12.ファラオ、むこ殿との出会いを思い出す


 私が初めてティズカール様にお会いしたのは、もう十年ほど前のことになるわ。


 ううん、「お会いした」というと、誤解を招くわね。正しくは、「初めてお見かけした」、かしら。


 我が黒土国ケメトは、異邦人との交易を国が管理していてね。北から駱駝らくだに乗って運ばれた品は、異邦の商人とうちの官僚との間で取引されるの。


 先代の王パパは年に数回、交易所がある国境沿いの街を訪れていたわ。

 目的は視察だったけど――多少は気分転換を兼ねていたのかもしれないなって、自分がファラオになってみると思うわね。


 私と弟のイアフメスはよくその旅に同行したわ。

 聖河ナイルの流れに揺られる舟旅は、そりゃあ楽しかったわよ。


 岸辺で働く洗濯工の男たち。

 裸足で駆け回る子どもと、それを叱るお母さん。彼女は大きな水桶を抱えていたわね。

 網を広げて魚を捕る様子も初めて見たわ。あんな風に十人がかりで引く大きな網があるものなのねぇ。


 宮殿からめったに出ない私にとって、見るもの全てがもの珍しかったわ。


 交易所は日干し煉瓦レンガ造りの飾り気のない三階建てで、通常なら中庭があるところが市場のようになっているの。


 褐色の肌に見慣れぬ上衣シャツをまとった人々が、荷で沈みそうな駱駝ラクダを連れて、続々とやってくる。


 私は二階でパパを待っていて、窓枠に肘をつきながらその様子を眺めていた。見ていてちっとも飽きなかったわ。


 肌の色が違って互いに言葉が通じなくても、粘土板に刻まれた文字を見せ合いながら取引をしていてね。

 駱駝らくだの背から降ろされた荷も、孔雀石マラカイトや金細工みたいな華々しいものが多かったわ。


 そんな異邦の人々の中にティズカール様がいた。


 もちろんその時はお名前は存じ上げなかったわよ。異国の王子様だということも知らなかったし。


 彼は大人たちにまぎれて働く少年のうちの一人にすぎなかったはずなのよね。


 それなのに、どうしてかしら。


 気づけば私の視線は彼を追いかけていたわ。


 よく笑う男の子だなぁって、すごく印象的だったの。

 彼が笑うと周囲がつられて笑う、そういう笑顔で――。


 あぁ、そうよ、花みたいだって思ったわ。

 部屋の中に一輪ほころぶだけで、気持ちがぱっと明るくなるような。


 そんなことをぼんやり思いながら、私はパパがお仕事をする間中ずぅっと、彼の姿に見入っていた。


 最初の年は、それだけ。


 それから一年たって、また同じ交易所で彼を見かけたの。

 私の背丈がちっとも伸びないのに、彼はぐーんと背を伸ばして、とっても大人っぽくなっていたわ。幼いながらにいくらか仕事も任されているようだった。


 藍色のターバンもよく似合っていたわね。ふくらはぎとか腕の筋肉がしなやかで、顔の彫りも深くなっていて……要するにとっても格好良かったのよ。


 その時、視察から帰ってきたパパが満足そうに見せてくれたのが、美しい光芒こうぼうを放つつるぎだった。


「ほら、見てごらん、北方でしか手に入らない特別な剣だよ」


 小柄なパパが大きなお腹を揺らしながら笑っている。私と弟の前に差し出された剣は、交易所の控え室に射し込む西日を映して輝いていた。


「かっけぇ!!」


 イアフは大興奮で、その精巧なつかに手を伸ばしてパパに叱られていたわ。

 私はそれよりも、この美しい刃の素材が気になっていたんだけど。


「ねぇ、パパ、これは何でできているの?」


「鉄だよ。鉄というのは聞いたことがあるかい?」


「すごい! これが鉄なのね!! 鉄といえば青銅よりも硬く、武具の素材としては当世最強と名高いものよね! けれどその精製方法は北方の王国にしか伝わらないという、なんとも神秘的な素材!!」


「ず、ずいぶん詳しいね……」


「うん、だって多くの資源の中でも金属の確保は重大事よね。採石場や採鉱場をいかに確保し、そこにいかに労働力を供給するかということは、国の存亡に関わるでしょ。そもそも我が黒土国ケメトは金属の供給に乏しく、かつてよりシナイ半島に遠征隊を派遣して……」


