


 それを私の答えと受け取ったのか、彼はあっけなく寝台を降りた。そしてうやうやしくひざまずく。


「怖い思いをさせてしまい、申し訳ございません」


「……ち……ちがうの」


 なんとか言葉がのどから転がりでた。でもその声ですら震えていて。


「違いません。陛下は俺が怖いんですよ。俺も……嫌がる女性とねやをともにすることはできそうにありません」


 その声が硬い。すくっと立ち上がり一礼すると、彼は部屋から出て行こうとする。

 先ほど以上の恐怖が、私の背を這い上がった。


 ちがう、本当にちがうの! 私があなたのことを嫌がるだなんて、そんなこと絶対にあるわけないのに!!


 だって、ずっと見ていたのよ。幼い頃からずっと。

 あなたのことを追いかけて、知りたくて――


 そして、“強引にあなたを婿に迎えてしまうほど”。


 そうよ、本当はあなたが怖いんじゃない。自分が恐ろしいの。


 彼を止めなきゃと思った。

 このまま、こんな風に誤解されたまま、次の朝を迎えてしまうなんて、絶対にダメ!


 でも、どうしても声が出ない。


 灯火から離れて彼が去っていく。闇に溶けて消えていく。


 じわりと瞳が熱くなった。行かないでと、ただ一言伝えたいだけなのに。


 ほろりと涙がひとすじ頬を伝った、そのとき。


 部屋の入り口で、彼がぴたりと歩みを止めた。


「これ……」


 つぶやく声が闇の中から聞こえる。


「私が贈った花ですか?」


 彼は扉の脇に活けたオリーブの花に手を添えていた。遠くのともしびをかき集めて、白い花がほのかに闇に浮かんでいる。


「そうですっ!」


 今度こそ叫んだ。


 そうです、あなたがお見舞いにくれた花です。その小さな華やぎが、私にどれだけの喜びを与えてくれたのか、あなたに知ってほしいのです。


 そう続けたいのに、声よりも涙があふれてしまってどうにもならない。


 けれど、ティズカール様は振り返ってくれた。


 ゆっくりこちらに戻って、ただし寝台から少し距離をとる。


 ちょうど窓辺から月光が射し込んで、彼のお顔がよく見えた。その冷ややかな光にさらされても、彼の瞳の色はやわらかだった。


 先ほど恐ろしいと思った、あの獰猛どうもうな光は消えていた。


「あの……」


 彼は笑った。照れくさそうな、申し訳なさそうな、なんだか複雑な表情で。


今宵こよいは私とお話をいたしませんか?」


「お話?」


 驚いて、バカみたいに繰り返す。


「そうです。その……寝台で肌を寄せ合う前に、私たち夫婦はもっとお互いをよく知るべきだと思うんです」


「お互いを、よく、知る」


 彼はうなずいた。


「正直に申し上げて、私は陛下のことをあまり存じあげない。婿入りして一年にも満たず、その間会話すらすらほとんど叶いませんでした」


 決まり悪そうに彼はまた笑う。


ケアトの初めにここに忍んで来た時にも、申し上げましたでしょう? 俺は、アルシノエ様とたくさん話がしたいのです」


 ◇


「ぎゃぁぁぁぁぁーーーーーー!!」


 夜が明けて、私は獣型の兎夫婦ウヌウヌを胸に抱えながら絶叫した。


「いやだ、ナニコレ……は、恥ずかしいっ! 夫婦ってこんなことするわけ!?」


 目の前には、ティズカール様が帰った後に真理女神マアトが持ってきてくれた巻物が広げられているんだけど……。


 その内容が、もうっ、その、あの、ちょっと、いやかなり――のよーーーーーーーー!!!!


「え、裸になって……えぇ、こ、こんな格好で?」


 体中が爆発しそうなほど熱い。ウヌウヌを抱く腕にも、やたらと力が入ってしまう。


「ねぇ、っていうことはさ」


 おそるおそるたずねる。


「ティズカール様をお部屋にお招きしたってことは……してください、って頼んじゃったってこと!?」


 兎夫婦ウヌウヌは耳をピタリと頭にはりつけてる。ちょっと、聞こえないフリしないでよ!!


「……やっと気付いたか」


 返事をしてくれたのはアヌだった。だけど、彼も窓の外を眺めて私と目を合わそうとしてくれないの!


「なんで教えてくれなかったのよ、意地悪っ!!」


「ちげーよ、アルシノエがとっとと婿殿を招いちゃうから、説明できなかったんだよ!!」


 ていうか知っとけよそれくらい、とアヌは耳と尻尾をピンとはっている。なんだか彼の頬も赤い。


「で、どうしてあんな急に婿殿を招いたんだよ」


 ぶっきらぼうに尋ねられて、私も口をとがらせた。


「だって……世継ぎを作らないと、彼が役立たずって言われちゃうと思ったから」


 “紅白じじい”に言われたんだもの。「あれがダメなら別の婿を」って。


「そんなの絶対イヤよ! 私はティズカール様が大好きで、私には彼しか必要ないんだから!!」


「……あのさ、そういうことは本人に直接言ってよ」


「言えるわけないでしょ、恥ずかしいっ!!」


「俺たちだって恥ずかしいわ!!」


 アヌがまた怒った。腕の中の兎夫婦は茹であがったように熱い。


「で、そのパピルス見てびっくりするくらいだから、一晩何もなかったんだよな?」


 そう言われて、私はぽわんと記憶をたどってみた。浮かんできたのは、唇が唇にふれて、なまめかしく感じたあの――。


「ああああああああああ! 私ティズカール様と接吻ちゅーしたわ!!」


「なんだ、接吻だけか……夜明けまでずっとそんなことしてたの?」


「やややややめてよ! そんな、ずっとしてるわけないじゃない!! アヌの変態っ!」


 アヌが尻尾を落とす。


「じゃあ何してたんだよ? 婿殿が帰ったのは明け方だろ?」


「それは、あのね……ずっとお話ししてたの」


 はぁ、とアヌはあんぐり口を開ける。


「お互いの小さい頃の話とか。彼がよく訪れたバビロニアの話とか。すっごく面白かったし、タメになったわよ!」


「そりゃ……まぁ、うん。よかったな」


「それにね、また来てくださるって言ってたわ!」


 ほう、と意地悪く笑ってアヌは机上の巻物を指差した。


「じゃ、次はこういうことするわけね」


「っ!? す、するわけないでしょ!! アヌのばかーーーーーーーっ!」

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