4.ファラオ、弟に踏みつけられる



 ふわぁ、よく寝た。


「おはよう、アルシノエ」


「よく眠れた?」


 窓から射し込む光に目を覚ますと、兎夫婦ウヌウヌが人型で忙しく動き回っている。


「おはよー。うん、よく眠れたわ」


 足元には黒犬がうずくまっている。アヌビスは朝が苦手なのよね。このまま寝かしておいてあげましょ。


「さ、顔を洗って。今日も忙しい一日になるんでしょ?」


 白兎神ウヌヌが水をたっぷり入れた桶を運んできてくれて、その隣では妻の黒兎女神ウヌトが亜麻布と小瓶を持ってニコニコしている。


 手で水をすくって顔を洗う。その後はウヌトに手伝われて、夜着を脱いで全身をぬぐってもらった。

 寝てる間にも、けっこう汗ってかくものよね。


 その間、男の神であるウヌヌは隣室で別の作業。いくら神様だからって、男の人に裸を見られたら恥ずかしいもの!


 小瓶に入っているのは薔薇バラの香油よ。これを全身にぬりこんで上品に香らせたら、今度は着替え。


「さて、本日のアルシノエの予定は神官との会議ね。議題はファイユム低地の干拓について、と」


「言わないでぇ〜、案件が重いよぉ〜」


「だって予定が分からなきゃ服も決められないでしょう?」


 彼女の黒耳にピンと力が入った。香料・衣装・宝飾品・化粧。いわゆる「美容とオシャレ」は彼女にとって一番力が入るところなのよね。


「さぁ、今日のチュニックは濃緑と白の縞模様ストライプにしましょうね。肩には薄手のショールを羽織って、はやぶさの胸飾りで留めましょう。少しいかめしい意匠いしょうだけれど、若いあなたの威厳を高めるにはちょうどいいわ」


「うん、わかった」


「チュニックの色が目立つから、装飾品アクセサリーは落ち着いたものを。白硝子しろがらす耳飾りイヤリング腕輪ブレスレッド、それから足にも同じものを飾りましょう」


「はーい」


「腰にはこの帯を。琥珀金エレクトラムをふんだんに使った逸品よ。新しく作らせたの。珊瑚さんご瑪瑙めのうのビーズがアクセントになっていて素敵でしょう」


「うんうん、すごいキレイ」


 私はされるがままに身なりを整えられていく。


 美容関係のことはこの女神様に任せておけば間違いない。私の好みまで知り尽くしているからね。


 そうそう、彼女の服装もとっても素敵よ。


 黒一色のチュニックは彼女の色っぽい魅力を引き出しているし、大きな胸の上の珊瑚さんご首飾りネックレスもまぶしいわ。


 そしてふわふわの尻尾は、紅玉ルビーでぐるりと飾られていて、黒と赤の対比がお見事。


 あぁ、ウヌトはいいなぁ、大人の魅力にあふれてて。


 こんな時、つい自分のちんまりとした体が気になってしまうのよね。


 ティズカール様の好みがウヌトみたいな女の子だったらどうしよう……。


「ねぇウヌト、今日のお化粧は大人らしさを意識してね」


「あら、いつもそういうつもりよ?」


「分かってるんだけど……でももっと大人の色気をムンムン出したいのよ」


「オトナのイロケねぇ……」


「ちょっと、私の胸を見ながら首を傾げないでくれるかしら!!」


 うふふと笑いながら、彼女は私を椅子に座らせた。そして抽斗ひきだしから化粧箱を取り出す。


「じゃあ今日は特に目元の縁取りアイメイクに力を入れましょう。唇にひく紅も、特別あざやかなものを」


「うん、お願いね」


 そうして化粧の時間が始まる。私は手鏡ごしに、自分が少しづつ彩られていくのを見守った。


 うん、この時間って、本当に気合いが入るわ。


 化粧をすると寝ぼけた気分が吹き飛んで、一気にお仕事の気持ちに切り替わるの。


 そうよ、たとえ背も胸も小さくても、私はファラオ。今日もバリバリ働いてやるわ!!


