6.むこ殿、夫婦関係に悩む



「お兄ちゃん、いい匂いがするでちゅね〜」


 俺は見知らぬ小さな女の子を抱いて、思わず首をかしげた。


 まだ三歳くらいだろうか。淡い栗色の髪はこの国ではあまり見かけない。


 こんな子が一人で遊んでるわけないよな。そう思ってあたりを見回しても保護者らしき大人は見当たらなかった。


 いくらなんでも危険すぎるぞ。中庭には池だってあるっていうのに。


 こちらの心配をよそに、女の子はなぜか俺の胸に顔をうずめてくんくん匂いをかいでいる。


 臭いと思われるよりはいいけど……さすがに恥ずかしいな。


 と、突然。

 視界の奥に、女王陛下が現れた。しかも何かにつまずいたように、つんのめって木の陰から飛び出してきたのだ。


 目を疑った。


 こんなところに陛下が現れたのはもちろん、彼女がいかにも普通の人間のように転んだことが俺にとっては衝撃だった。


 あの完璧で隙のない陛下でも転ぶことがあるのか……。


 いやいや、そんなこと考えてる場合じゃないぞ!


 俺は腕に抱えた女の子をそっと地面におろすと、素早く陛下のもとに参じた。


「陛下、おはようございます。昨晩は大変なご無礼をいたしまして、今さらながらに大変申し訳ない思いでおります」


 とにかく謝らねば、とひざまずいて一気に言った。

 昨晩はメジェド君のいう通りに陛下に近づいたけど……やはりどう考えても失礼だった。


 焦り気味の俺に対し、陛下はきわめて冷静だ。


「別に気にしておりませぬ」


 先ほど転びかけた時に見せた人間らしさはどこへやら、そこには超然とした態度のファラオがいるだけ。


 しかも、「気にしていない」か……。むしろ少しくらい気にしていただいてもよかったのに……。いやいや、気にされてたら処罰されてしまうけれども。


 うーん、夫婦仲を築くのって本当に難しいな。処罰されないギリギリの線を狙っていかなきゃいけないんだな、うん。


「それよりも、その幼子おさなごは私の友人。こちらへ返してくださいませ」


 俺は思わず顔をあげた。

 この小さな女の子がご友人? 陛下がこの子をあやしたりするのか? 一緒に人形遊びをしたり? 想像もつかないぞ。


「それは大変失礼いたしました。重ねて申し訳ございません」


「いいんでちゅ、あたちがお兄ちゃんのところに来たんでちゅから」


 幼子の手を取り「そういうことです」とだけ言い残して、陛下はするりと背を向けてしまわれた。


 女王の小さな背中が遠ざかっていく。もちろん背すじの伸びた後ろ姿が俺を振り返ることはない。


 うーん……。

 夫婦仲を築くのって……本当に難しい。


 ◇


「ということがあったんですよ、メジェド君」


 その晩、寝台にもぐりこんだ俺は枕元の神様にこの出来事を話した。


「ふむ。夫婦仲のう……」


 メジェド君は膝をかかえている。足が布の中に収納されているので、こうなると完全にただの白い布のかたまりだ。


「ティズ君、考えすぎじゃよ。アルシノエ嬢とねんごろになりたければ、ただ押して押して押しまくればいいのじゃ」


「いやいや、そんな無茶な。不敬を働くと実家に迷惑がかかるおそれがございます。人質ひとじちの身でそれはまずいです」


「……絶対に大丈夫なんじゃけどなぁ」


 ふるふると体を横にふって、メジェド君は続ける。


「まぁ、なんにせよそんなにおくすることはないぞ。ファラオといっても、アルシノエ嬢はまだ十八歳。転びもするし、笑いもする、普通の女子おなごじゃよ」


「普通の女の子か……確かに、今日つまづいたお姿を見た時は、陛下を身近に感じましたね」


「そうじゃろ」


「でも、笑ったお顔なんてちっとも想像できないな。いつも冷静で、聡明な施政者の顔をされている。昨晩自室にお訪ねした時ですらそうでしたから」


「まぁ……たしかに、気持ちを隠して賢く振る舞うのは得意な子じゃな」


 メジェド君は厳しく眉をよせた――というか眉間みけんの布にシワが寄っている。


「しかし、ティズ君は鈍感すぎる気がするのぅ……それもそれで“せる要素”だが……」


「え? 何かおっしゃいました?」


「いや、別に。それよりも、ティズ君はもっとアルシノエ嬢と話した方がよい」


