7.ファラオ、発熱で大混乱する



 このケアトファラオである私の公務は、目が回るほどにぎゅぎゅう詰めだった。


 まぁ、例年ケアト、つまり聖河ナイルの増水期は忙しいんだけどね。


 石切場のある遥か南のアスワンから花崗岩を運び出すのは、聖河ナイルの水運を大いに活用できる今しかできないでしょ。


 それに、この季節は農地が聖河ナイルに沈むから、人手も大量に余るのよ。


 仕事のない農民たちを集めて、ファラオの勅令で公共のお仕事に励んでもらう。

 そして働いてくれた民には毎日の生きるかて――小麦や野菜や果物など――を配給する。


 ちなみに、特に人気があるのはなんといっても玉葱よ! 魔力を秘め、お薬にもなるから当然よね。


 というわけでケアトの私のお仕事は、人々に職と食を与えることなのよ。


 私はいつにも増してバリバリ働き、部屋に戻ればひたすら眠る。

 そんな毎日を繰り返していたのよね。


 あ、でもね、最近は毎朝中庭でティズカール様とご挨拶できるようになったの! こんな嬉しいことってないわ!


 だけど、そんな喜びを顔に出すことすらできないのよ。


 だって、愚弟イアフメスと、その守護神がどこで見ているのかわからないのだもの。


 ティズカール様を――カマドにくべられた私のお人形のような目に合わすなんて――そんなことは絶対にさせないんだから……!


 そうなの、最近ね、ヤツの嫌がらせが日に日に加熱しているの。


 私の歩く先々に犬のふんを撒き散らしたり(これにはアヌビスも大激怒していたわ。俺をバカにしてんのか、ってね)、それから私の部屋の扉に落書きをしたり、私の服を破いたり。


 ここまでくると、頭にくるよりも呆れてしまう。


 これがもう十八になった立派な王族がすることかしら!? イアフったら子どもの頃から何一つ成長していないじゃない!!


 とはいえ、公務と嫌がらせの波状攻撃は、私の体力をごりごり削り取っていたみたいで……。


 聖河ナイルの増水が最盛期を迎える頃、私はついに高熱を出して寝込んでしまったのよ 。

 あぁ、なんて情けない……。


 ◇


「ひどいお熱ねぇ……」


 黒兎女神ウヌトの手が私のおでこにふれている。あぅー冷たくて気持ちいい。


 寝台で亜麻布にくるまって、私はゴホゴホと咳をした。うぅ、喉が痛いよぉ、寒気がするよぉ。


「ごめんねぇウヌウヌ」


「いやだアルシノエ、何を謝ってるのかしら?」


「そうだよ、さぁ、薬パンを食べて」


 熱で気弱になった心に、二人の優しさがみるわ。


 一日中寝込んでいる私の足元に、アヌビスもずっとうずくまっている。


 人間の友達のいない私にとって、いつでもそばにいてくれるこの三人の神様は、本当に心の支えなの。病気のときは、そういうことを強く感じちゃうわね。


 困ったことに、夜が明けても熱は下がらなかった。

 もう一日寝台でうんうん唸って牛乳に浸した薬パンも食べて、それでまた夜が明けても熱がひかない――。


 どうしよう、三日も寝込んでるじゃない。このままじゃ公務が遅れちゃう……。


 それにこの三日、一度もティズカール様のお顔を拝見していないのよ。このままじゃ心が干からびて、生きたままミイラになってしまうわ。


「大丈夫か、アルシノエ?」


 ぐったりと眠りに落ちて目を覚ますと、めずらしく隼神ホルスまでもが枕元にいた。


 あら、いつもの高笑いがないわね。極太の眉があんなに垂れ下がって――心配かけちゃってるわね。


 そりゃあそうよね、先代のファラオ、つまり私のパパは、風邪をこじられせて亡くなったから……。隼神ホルスは特にパパと仲良しだったもんね。


「やだなぁ……ちょっと熱があるだけよ」


「そうだな、大丈夫だな」


 そう言いながら彼は調理着エプロンの腰紐を結びはじめる。


「食欲が出てきたら、消化にいいものを作ろう。俺の火力の見せどころだ」


「ありがと。私、甘い麦粥がいい……ハチミツたくさん使ったやつ……」


 熱でボーッとしながらホルスの調理着エプロン姿を眺める。うーん、むきむきの体に調理着エプロンも悪くないわねぇ。


 隼神ホルスは火を司る神様だから、カマドの火も彼の支配下なの。だから料理もとっても上手よ。


「アルシノエ、しっかりするでちゅ」


 ホルスのわきから幼い少女が現れて、私の寝台にすがりつく。


真理女神マアトまで……だめよ、風邪がうつったら大変」


「あたちは見た目は幼いでちゅけど、神様だから風邪はひきまちぇんよ」


 あぁ、そりゃそうよね……ダメだわ、頭が働いてない。


「ほら、もう寝なよ」


 アヌビスがぶっきらぼうに亜麻布をかけてくれた。


「うん……もう一回寝る……」


「よく休むでちゅよ」


「また来る」


 隼兄妹きょうだいが鳥型になり、窓から去っていく。


 空の深さに彼らが吸い込まれていくのを見守ると……どうしよう、とたんに心細くなるわ。


 ……本当にまた来てくれるかな。


 小さい頃、私の周りにはたくさんお友だちがいたの。でも、今は誰もいない

 そんな風にホルスたちも消えていかないよね……?


「ねぇ、ウヌト……」


「どうしたの? アルシノエったら、なんだか泣きそうよ?」


「私が眠るまで……手を握っていてほしいの……」


「あら……もちろんよ、寝ている間中、ずぅっと離さないわ」


 ありがとうと言って、私はまた眠りの世界にもぐりこんだ。


 ◇


 ――ひどいよイアフ! なんで私のお友だちに意地悪するの!?


 ――アヌ、聞いて……今度はメリトちゃんが怪我したのよ……もう彼女も一緒に遊んでくれないわ。


 ――イアフがね、みんなにデタラメばっかり吹き込むの。私が裏でみんなの悪口言ってるって……ねぇ、どうしてみんなそれを信じちゃうのかなぁ……。


 ――うん、私もういいの。アヌたちがいればそれで幸せよ。それでね、立派なファラオになるわ。お友だちと遊んでる暇なんかないわよね……たくさんお勉強しなきゃいけないんだもの。


 ◇


 あ、夢……。


 私は重たいまぶたでゆっくりと瞬きした。


 小さな頃の夢を見たんだわ……。イヤだわ、もうどうでもいいことなのに、なんで夢に見たのかしら。熱の時って変なこと思い出しちゃうのね。


 でも少し体が楽になった気がする。やっと熱が下がったのかなぁ。


 あら? ウヌトったら、本当にずっと手を握っていてくれたんだわ。疲れたでしょうね、悪いことをお願いしちゃった……。


 私の手を握る、彼女の手をじっと見つめる。


 なんだかすごく安心するわね。誰かがそばにいてくれるって、本当に嬉しいことよね。


 その手は大きくて、ゴツゴツしていて、いかにも頼りがいが……ん? ウヌトの手ってこんなに男らしかったかしら?


「陛下、お目覚めですか?」


 ……!?


 心臓が跳ね上がった。こ、この声……そして、私の手を握っている、褐色のたくましい手……ま、まさか……?


 おそるおそる声の主を見上げる。少し困ったような表情で、こちらをみつめている彼は――。


「てぃ……ティズカール様……?」


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