5.ファラオ、幼女に嫉妬する



 まったくもう! アホな弟にからまれて、最低な朝だわ!


 私は石の廊下をバシバシと踏みつけながら歩く。くそぅ、いっそ私もこの靴底にあいつの顔を刻んで、毎日踏みつぶしてやろうかしら……!?


 いや、やめましょう……あんな低能と同じことをしてもしようがないわ。


 弟イアフメスは幼いころから全然変わらない。


 五歳の時、彼からおもちゃの人形を取り上げられたことを今でも強く覚えてるわ。

 木製で、赤と黄色で彩色された、髪の長いお人形。私のお気に入りのおもちゃ――ううん、おもちゃというより大事なお友だちだったわ。


 それを私の手から奪い取った弟は、泣きながら追いかける私を振り払って、調理場に飛びこんだ。

 その後の光景を、私は今でも忘れることができない。


 彼はそのお人形をかまどに放りこんだのよ……!


 めらめらと燃える炎の中で崩れていくお人形ともだち。そして泣きじゃくる私を指差して笑う弟。


 イアフメスは徹底的に“意地悪”だった。

 そして、成長するにつれて、“意地悪”の域にはおさまらない蛮行も目立つようになっていったわ。


 私のお気に入りはどんどん消えてなくなっていった。朱色のリボンがついた軟膏箱も、黄金虫スカラベの胸飾りも。


 目の前で壊されたこともあれば、気づいたら無くなっていたこともある。


 いずれにしても、悲しむ私を見てケタケタと弟が笑っていたことは事実よ。


 そして、私の本当のお友だち――小さい頃から仲良しだった貴族のある女の子が危うく死にかけた時、私の中でぷつりと何かが切れる音がした。


 あぁ、いやだ。暗いことを思い出しちゃったわね……。

 そうよ、こんな時こそ――。


 黒犬神アヌとともに石の廊下を進むと、衛兵たちが扉を開けてくれる。


 強い日差しが私の瞳をやいた。扉の向こうは宮殿の中庭。緑を豊かに茂らせた、宮殿内随一の贅沢区域よ。


 その中庭に出ると、私はさっと近場の木の影にかくれた。


「あぁ、今日も素敵……」


 だめ、もうすでにとろけちゃういそうだわ……。


 だって、中庭にティズカール様がいらっしゃるんだもの!


 東屋あずまや調ととのえられた椅子に腰掛け、机上にパピルスを広げていらっしゃる。彼の視線はじっとそこに注がれていた。


 あぁ私、今すぐあのパピルスになりたい……。


 ティズカール様は、ここで黒土国ケメト文字を学ぶのが毎朝の日課なのよ。


 隣国マルトゥから婿むこ入りした彼は、もともと黒土国ケメトとも取引のある大きな隊商をひきいていたの。すごいわよね、立派よね!


 だから黒土国ケメト語での会話はとってもお上手なんだけど、読み書きがまだ不自由なのね。


 今日も彼は三人の従者と教育係の老神官とともにパピルスと向き合っていらっしゃる。


 その真剣な眼差しは聡明そのもの。何ごとか指摘されてはにかむお顔は神々しい。


 ――あぁ、できれば私が手取り足取り教えて差し上げたい――


 え、手取り足取り!? また私ったらナニを考えてるのかしら!?


 そういえば……ティズカール様、今でも故郷マルトゥのお召し物を着てらっしゃるのね。


 この国の男は、貧富も身分も関係なく普段はみな腰衣シェンティ一枚で過ごすの。

 上半身には一糸まとわず、自慢の赤銅しゃくどう色の肌を披露するというわけ。


 まぁ、年中暑いからね。これがこの国では一番なのよ。


 一方、ティズカール様は腰衣シェンティこそこの国のものだけれど、上半身には上衣シャツ胴着ベストを着ていらっしゃる。


 どうして黒土国ケメト風の服装になさらないのかしら……いえ、やっぱり慣れないお召物はイヤなものなのかもしれないわ。


 なんといってもまだ婿入りして半年にしかならないのですもの。


 それに、アルシノエ、よく考えなさい。

 ティズカール様が常に上半身を日のもとにさらしていらっしゃったら……あぁ、だめ、絶対直視できない――!


「アルシノエ、だらしない顔になってるよ」


 いつのまにか人型になったアヌビスにつつかれた。その手にはハンカチが握られている。


 しまった、私ったらヨダレが垂れてるっ!!