「俺もずっとそう思っているんですが……」


「では、また無理やり部屋に押し入ろうではないか。我はそういう展開が好きじゃ」


「俺はそういうのは苦手です」


「うーむ、“ギャップ萌え”は“鉄板”なんじゃがのぅ」


 また意味のわからない黒土国ケメト語をぶつぶつと口にして、メジェド君はすくっと立ち上がった。


 あ、メジェド君……スネ毛がぼうぼうだ。くっ、見てはいけないものを見た気分だ。思わず目を逸らしてしまう。


「ま、大丈夫じゃよ。夫婦なんだからのぅ。また個人的に会う機会も訪れるて」


 ◇


 それからしばらくは静かな日々が続いた。


 どうやら毎朝俺が黒土国ケメト語の読み書きを学ぶ中庭は、陛下の寝所と会議場を結ぶ通路に位置しているらしい。


 あれ以来、毎朝お顔を拝見するようになった。

 俺がご挨拶を差し上げて、陛下は鷹揚おうようにうなずいて去る。そういうやり取りが朝の日課に加わった。


 これまでほとんど顔を合わせてこなかったので、こんな小さなことでも大きな進歩に感じてしまう。


 そして俺の黒土国ケメト文字の習得も順調に進んでいた。


 そもそも日常会話はできるのだから、あとは文字と文語の法則を覚え、読み書きできるようになればいいだけ。


 とりあえずは行政文書に使用される神官文字だけ理解できればいいんだ。王墓に刻まれるような由緒正しい文字は後回し。


 この国では、文字を扱える者こそが官僚であり神官でもある。


 だから、まずは文字だ。

 文字を自由に扱えれば、故郷でつちかった商取引の経験をここでも活かすことができるはず。


 俺は愛されない夫ではあるが、せめて役に立つ男ではありたい。


 ◇


「すごい……これが聖河ナイルの最盛期か」


 その日、俺は王都郊外の丘を登った。

 三人の従者と案内係のメジェド君とともに、汗をぬぐいつつ赤土の緩やかな上り坂を進む。


 丘からの景色は圧巻だった。

 どこまでも続く赤茶けた砂漠を悠然と貫いて、どっしりとした聖河ナイルの流れが北へ伸びる。


 俺が婿入りしたペレトには、聖河ナイルの流れは細く、その両岸に黄金こがね色の帯が広がっていた。

 川の流れが続く地平の果てまで麦が穂を揺らしていて、その時も息をのんだなぁ。


 一年中乾いた国から来た俺としては、あまりに贅沢ぜいたくな光景だったからね。これだけ実ればみんないくらでもパンが食べられるぞと感動したよ。


 黒土国ケメトは豊かだ。

 そしてその恵みが、今まさに聖河ナイルの流れによって運ばれている。


「舟もたくさん出ていますね。あの大きな舟がのせているのは花崗岩ですか?」


「そうじゃ。増水期は水運の季節でもある。黒土国ケメトでは重い物を運ぶ時はケアトを待つ。増水期には舟の航行範囲がぐーんと増えるからの」


 メジェド君の説明に深くうなずいた。

 陸上の運輸手段は人力と駱駝らくだ。輸送力ではどう考えても舟に劣る。


「北方の大国では、大河の洪水被害が深刻ですが、黒土国ケメトではどんな対策を?」


「洪水は起きない。聖河ナイル太陽神ラーをはじめとする神々によって十分に統制されているのじゃ。神々に捧げる民の祈りに不足がなければ、聖河ナイルが荒れることはない」


「な……なるほど」


「だからファラオの儀式が重要なんじゃ。民の祈りが我々にとどこおりなく届くよう、儀式を行い、神殿を建て、供物くもつを捧げる。ファラオは“神の牧人まきびと”だと言うじゃろ? 民を信仰へと正しく導き、“黒土国ケメト”を繁栄させる――ファラオはそういう存在なんじゃよ」


 そんな話を聞くと、彼女の部屋に押し入ったことが余計にそら恐ろしくなる。


 ファラオの存在は、俺の想像を遥かに超えた、この国の要であるらしい。


 夫婦仲を良好に……。

 そんなこと彼女にとっては考える価値すらないことなのかもしれない。


 そんなことを思い悩みながら宮殿に戻った俺のもとに、神官が一人かけてきた。その男は、大事なしらせを届けてくれたのだ。


「え、女王陛下が病でお倒れになった……?」



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