 けれどそんな私のやる気を邪魔するように、隣の部屋で白兎神ウヌヌの悲鳴があがった。


「あぁぁぁぁ!!」


 あぁ、何かしら……また大騒ぎの予感……。


「アルシノエのサンダルがぁぁぁぁ!」


 黒兎女神ウヌトとともに駆けつけると、白兎神ウヌヌが白目をむいて私のサンダルを抱いていた。


「ひどいっ、革紐が切られてる!!」


 夫のもとに駆け寄ってウヌトも悲鳴をあげた。


「ふえぇ、なんだぁ、朝からうるさいよー」


 人型の黒犬神アヌビスも目をこすりつつやってきた。この騒ぎで目が覚めちゃったのね。


 私は白兎神ウヌヌの手の中のサンダルを取り上げた。うん、確かに革紐が……しかも明らかに故意で切られてるわね。


「ぼ、僕、アルシノエの大事なサンダルを守れなかった……」


ファラオ御物ぎょぶつを守れなかったなんて……!」


「いや、あなたたちのせいじゃないわよ! こんなこと、よくあることでしょ!」


「もうだめだ、僕たち死んでおわびを……」


「私たちなんて、鍋に飛び込んでお召し上がりいただくくらいの価値しかないのよぉぉぉぉ!」


「いや、悪いのは革紐を切った犯人だから……!」


 必死になだめる私の手から、今度はアヌがサンダルを取り上げた。


「あーばっさり切られちゃったな。まぁどうせだろ。気にすることでもないね」


「うん、そうね。とりあえず修理をお願いしてみるわ」


 ファラオたる私の身につける品々は、この部屋の隣にある衣装部屋におさめてある。


 部屋には鍵をかけ、さらに一日中兵士が見張る、という厳重な体制。

 ファラオの御物はファラオそのもの――だから、たかがサンダルといえどその一部を破壊するなんて、本来は許されないことなんだけど……。


 それでも私の大事な品々はよく傷つけられたり壊されたりするの。


 誰がやってるのかは分かっているわ。

 そんなことができて、とがめを受けずにいられるのは――私の双子の弟、イアフメスしかいないもの。


「いちいち気にしたら負けよ。さ、ウヌウヌ、代わりのものを用意してちょうだい! 公務に遅れちゃう!」


 なんとか正気に戻った兎夫婦に新しいサンダルを用意してもらって、私は黄金の王笏おうじゃくを手にした。


 さて、この部屋を出るときっと――。


 ウヌウヌに見送られ、犬型に戻ったアヌビスとともに部屋を出ると、そこには当然衛兵と――弟がいた。


 まったく、予想通りね。


「やぁおはよう、アリィ」


 短く刈った黒髪、赤銅しゃくどう色の肌、そして瞳は私と同じターコイズの空色。


 大きい目も豊かなまつ毛も薄い唇も、いやになっちゃうくらい私にそっくり。そりゃあ双子ですものね、仕方ないわ。


 でも、これだけは言わせて。私はね、こんな性根がぐろぐろに腐ったようないやらしー笑い方、絶ッ対にしない。


 顔は似てても、表情まで似てたまるもんですか!


「おはようございますイアフ、いったいどうしました、私の部屋の前で」


「いやぁ、偶然通りかかったらアリィの部屋の中がずいぶん騒がしいんで、気になっちゃって」


 相変わらず白々しいわね! どうせあんたと守護神の蠍女神セルケトがやったくせに!!


「あら、そう? にぎやかだったかしらね? ごめんあそばせ」


 冷静な言葉の中にも軽くイヤミを含ませたのだけど、どうも弟はそのことに気づいていない。私の足元を見ながらニヤニヤしてるばかりだ。

 くぅ、頭も性格も悪い……!!


「では、わたくし公務があるので失礼するわ」


 するりと彼の前を通って廊下を進む。「華麗に回避」、これが最善策よ。


 ところが、弟の嫌がらせはまだ終わっていなかったのだ。


「痛っ……!」


 突然お尻に軽い衝撃を受けて、私は反射的に振り返った。


 ポトリ、と男物のサンダルが一つ落ちて、一瞬、我を失いかけた。


「ごめーん、サンダルが足に合ってなくて、飛んでいっちゃった!」


 軽薄な声はもちろん弟のもの。彼の隣で、衛兵たちは顔を真っ白くしている。


 あーそりゃみんなびっくりよねぇ……ファラオ様のおケツに小汚いサンダルをぶつけてくれたんだからねぇ!!


 いや、それよりもこの靴底の意匠いしょう――。


 王笏と殻竿からざお――どちらも王権を象徴する御物よ――を握る黒髪の少女。瞳の色は、ターコイズ。


 これって――私よねぇぇ!!!?


 コノヤロウ! 歩くたびに私のこと踏みつけて喜んでるわね!!

 しかも今、それを私に見せつけてやったってわけねぇぇぇぇ!?


 もう許さない……ひどい目に合わせてやる……ファラオの権力にものをいわせて――。


「わんっ」


 そこでアヌビスが小さく吠えた。そのおかげで沸騰しかけた頭がすぅっと冷える。


 そうだわ……アホは無視に限るのだった。


「あ、そう。では、またいつか」


 こうして私はほとばしる怒りを胸に秘めながら、なんとかその場をやり過ごした。


 あぁ、なんて最低な朝……!




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