「やだわ、会議の前に。お化粧が乱れちゃう。もうっ、どうしてティズカール様って毎日あんなに素敵なのかしら!?」


「君みたいな変態に婿入りして、つくづくあのひと不憫ふびんだと思うよ俺は」


「変態じゃないわ、ただの乙女よ!!」


 小声でアヌと言い争っていると、ふいに日がかげった。


 あら、おかしいわ、今日は雲ひとつない快晴のはずだったのに。


 二人そろって空を見上げると、日差しをさえぎってこちらに飛んでくる影がある。


「めずらしいね。あれ隼神ホルスじゃない?」


 こちらへ向かって一直線に滑空してくるのは、一羽のはやぶさだった。

 羽ばたくたびに青空に炎が揺らめくから、炎を司る隼神ホルスだとわかる。


「どうしたのかしら、こちらに飛んでくるようだけど……」


 緋色の隼が頭上で旋回し、私たちのもとに舞い降りた。その羽は、炎が揺らめくような猛々しい光沢を放っている。


 そして、その背から転がるようにひな鳥が地面に着地した。


 あら、真理女神マアトも一緒だったのね!


 二羽の鳥たちはすぐに人型に変化した。


「やぁアルシノエ、アヌビス。久方ぶりだな、ははははははは」


 緋色の髪を猛々しくのばした筋肉質な男の神様、隼神ホルス。この黒土国ケメトの熱気よりもさらに暑苦しい彼は、太陽神ラーの第一子なの。


 人型になっても、背中には大きな翼がたたまれているわ。

 人間の見た目年齢でいうと、二十代半ばって感じかしらね。


「おひさしぶりでちゅね、会いたかったでちゅよ!」


 そして、彼の妹で、まだ幼い少女の姿をしてるのが真理を司るマアト神。


 彼女はまろぶように駆けて私に抱きついてくれた。サラサラの細い髪とふくふくの腕が超可愛いぃ!


「二人とも、元気そうでなによりね。突然どうしたの?」


「人間界に降りてくるなんてめずらしいじゃん」


「はっはっはっ! アヌビス神、君はずっと人間界ここにいるようだな」


「まぁね。なんだかんだでアルシノエの近くが落ち着くもんで」


「おにーちゃん、世間話をしている時間はないでちゅよ〜」


 妹に注意されて、ホルスはデレっとうなずく。まったく相変わらず妹が大好きなんだから!


「そうだ、今日はアルシノエに伝えておかねばならんことがあってな」


 彼の太い眉がきりりと吊り上がった。あら、あまりいい話題じゃなさそうね。


「近頃、どういうわけか蠍女神セルケトがにわかに信仰を集めている」


蠍女神セルケト……イアフメスの守護神が?」


 そうだ、とホルスは物々しくうなずく。


「イアフメスの婿入りを一年後にひかえ、守護者を失う前の最後の悪あがきに出たのか……それにしても利にさとい神官たちが、今さら王弟イアフメスの側につくとは考え難い。太陽神ちちうえはその裏に何かあるのではと懸念しておられる」


ファラオの位が今さらあの愚弟にうつるはずもないのに……いったいなんだってんだ」


 アヌビスも首をひねってる。


「また情報が入り次第飛んでくる……あ、マアト、勝手に動き回るな!!」


 深刻な話に飽きてしまったのかしら、気づけばマアトはよちよちと中庭を歩きまわっていた。


 あ! ちょっと、そっちはダメよ!!


「こんにちはでちゅ〜」


 彼女がたどたどしく向かっていったのは、ティズカール様のもとだった。


「こんにちは、どうしたの? 一人じゃ危ないよ」


 突然の幼子おさなごの登場に、ティズカール様は驚いて立ち上がる。


「だっこぉ〜」


「かわいそうに、親と離れちゃったのかい? いったいどこの子だろう?」


 そしてふわりと彼女を抱き上げると、優しい笑みで頭を撫でた。


 ああっ!! ずるいっ!!


「おにいちゃん、いいにおいがするでちゅ」


 ああああああ、マアトったら今度はティズカール様のお胸にスリスリしてぇぇ!!

 ダメよ、ずるすぎるっ!!


 私は涙目でそれを見守るしかない。


 うぅ悔しいよぉ〜私も幼児に戻って、無邪気に彼の胸に抱かれたいぃぃぃ……って、胸に抱かれるですって!? いやぁ、アルシノエのエッチ!!


「ふむ、真理女神アマトに気に入られるとは。はっはっはっ、婿殿は人間にしてはずいぶん心が清らかなようだな」


「純粋な少年ガキっぽいとこあるもんね、あのひと


 嫉妬に狂う私の横で、ホルスとアヌビスが感心している。


 ふん、何よいまさらそんなこと! 私が選んだ婿様だもの、そんなの当たり前でしょ!


 それよりもマアト……はやくティズカール様から離れなさいよぉぉぉぉ!



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