 パパは苦笑した。


「まったく、アルシノエは博識で年の割にはませているな」


「ませてるだなんて失礼よ!」


「それに比べてイアフメスは年の割に幼稚だし……」


「え、ようちってどういう意味?」


 はぁ、とため息をついたパパに私は尋ねた。


「それで、この鉄剣はどうしたの?」


「マルトゥという国からの贈り物だよ」


「マルトゥ! 北の大国バビロニアと我が国の間にある小国ね。南北をつなぐ陸上交易路の要衝ようしょうに位置し、我が国にとっては交易および国防上の重要な同盟国でもあるわよね!」


「よ、よく知っているね、アルシノエ」


「だって天然の要塞ようさいに守られているとはいえ、我が国の最大の脅威きょういは北のバビロニアだわ。だから北の情勢には常に気を配らなきゃならないでしょ!」


「まぁ、お前の言う通りだね。それで、マルトゥの若い王子が、北方で入手したこの剣を贈呈ぞうていしてくれてね。まだ十五歳ほどだと聞いたが、ずいぶん頼もしい王子だったな」


 その話に、私は勢いよく立ち上がった。


「それって、青いターバンを巻いた男の子!?」


 パパがギョッとした。


「そうだよ、どうして分かったんだい?」


「ずっとパパのお仕事を眺めていたからよ。若いのに立派な男の子がいるなぁって」


「若いとはいえお前よりも五つくらい年上だぞ?」


「……あ、そうか、私もまだ九歳だものね」


 それを聞いてケタケタとイアフが笑った。


「アリィはバカだなぁ、自分の年も忘れたのかよっ!」


「あんたにだけはバカにされたくないわよ、この低脳」


「……ていのーってなんだ?」


 アホは無視して、私は目の前の剣に見入った。


 そうか、これはあの青いターバンの男の子――マルトゥの王子様が贈ってくださったものなんだ。

 そう思うと、黄昏たそがれえる鉄剣がさっきより特別に思えてくる。


 それから私は、マルトゥという国についての情報をさらにこまごまと集めたわ。


 伝統的に王は男。現王には妻が一人。息子は五人いて、娘は二人。王位は長子が継承する習わしで、次男以下は国防や交易を通して国に貢献こうけんする。


 あの方はいったいなんというお名前なのかしら? 何人目の王子様なのだろう?


 ――いつかお話しすることができるかしら?


 聖河ナイルの流れを眺めながら、あのあたたかな笑顔を思い浮かべる日々が続いたわ。そして、私にとってパパと出かける交易所への視察は、年に幾度もない楽しみになっていたのよ。


 そんな日々が数年続いて。


 私が十三歳になった年、パパがついに私を視察に連れて行ってくれることになったの!


 その頃にはイアフではなくて私が次のファラオになることがほぼ確定してたから、 私に仕事を覚えさせようと思ってくれたみたい。


 あぁ、ついにあの方とお話しできるわ! 私の胸は大きく高鳴った。


 それで気づいたのよ。


 そうか、これが侍女たちが話していた「恋」っていう――「好き」っていう気持ちなんだわ。


 期待と不安で胸がはりさけそうだった。

 でも、こんなに苦しいのに、世界がいつになくキラキラして見える。


 これ以上ないくらい丁寧に化粧をして、薔薇バラの香油をじっくり塗り込んで。ドレープたっぷりの空色のチュニックも新調したわ。


 ねぇ、マルトゥの王子様。今から会いに参ります。一目でいいの、どうか私に目を向けてください。

 でも、もしもかすかにでも微笑んでくださったら、きっと私、嬉しくっておかしくなっちゃうわ。


 パパのかげに隠れるようにしながら、私も市場への入り口をくぐった。


 でも。


 そのときの彼は――。


 ◇


「陛下、ご命令通り参りました」


 部屋の外から呼びかけられて、私は思い出の世界から引き戻された。


 胸が高鳴る。まるで、初めて彼と顔を合わせることになった、五年前のあの時のように。


「よく来てくださいました」


 私は手ずから扉を開けて、ティズカール様を招き入れた。


 そして、そのお顔を見上げる。


 ずっと憧れて、ずっとずっと大好きで、なんとしてでも手に入れたくって。婿様になってからもこんなに愛しい彼が――。


 今、夜のとばりとともに、私の寝室を訪れたのだ。


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